王政復古

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王政復古(おうせいふっこ)は、君主によって統治された国家において、クーデター内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が、何等かの理由によって復活する現象である。復辟(ふくへき)、政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。

類型

王政復古は2類型に分類できる。

1つ目は、王家は制度上存在するが、立憲君主制や別の王家により旧来の王家の権力が制限された状態から、旧来の王家が権力を奪還する例である。例として、日本建武の中興(建武の新政)1333年皇室鎌倉幕府を倒して政権を奪還した王政復古)、明治維新1868年、皇室・薩摩藩長州藩の連合軍が徳川将軍家を倒して皇室による政府を樹立した王政復古)、ネパール1951年ラナ家の支配からの王政復古、2005年の立憲君主制からの王政復古)がある。

2つ目は、共和制の状態から君主制が復活する例である。イギリス1660年)、スペイン1975年フランコ独裁からの王制復古)、カンボジア1993年の内戦の収拾と民主化による王制復古)等がある。

君主制が復活しても、憲法によって君主の権力が制限されるなど、民主政体を採用した場合は「王復古」と呼ばれる場合がある。

ヨーロッパ

イギリス(イングランドおよびスコットランド)

1642年イングランド清教徒革命が起こった。革命の指導者オリヴァー・クロムウェル1649年チャールズ1世を処刑し、王政が廃止された。議会派はクロムウェルを護国卿に任命したが、その死後に護国卿を継承した子のリチャード・クロムウェルには政治力が無く、自ら辞任を申し出た。そのため、議会はチャールズ1世の子チャールズ2世に王権を返還し、1660年ステュアート朝が復活した。

フランス

1792年8月10日フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し王権を停止。翌1793年国民公会がルイ16世の処刑を議決しギロチンで殺害した。以降フランスは第一共和政へ、さらに第一帝政へと移行した。1814年ナポレオン戦争に敗れた皇帝ナポレオン1世が退位し、ルイ16世の弟ルイ18世が即位してブルボン朝が復活した。翌年、ナポレオンのエルバ島脱出によってルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオンの支配が百日天下に終わると帰国した。ブルボン朝は1830年に断絶し、オルレアン朝が成立したが、二月革命によって王政は滅んだ。以後、第二帝政の時期を経て、フランスに共和政が定着した。

スペイン

1874年1月に王制が廃止されて共和政(第一共和政)が短期間敷かれていたが、1874年に最初の王制復古が行なわれて共和制が廃止された。

1931年自治体選挙español版共和主義派が勝利したのを受けてボルボン家アルフォンソ13世が退位、第二共和政が成立した。しかし政情は安定せず、スペイン内戦の後にフランコの独裁体制が1939年に固まった。フランコ自身は王政復古を望んでいたが、王位継承権者であるバルセロナ伯フアンがフランコ体制を支持せず、フランコ自身が首相と摂政を兼ねるスペイン総統に就任して全権を掌握する体制が続いた。その後、1967年にバルセロナ伯の息子フアン・カルロスが国王候補に指名され、1975年にフランコが死去するとボルボン家による二度目の王制復古が行なわれた。

ギリシャ

ギリシャ王国では1923年に総選挙で共和派が勝利した。翌1924年12月の国民投票で共和制への移行が決定し、国王ゲオルギオス2世は亡命した。しかし汚職の横行と世界恐慌の影響で政治的に行き詰まり、1935年11月3日の国民投票で王政復古が決定した。その後、1967年にパパドプロス大佐のクーデターによって国王コンスタンティノス2世が追放され、1973年に共和制の復活が宣言され、翌1974年12月の国民投票でも承認された。

アジア

日本

建武の中興

元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇鎌倉幕府を打倒して政権を奪還し、建武の中興(新政)を始めた。天皇自身が武力を用いて政権を奪還した例であり、この点では明治維新王政復古よりも、より純粋な意味での王政復古であるといえる。英語には "Kemmu Restoration"(建武の復古)と訳される。

明治維新

慶応3年12月9日1868年1月3日)、明治天皇の名により天皇親政を宣言した。王政復古の大号令とも呼ばれる。内容は(1)摂関制度(摂政関白)の廃止(2)(慶喜の)将軍職辞職を勅許(3)江戸幕府の廃止(4)(新たに)総裁、議定、参与の三職を置くというもので、江戸幕府の廃絶と、天皇による新政府の成立を宣言するものであった。明治天皇は15歳と少年期であり、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家薩摩藩長州藩が掌握していたが、形式上は天皇が権力を直接行使する政治(天皇親政)を宣言するものであった。

王政復古の大号令は、慶応3年10月14日1867年11月9日)に将軍徳川慶喜が政権を返上(大政奉還)し討幕の大義名分が失われたため、討幕派であった岩倉具視や大久保利通らが、倒幕の大義名分を得るために決行したクーデターであった。その後に倒幕は成就し、明治維新が実現した。

中国

辛亥革命後の民国6年(1917年)に、朝の廃帝である愛新覚羅溥儀が、再び皇位に復帰した。この時に、溥儀の治世で使われた元号である宣統が再使用され、日付も“民国6年”から“宣統9年”に変更された。この溥儀の復位は張勲復辟と呼ばれている。しかし、溥儀の復辟は12日間で撤回され、日付も“民国6年”に復った。

カンボジア

1970年3月17日、当時の国王ノロドム・シハヌークが外遊中に、ロン・ノルによるクーデターによって王制が打倒され、クメール共和国が樹立。以後、民主カンプチアヘン・サムリン政権、カンボジア内戦等の激動の歴史を経て、国民議会総選挙により1993年に立憲君主制を採択。シハヌークが国王に復位し、王制復古が実現した。

ネパール

1951年

ネパール王国ゴルカ朝(シャハ朝)では、1846年以来ラナ家が独裁権力を掌握して宰相を世襲し、シャハ家は名目のみの王家となっていた。1950年、トリブバン国王はインドに亡命。宰相モハン・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナはトリブバンの孫で3歳のギャネンドラを国王に擁立するが、これは周辺諸国の承認を得られなかった。

1951年2月、トリブバン国王はインドから帰国すると、104年間にわたるラナ宰相家による支配の終わりを宣言した。

2005年

2005年2月1日、ギャネンドラ国王は、シェール・バハドゥル・デウバ首相を解任、議会を無期限解散し、国王による直接統治(国王親政)を宣言。立憲君主制から絶対君主制への「復古」を行った。しかしこれは反独裁運動の高まりを招き、2006年4月に親政は終焉する(ロクタントラ・アンドラン)。

関連項目