綿貫民輔

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綿貫 民輔(わたぬき たみすけ、1927年4月30日 - )は、日本実業家政治家。自由民主党富山県連最高顧問。全国治水砂防協会会長。慶應義塾評議員勲章桐花大綬章

衆議院議長(第70代)、自由民主党幹事長(第28代)、建設大臣第55代)、国土庁長官第15代)、北海道開発庁長官第49代)、沖縄開発庁長官第18代)、国民新党代表(初代)、衆議院議員(13期)、富山県議会議員(2期)等を歴任した。日本バドミントン協会会長。

父・綿貫佐民も衆議院議員を務めた。

来歴

生い立ち

富山県東砺波郡井波町(現南砺市)生まれ。生家は代々井波八幡宮富山県南砺市井波)の宮司を務めており、綿貫自身も15代目にあたる神職である。旧制砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)卒業後、藤原工業大学予科に入学。予科在学中、藤原工業大は慶應義塾大学に吸収合併されたが、綿貫が在籍していた冶金科が戦災により廃止されたため、慶應義塾大学経済学部へ移り、卒業。

大学卒業後、鐘ヶ淵紡績(のちのカネボウ)入社。

1955年、28歳で砺波運輸(現トナミ運輸)代表取締役社長に就任。経営破綻寸前だった砺波運輸を再建して上場企業へ成長させ、経営手腕を発揮した。なお、このトナミ運輸は、郵便小包(「ゆうパック」)と提携している民間物流事業者の一つである。(郵便小包事業は旧郵政省総務省、旧日本郵政公社、旧郵便事業株式会社を経て、現在は日本郵便株式会社が運営している。)

政界入り

1955年富山県議会議員選挙に出馬するが、落選。1959年に再び県議選に出馬し、初当選を果たした。県議を2期務めた後、1967年第31回衆議院議員総選挙に出馬したが、落選。1969年第32回衆議院議員総選挙旧富山県第2区から出馬して当選(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六渡部恒三奥田敬和森喜朗村田敬次郎江藤隆美中山正暉松永光浜田幸一らがいる)。以後、13期に渡って連続当選を続けた。登院後は川島派→椎名派に所属し、1973年青嵐会結成に加わるが、同会の会合には一度も出席せずに退会した。椎名派の解散後は田中派に入会。

自由民主党

1986年衆議院議院運営委員長に就任。同年、第3次中曽根内閣国土庁長官北海道開発庁長官沖縄開発庁長官に任命され、初入閣を果たした。1990年第2次海部内閣建設大臣に任命され、2度目の入閣を果たす。翌1991年には宮澤喜一総裁の下、自由民主党幹事長に起用された。1992年竹下派分裂に際しては小渕派羽田派のいずれにも参加せず、無派閥を経て小渕派に入会した。1998年小渕恵三の首相就任に伴い、小渕派会長に就任。

2000年衆議院議長に就任。同年11月20日には、本会議場の全ての者を沈黙させる号鈴を鳴らす[1]。号鈴を鳴らしたのは1946年6月21日樋貝詮三衆議院議長以来54年ぶり。2002年12月10日、議事進行原稿を一気に2枚めくったために議題(2000年度決算採決)がまだ残っていたにもかかわらず、散会宣言を行った。宣言直後に散会の無効を宣言したが、結局決算採決は12日に改めて行われた。2003年ボローニャ大学から名誉博士号を授与される。2004年神道に功績のあった神職に贈られる「長老」の号を神社本庁より受けた。

小泉純一郎首相就任後は、自民党内で郵政族議員を中心に衆参両院議員約200人が参加した「郵政事業懇談会」会長を務め、小泉首相が推進する郵政民営化に強硬に反対。2005年郵政国会では、衆議院本会議における郵政民営化法案の採決で反対票を投じる。郵政民営化法案は参議院で否決されたため、小泉首相は衆議院を解散。衆院における採決で反対票を投じた議員は公認を受けられなかったため、党執行部による報復に反発し、自民党を離党。亀井静香亀井久興ら同じく郵政民営化に反対した議員ら5人で国民新党を結党し、同党代表に就任した。第44回衆議院議員総選挙では、富山県第3区で自民党公認の萩山教嚴を破り、13期目の当選を果たしたが、萩山に比例復活を許した。

国民新党

選挙後の内閣総理大臣指名選挙後、記者団の「誰に投票したか?」という問いに「…綿貫民輔。エヘッ!」と答えた。自民非公認組を糾合した統一会派の結成を模索したが、結局統一会派に参加した議員は野呂田芳成防衛庁長官のみに留まり、2006年12月には郵政造反組復党問題で衆議院の造反議員11人が自民党に復党している。国民新党結成に伴い、自民党に離党届を出していたが、10月21日、自民党は離党届を受理せずに除名処分を下した。

