硝石

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硝石(しょうせき、nitre[1]niter[1]saltpeter[1])は、硝酸塩鉱物の一種。化学組成は KNO3硝酸カリウム)、結晶系斜方晶系。日本における古名は、煙硝、もしくは焔硝(えんしょう)。


性質・特徴

参照: 硝酸カリウム

硝酸カリウムが天然に産出する形態が硝石である。硝酸カリウムは窒素化合物の一種で、英語の「窒素」(nitrogen)は、硝石(niter)に由来する。

染料肥料など、製造に窒素が必要な製品の原料として、昔から用いられてきた。特に酸化剤(爆発時の酸素源)として黒色火薬の製造に必須の火薬材料で、黒色火薬が唯一の銃砲用火薬であった時代には、重要な戦略物資であった。

また食中毒の原因となる細菌、特に塩漬け豚肉の食中毒の原因となりやすいボツリヌス菌の繁殖を抑制する作用があり、食肉の保存に必須の薬品で、ハムソーセージなど食肉加工品の製造時にとともに肉にすり込むこと(塩せき)が古くから行われている。そのため、硝石を用いた肉加工品は亜硝酸イオンと肉のミオグロビンの結合のため独特の桃色を呈する。通常のハムが加熱しても赤みを保つのはこのためであり、食品添加物として用いられる亜硝酸塩は発色剤とも呼ばれる。

硝石とよく似た性質を持つものに、チリ硝石がある。チリ硝石の主成分は硝酸カリウムではなく、硝酸ナトリウム(NaNO3)である。チリ硝石は南米のチリで大規模な鉱床が発見され、ハーバー・ボッシュ法の発見以前には、世界的に重要な窒素工業の原料となっていた。

製造史

天然の硝酸カリウムは、土壌中の有機物や、動物の排泄物に含まれる尿素、またそれが分解することによって生じたアンモニアなどの窒素化合物を、自然環境下に存在するバクテリア亜硝酸菌硝酸菌が分解する過程で、アミノ酸態やアンモニウム態の窒素化合物が硝酸イオンに酸化され、カリウムイオンと塩を形成することによって得られる。

水溶性で、土中に生成した硝酸カリウムは、雨が降ると深層に拡散してしまう。また硝酸カリウムは植物の根から養分として吸収される。このため表層土に硝酸カリウムが蓄積するためには、土中の有機物が豊富で、雨がかからず、植物が生育していないといった条件が揃わなくてはならない。硝石は古くは、雨の降らない乾燥地帯や、床下や穴蔵など、この条件を満たす環境の地表の土から採取された。

中国内陸部、スペインイタリアのような南ヨーロッパエジプトアラビア半島、や西アジアイランインドなど乾燥地帯では、天然に採取されている。一方、北西ヨーロッパ東南アジア日本のような湿潤多雨な地域では天然では得がたく、おもに人畜の屎尿を原料にして、バクテリアによる酸化による生成を人工的に導く生産方法が工夫された。

ドイツフランスイギリスのような北西ヨーロッパでは、糞尿が浸透した家畜小屋土壁から硝石を得ていた。また、東南アジアでは、伝統的に高床式住居の床下でを多数飼育してきたため、ここに排泄された鶏糞、豚糞を床下に積んで発酵熟成させ、ここから硝石を抽出したほか、熱帯雨林洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われてきた。

また、何十年かたった古民家の床下の土を集め、温湯と混ぜた上澄みに炭酸カリウムを含む草木灰を加えて硝酸カリウム塩溶液を作り、これを煮詰めて放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となる。この方法を「古土法」といった。

フランスでは硝石採取人という職業があり、国王からあらゆる家に立ち入って床下を掘る特権を与えられていた。古土法による硝石は別名「ケール硝石」と呼ばれていたが、輸入物に比べて品質は低かった。生産量は年間300トンほどであり、需要を満たすには足りず、インドなどの輸入が大きな割合を占めていた。フランス革命の時代になると、イギリスとの外交事情からインドからの輸入が困難になった。そのため、風通しのいい小屋に窒素を含む木の葉や石灰石・糞尿・塵芥を土と混ぜて積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出させる「硝石丘法」が発明される。硝石丘法は採取まで5年余りを要するが、土の2 - 3%もの硝石を得ることができたため、ナポレオン戦争の火薬供給に大きな役目を果たした。硝石丘法は他の国でも行われ、幕末の日本にも伝来している。

日本と琉球王国といった中華世界を統治した王朝、これらと深い友好関係を結んでいた高麗李氏朝鮮といった朝鮮半島国家が軍事で火器用の火薬として重用した黒色火薬の原料のひとつである硫黄の大輸出国であった。しかしこれらの政権は倭寇の問題もあり、自らへの軍事的脅威となりうる日本へのもうひとつの原料、硝石の供給と生成技術の伝播を固く禁じて火器の普及を妨げていた。但し、琉球王国は独自に東南アジアとの貿易経路を確保していたために東アジア型の火器は早くから普及していた。しかし、戦国時代鉄砲伝来以降、欧州系の火器の伝来とともに南蛮貿易による東南アジアからの硝石供給の道が開け、日本は大陸のアジア諸国に一足遅れて火器の時代に本格参入することとなった[2]。当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化への試みが始まる。古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法が発見され、各地で行われていた。 五箇山では「培養法」という、サクと呼ばれるや石灰屑、の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され[3]、硝石を潤沢に生産するようになった。この方法は後に五箇山を支配した加賀藩によって秘匿され五箇山は流刑地として管理下に置かれた。培養法の知識が伝わったのは隣接した飛騨・白川に限られ、他の地域では行われなかった。

日本では幕末まで、主に古土法で硝石を得ていた。古土法による生産量は少なかったが、江戸期に入って社会が安定したことにより火薬の需要が減り、国内での全需要を古土法で賄えるようになった。幕末期になると、日本にも硝石丘法が伝来した。しかし既に1820年ごろ、チリのアタカマ砂漠において広大なチリ硝石の鉱床が発見されており、安価なチリ硝石が大量に供給されるようになっていた。また火薬そのものも進化し、硝石を原料としない火薬に需要が移ったため、土から硝石を得る硝石生産法は、やがて全く姿を消した。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 文部省編 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年。ISBN 4-8181-8401-2。
  2. 中島楽章 (March 2011). “銃筒から仏郎機銃へ : 十四~十六世紀の東アジア海域と火器”. 史淵 148: 1-37. NAID 40018769571. http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/recordID/19793. 
  3. 板垣英治、「五箇山の塩硝」 大学教育開放センター紀要 (1998) 第18号, p.31-42, hdl:2297/1467

関連項目