畠山高政

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畠山高政
時代 戦国時代
生誕 大永7年(1527年
死没 天正4年10月15日1576年11月5日
幕府 室町幕府紀伊河内守護
氏族 畠山氏(畠山尾州家)
特記事項 ※諱の「高」の字は第11代将軍足利義高(のちの義澄)から賜ったものではない[1]

畠山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代紀伊河内国守護大名戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。

生涯

大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる[2]

高政が若年の頃の畠山氏は、天文15年(1546年)に摂津国舎利寺の戦いで、三好政長に勝利するなど細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗していたが、河内国における実権はほぼ守護代の遊佐長教に握られている状態だった。しかし、天文20年(1551年)に長教が暗殺されたのを契機として天文22年(1553年)に家督を継ぐ。

同年の足利義輝三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知安見宗房を援軍に送るなど長慶との同盟関係を維持していたが、天文末年には長慶と近かった実力者の遊佐太藤を次第に遠ざけるようにし、永禄元年(1558年)11月30日には太藤と強い関係であった宗房との対立が表面化し、居城の河内高屋城を追放されてに逃れる。その後、三好氏の力を借りて永禄2年(1559年)8月2日、宗房らを追放して高屋城に復帰するも、永禄3年(1560年)に今度は長慶と対立して宗房と和解する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・宗房らは没落した。

河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また紀伊国においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年(1561年)、細川晴之細川晴元の次男)・六角義賢と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。

永禄5年(1562年)3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好実休を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。

永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝三好三人衆らに討たれる(永禄の変)と、家督を弟の畠山秋高(政頼)に譲り、義輝の実弟である足利義昭(当時は義秋)の擁立に奔走し、将軍にするための援助を続け、三好家の家中分裂が起きると松永久秀方に与する。

永禄11年(1568年)には上洛してきた義昭および織田信長に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。上洛後は在京している姿が記録に見える。家督は譲ったとはいえ、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いでは河内に下向して義昭・信長と共に戦っている。

なお、遊佐信教・安見宗房が高政の弟・秋高を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年の指摘によると、この追放劇は『足利季世記』などの軍記物にしか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。

天正元年(1573年)、信長派だった弟の畠山秋高が義昭派の信教に殺されると挙兵し、河内に進攻したが敗北、紀伊に後退する。また、天正3年(1575年)には信長によって高屋城は破却された。

その後は河内・紀伊を流浪して、天正4年(1576年)10月15日に失意の内に死去した(50歳)。晩年はキリスト教の洗礼を受けた。池田丹後守、伊地地文太夫らと関わりがあったため、彼らからキリスト教を紹介されて洗礼を受けたのではないかと推測されている[3]

脚注

  1. 畠山高政は大永7年(1527年)生まれで、この当時義高(義澄)は将軍職を辞しているので偏諱を受けていない。また、伯父(父・政国の兄)の畠山稙長が義澄より後に将軍に就任(復帰)した足利義稙(1度目に就任の間は義材と名乗っていた)の1字を受けていることからもそのことが言える。
  2. 多くの系図類によれば政国の嫡男とされているが、森田恭二の研究によると畠山晴熙(政国の弟)の子とする説もある
  3. 結城了悟「キリシタンになった大名」(聖母文庫)190ページ

参考文献

  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。
  • 小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』清文堂出版、2003年。

関連項目


先代:
畠山政国
河内畠山氏 (尾州家)
畠山高政
次代:
畠山昭高