2006年3月24日には、衆院議長経験者の重鎮ながら堀江メール問題に関して懲罰委員会で質疑を行った。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、直前になって富山県選挙区無所属森田高の支援を決定し、自ら応援演説を行った。森田は当選後の2009年糸川正晃第44回衆議院議員総選挙において国民新党公認、比例北陸信越ブロック単独で当選)の民主党入党に伴い、国民新党に入党している。

2009年第45回衆議院議員総選挙に際し、自民党の河合常則参議院議員が離党を表明した際、自身の富山県第3区からの出馬見送りを発表し、河合に離党を思い止まらせた。総選挙には比例北陸信越ブロック単独で出馬するも、落選。これに伴い国民新党代表を辞任し、党最高顧問に就任した(後任の代表は亀井静香)。なお、総選挙では富山県第1区から出馬した民主党新人の村井宗明を支援して当選に貢献する一方、自身の選出選挙区である富山3区には後継候補を擁立せず、野党系無所属の相本芳彦の推薦も見送ったため、事実上自民党新人の橘慶一郎高岡市長の当選に手を貸す形になった。ただし、相本を支持しなかった背景には、綿貫の支持者の一部が支援する無所属の柴田巧への配慮もあった。

政界引退後

2010年5月7日桐花大綬章の親授式に出席した。綿貫は受章者を代表して「それぞれの分野において一層精進を重ねる決意でございます」と挨拶し、今上天皇は「長年それぞれの務めに精励し、国や社会のために、また、人々のために尽くされてきたことを深く感謝しております」と述べた[2][3]2011年4月には、長年の功績により南砺市初の名誉市民称号が与えられた[4]

2012年4月、消費税増税に反発する亀井静香国民新党代表が民国連立政権からの離脱を表明したのに対し、閣僚であった自見庄三郎下地幹郎らが反発し、国民新党は事実上分裂。亀井静香は代表を解任され、亀井静香、亀井亜紀子の両名が離党。時を同じくして同党公式ホームページの役員表から、最高顧問の綿貫、顧問の亀井久興の名前が削除された。

国民新党解散後は、古巣である自民党に対して関係改善を進め、2013年第23回参議院議員通常選挙富山県選挙区の候補者について、自身の元秘書である堂故茂氷見市長が自民党から立候補できるよう、働きかけを行った。

2016年11月2日、自民党の党紀委員会は、近年の党への貢献を評価し、綿貫の復党を正式決定した。国会議員として除名された人物の復党は同党初である[5]

政策・主張

報徳思想
江戸時代の農政家、篤農家である二宮尊徳(二宮金次郎)らが提唱した報徳思想に関心を持ち、福田昭夫らにより結成された「二宮尊徳思想研究会」にも参加した[6]。尊徳を祀る報徳二宮神社の慈善絵馬展にも賛同し、自ら揮毫した絵馬を出展している[7]

人物

  • 竹下派分裂時、竹下登小渕恵三らとも、羽田孜・小沢一郎らとも良好な関係にあった綿貫は、両派の間で板ばさみとなった[注釈 1]。やがて同期当選組が多く参加していた羽田派の方へと傾くが、結局参加を見送り、小渕派へも参加せず無派閥を選択。羽田派が離党後に小渕派に入会している。
  • 小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では、選挙区での史上最高得票数(182,185票)を記録して当選するが、この記録は奇しくも綿貫が自民党を離党した後の第44回衆議院議員総選挙において、小泉純一郎首相の神奈川県第11区における得票(197,037票)によって塗り替えられた。
  • 2004年より衆議院議長応接室に飾られている綿貫の肖像画の作者が、作品酷似(盗作)問題が取り沙汰された和田義彦であったため、波紋を呼んだ。
  • 著書において、「言うべきことは言うべきである、でなければ、相手に伝わらない」という信条を披歴している[8]。この信条の披歴をするに伴い、綿貫は自分のある経験を例示している。曰く、綿貫はある地方でそこの有力者と会食をしていたが、その相手は酒に酔って酩酊していた。そして酩酊した勢いで知事に電話して、知事を「お前」呼ばわりした[9]。綿貫は、「お前呼ばわりはよくない、親しき中にも礼儀ありだ」と注意した[10]。後日、その人物から綿貫に謝罪があったという[11]。この時は綿貫も酩酊していたらしく、声を荒らげ、その場にいた人達から「普段は優しい綿貫さんがここまで怒ったことに驚いた」と言われた[12]と綿貫は語っている。また綿貫はこのエピソードに付随させて、「酒は飲んでも飲まれるな」「日本人は酒を飲むと羽目を外してしまいがち」「日本は酔っ払いに寛容すぎる」「気持ち良く酒を飲むにはそれなりの節度が必要」という考えを披露している[13]

