白河小峰城

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白河小峰城
福島県
別名 小峰城、白河城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 三重櫓(複合式層塔型3重3階 1632年築・1991年木造復元)
築城主 結城親朝
築城年 興国元年/暦応3年(1340年
主な改修者 丹羽長重
主な城主 白河結城氏蒲生氏丹羽氏
松平氏阿部氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 三重櫓・太鼓櫓・門
位置 北緯37度7分57.91秒
東経140度12分49.56秒

白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、福島県白河市陸奥国白河郡白河)にあった日本の城。単に小峰城ともいう。同市内にある白川城址と区別するため、白河城とはあまり呼ばれない。国の史跡に指定されている。ほか、日本100名城の1つに含まれる。

概要

阿武隈川谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城である。東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城若松城と共に「東北三名城」の1つにも数えられている。周辺は城山公園として整備され、公園内には結城氏阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」や「白河バラ園」(6月のみ営業)がある。

平成23年(2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立入禁止となっていたが、平成27年(2015年4月19日に小峰城復興式が開催され復興式終了後に入城可能となった[1][2]

歴史

近代以前

白河小峰城は南北朝時代興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。

天正18年(1590年)、城主の白河結城氏豊臣秀吉奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、寛永4年(1627年)に丹羽長重が10万石で棚倉城福島県棚倉町)から移封されると、幕命により寛永6年(1629年)より城郭の大改築に着手、3年の歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した。

その後丹羽氏榊原氏本多氏奥平松平氏越前松平氏久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが、慶応3年(1867年)に最後の阿部氏が棚倉藩に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。

翌慶応4年(1868年)、白河小峰城は戊辰戦争奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した(白河口の戦い)。

近現代

明治6年(1873年1月14日廃城令では存城とされた。城跡には曲輪土塁石垣水堀を残すのみだったが、平成3年(1991年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、平成6年(1994年)に前御門が当時の史料[3]に基づいて復元された。

平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(13番)に選定された。

東日本大震災での被害

平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災により、三重櫓の崩壊には至らなかったものの数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があった[4][5][6]。曲輪上にあった白河バラ園や公園・石碑等も崩壊し、震災以後は本丸への立ち入り禁止となった[7][8]。特に三重櫓下段の曲輪の崩壊被害は大きく、小峰城入口からも確認できた。このほか、公園内売店は一部損傷があったが、城壁前方の芝生や城内に植えられていた桜はおおむね被害は無かった。

2011年秋から修復工事が行われているが、完全な復旧には5年程かかる見込み。上記のように2015年4月から入城可能となり、2018年度の全面修復を目指している[9]。なお、白河バラ園は閉園となった。

御三階櫓

白河小峰城の御三階櫓は寛永9年に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった[10]。三重櫓の建つ櫓台に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている[10]。この三重櫓は慶応4(1868)年に起こった戊辰戦争によって焼失し、現在の物は1991年に復元された物である。

復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、数少ない木造復元天守の1つである。戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できる。

屋根

雨漏り、腐朽を防ぐため、葺土を用いない引掛桟瓦葺工法を使用している。

瓦の文様は、松平定信の家紋である梅鉢である。

石垣

さまざまな大きさの石を積んだ乱積を用いている。石垣は地場産の白河石。火に弱く、火災による劣化が見られる。


大規模な木造建築は日本では建築基準法で原則禁止されているが、白河城では人の立ち入りを想定しない工作物として建築許可を得たのち、完成後に見学者を内部に入れるよう変更した。これは一種の「脱法行為」であるとの観点から問題となったが、後に問題なく立ち入れるようになった[11]

現存建造物

多くの城内の建造物が焼失または破却により失われたが、二の丸入口付近の太鼓門西側に建てられていた太鼓櫓は明治6年(1873年)に民間に払い下げられ、三の丸の紅葉土手に移築された後、昭和5年(1930年)に福島地方裁判所 白河支部の近くに移築され、現在は茶室として利用されている。2度の移築により、建物そのものは改造され原型は大きく損なわれているが、当時の面影を今に伝える唯一の建物遺構である。

平成22年(2010年8月5日、国の史跡に指定された。

伝説

  • おとめ桜の伝説
寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所にはの木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。

ギャラリー

所在地・交通

主な登場作品

参考文献

  • 北日本近世城郭検討会編 『東日本大震災による城郭被災の復旧と建造物』 北日本近世城郭検討会、2013年 
  • 加藤理文 『日本から城が消える:「城郭再建」がかかえる大問題』 洋泉社〈歴史新書〉、2016年 

脚注

  1. 小峰城復興式と桜まつり
  2. 小峰城復興式と桜まつり
  3. 「白河城櫓建絵図」市重要文化財
  4. 小峰城石垣崩落、鶴ケ城にひび - 福島民報2011年3月12日付)
  5. 白河市小峰城の石垣崩壊 - 福島県を写真と記事で紹介(2011年4月29日エントリー) ※「豪魔術」による個人ブログ。
  6. 鈴木功「史跡小峰城の災害復旧」{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  7. 白河小峰城のご入場について - 行って!みっぺ!!白河(白河観光物産協会)
  8. お城について(白河小峰城) - 福島の空(NTT東日本)
  9. 福島の文化財復旧着々 沿岸部は先行き見えず河北新報
  10. 10.0 10.1 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社 2007年
  11. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}

関連項目

外部リンク