神功皇后

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神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫[1]あり。

三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

系譜

  • 夫:第十四代天皇 仲哀天皇
    • 皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇
    • 皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。

事跡

日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、[2]戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

渡海の際は、お腹に月延石鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神社福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫宇美応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命の働きによりこれを平定したという。

武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。

また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。

今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。

実在性

新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[3]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[4]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。

明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書もあったが、1926年(大正15年)10月の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)施行以降、皇統譜上の歴代天皇の代数から外された。

明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。

日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。

また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。

系譜

神功皇后 父:
息長宿禰王
祖父:
迦邇米雷王
曾祖父:
山代之大筒木真若王
曾祖母:
丹波能阿治佐波毘売
祖母:
高材比売
曾祖父:
丹波之遠津臣
曾祖母:
 
母:
葛城高額媛
祖父:
多遅摩比多訶
曾祖父:
多遅摩比那良岐
曾祖母:
 
祖母:
菅竈由良度美
曾祖父:
清日子
曾祖母:
当摩之咩斐

系図

テンプレート:皇室古墳時代

紀年

紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している[5]。 『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。 しかしこの辺の年代はどれも十数年から数十年の誤差が生じている上に複雑なのでどの記録が正しいのかはよくわからない。ただしこの『日本書紀』の記述から推測すると二倍暦説は間違いである可能性が高い。

通説ではこの中の七枝刀を、石上神宮につたわる七支刀のことだと考えられている。

  • 通常暦説(戦前の説)

七支刀の「泰■四年」の部分を西晋の泰始4年の西暦268年と考える。暦は従来どおりの物と考える。記紀との誤差は16年。

神功皇后52年は252年であり、肖古王は三韓征伐の時の百済の王であり、この部分は日本書紀の記述は正しいと考えられる。また七支刀を奉じた時の百済の王は古尓王(234 - 286)であり、その子は責稽王(生年未詳 - 298年)であり日本書紀に出てくる貴須はその誤読であると思われる。子孫の枕流王は毎年貢物を奉じる旨を述べただけであり七枝刀を献上した古尓王とは時期を分ける必要がある。

  • 二運くりあげ説(戦後の説)

七支刀の「泰■四年」の部分を東晋の太和4年の西暦369年と考える。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[5]井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后卑弥呼に比定したため干支を2運繰り上げたという説を支持している。ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。[5]

在位年と西暦との対照表

神功皇后の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

肖像が描かれた紙幣と切手

明治時代改造紙幣にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となった。その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、中央銀行たる日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、不換紙幣の「政府紙幣」であった。

逓信省は1908年に5円と10円の高額切手を発行したが、皇后の肖像が使われた。この肖像は紙幣のそれを参考にしたものであったが、当時5円と10円は高額であり郵便料金よりも電信電話料金の納付用に使われることが多かった。また1923年関東大震災で印刷所が被災し印刷原版が破損したため1924年から日本人風の肖像に図案が変更された。そのため切手収集家から前者を旧高額切手、後者を新高額切手と呼ばれている。

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ、位置)に治定されている[6][7]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。

神功皇后の陵について、『古事記』では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、『日本書紀』では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。

承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。

その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、文久3年(1863年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている。

2008年、宮内庁日本考古学協会などの要請に応じ、五社神古墳の立ち入り調査を許可した。これは、考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、調査ではさしたる成果は上がっておらず、宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳は4世紀中から末5世紀初めの築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しく(5世紀)なるのではないかと推測される。

信仰

住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。

大分県宇佐神宮大阪府大阪市住吉大社をはじめ、福岡県福津市宮地嶽神社、福岡県大川市風浪宮、京都市伏見区御香宮神社など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市香椎宮筥崎宮、福岡県宇美町宇美八幡宮壱岐市聖母宮でも祀られている。

そのほか、以下のものがある。

ファイル:EmpressJinguInKorea.jpg
月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」

参考文献

  • 古事記』太安萬侶 撰
  • 日本書紀』舎人親王 撰
  • 岡本堅次『神功皇后』
  • 前田晴人『神功皇后伝説の誕生』(大和書房、1998年) ISBN 4-479-84049-4
  • 関裕二『継体天皇の謎 古代史最大の秘密を握る大王の正体』(PHP文庫、2004年) ISBN 4-569-66284-6
  • 神功皇后の謎を解く: 伝承地探訪録 ISBN 978-4562049707
  • 神功皇后伝承を歩く〈上〉福岡県の神社ガイドブック ISBN 978-4883450275
  • 神功皇后は実在した―その根拠と証明 ISBN 978-4896342208

神功皇后を題材とした作品

  • 黒岩重吾
    • 『女龍王神功皇后』上巻 (新潮社、1999年9月) ISBN 4-10-307305-5
    • 『女龍王神功皇后』下巻 (新潮社、1999年9月) ISBN 4-10-307306-3
    • 『女龍王神功皇后』上巻 (新潮文庫、2002年3月) ISBN 4-10-114805-8
    • 『女龍王神功皇后』下巻 (新潮文庫、2002年3月) ISBN 4-10-114806-6
  • 物語 神功皇后〈上〉ISBN 978-4886561589
  • 物語 神功皇后〈下〉ISBN 978-4886561640
  • 神功皇后伝説 第一巻「和訶奴気王と成務天皇と日本中津日子親王」 ISBN 978-4907949013

関連項目

  1. 肥前国風土記の神名帳頭注より
  2. 日本書紀、巻第九。なお古事記にはこの表現はなく建内宿禰が妊娠中の御子について尋ねた際、神託を語る前の神功皇后が神憑っていたため呼びかけに「神」という表現を用いている。
  3. Wikisource reference  (漢文) 『新唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷. - ウィキソース. 
  4. Wikisource reference 脱脱 (漢文). 『宋史』 卷四百九十一 列傳第二百五十 外國七. - ウィキソース. 
  5. 5.0 5.1 5.2 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁
  6. 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  7. 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、pp. 402-403。

外部リンク