年譜

経歴

政歴

役職歴

政策

テレビ

  • 深層ニュース 2017.9.18 敬老の日・独創健康法 90歳政界長老の体解説

著書

  • 『21世紀をめざして』(永田書房1978年
  • 『国土づくり・100年-ジャパンからニッポンへ』(綿貫民輔国土活性化問題研究会、ぎょうせい、1991年、ISBN 4324023093)
  • 『至誠天に通ず-建設行政の新時代 建設大臣の305日』(ぎょうせい、1991年、ISBN 4324027048)
  • 『土地は、誰のものか。-地価再考』(長谷川徳之輔との共著、集英社、1993年、ISBN 4087830756)
  • 『八十一歳は人生これから』(幻冬舎、2009年、ISBN 4344981545)

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第31回衆議院議員総選挙 1967年1月29日 富山県第2区 自由民主党 47,850 19.7 4/5 - -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 富山県第2区 自由民主党 63,693 25.6 2/5 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 富山県第2区 自由民主党 64,950 23.5 2/5 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 富山県第2区 自由民主党 87,752 36.7 1/4 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 富山県第2区 自由民主党 73,356 26.4 2/5 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 富山県第2区 自由民主党 84,848 29.4 1/5 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 富山県第2区 自由民主党 71,849 27.1 1/5 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 富山県第2区 自由民主党 75,711 24.8 1/7 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 富山県第2区 自由民主党 82,092 26.6 1/5 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 富山県第2区 自由民主党 96,567 32.2 1/5 - -
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 富山県第3区 自由民主党 182,185 79.9 1/3 - -
第42回衆議院議員総選挙 2000年6月25日 富山県第2区 自由民主党 150,200 58.5 1/4 - -
第43回衆議院議員総選挙 2003年11月9日 富山県第2区 自由民主党 159,316 69.7 1/3 - -
第44回衆議院議員総選挙 2005年9月11日 富山県第2区 国民新党 120,083 41.3 1/5 - -
第45回衆議院議員総選挙 2009年8月30日 - 国民新党 ' ' - 比例北陸信越 第一位
当選回数13回 (衆議院議員13)

出典

  1. 衆議院会議録情報 第150回国会 本会議 第16号 衆議院、平成12年11月20日(国会会議録検索システム所蔵 2017年2月23日閲覧)。
  2. “皇居で大綬章の親授式 春の叙勲、綿貫元議長らに”. 47NEWS共同通信社. (2010年5月7日). http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050701000299.html . 2010閲覧. 
  3. “皇居で大綬章親授式 春の叙勲”. 産経新聞. (2010年5月7日). オリジナル2010年5月10日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100510084056/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100507/imp1005071139001-n1.htm . 2010閲覧. 
  4. 南砺市公式ホームページ
  5. “綿貫民輔氏「全て水に流したい」 自民復党が正式決定”. 朝日新聞. (2016年11月2日). http://www.asahi.com/articles/ASJC25D1BJC2UTFK014.html . 2016-11-8閲覧. 
  6. 「二宮尊徳思想研究会」『衆議院議員 小宮山泰子ホームページ | 二宮尊徳思想研究会』小宮山泰子事務所、2009年7月9日
  7. 「第34回有名人慈善絵馬展」『第34回有名人慈善絵馬展-政治家・大学教授・作家他文化人 | 報徳二宮神社報徳二宮神社
  8. 八十一歳は人生これから・152頁
  9. 八十一歳は人生これから・150-151頁
  10. 八十一歳は人生これから・151頁
  11. 八十一歳は人生これから・151頁
  12. 八十一歳は人生これから・151頁
  13. 八十一歳は人生これから・152頁

注釈

  1. 小沢から「綿貫さん、あんた帰る家がなくなるよ」と言われると、綿貫は「なくなってもいい。無派閥でもいいんだ」と語ったという(大下英治著『闘争!角栄学校』より)。

外部リンク


議会
先代:
伊藤宗一郎
日本の旗 衆議院議長
第70代:2000年 - 2003年
次代:
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先代:
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日本の旗 衆議院議院運営委員長
第42代:1986年
次代:
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先代:
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1982年 - 1983年
次代:
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先代:
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日本の旗 衆議院大蔵委員長
1980年 - 1981年
次代:
森喜朗
公職
先代:
原田昇左右
日本の旗 建設大臣
第55代:1990年
次代:
大塚雄司
先代:
古賀雷四郎
日本の旗 北海道開発庁長官
第49代:1986年 - 1987年
次代:
粕谷茂
先代:
山崎平八郎
日本の旗 国土庁長官
第15代:1986年 - 1987年
次代:
奥野誠亮
先代:
古賀雷四郎
日本の旗 沖縄開発庁長官
第18代:1986年 - 1987年
次代:
粕谷茂
党職
先代:
結党
国民新党代表
初代:2005年 - 2009年
次代:
亀井静香
先代:
小渕恵三
自由民主党幹事長
第28代:1991年 - 1992年
次代:
梶山静六
先代:
小渕恵三
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第4代:1998年 - 2000年
次代:
橋本龍太郎

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