蒋介石

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蒋 介石(しょう かいせき、繁体字:蔣介石1887年10月31日 - 1975年4月5日

中国,台湾の軍人,政治家。光緒 31 (1905) 年寧波の箭金学堂に入学し,翌年日本に短期留学。 1907年保定軍官学校に入学し,翌年日本に渡って振武学校砲兵科に学ぶ。同年陳其美の紹介で中国革命同盟会に加盟。 11年辛亥革命が起ると帰国してこれに参加,13年の第二革命にも参加したが失敗して孫文らとともに日本に亡命。翌年中華革命党加入。 23年孫文が広東軍政府を再建すると大本営参謀長となり,軍事視察のためソ連へ派遣され,24年黄埔軍官学校創設と同時にその初代校長に就任。 26年国民党二全大会で中央執行委員に選ばれ,同年3月の中山艦事件以後,反共的態度を明確にしはじめ,7月国民革命軍総司令として北伐を開始。 27年上海クーデターを起して中国共産党に対する公然たる武力弾圧を開始,国共合作を崩壊させて,南京に国民政府を樹立。 28年北京を占領して北伐を完成し,中国全土をほぼ統一。その後,党内の独裁的支配を固めるため汪兆銘,胡漢民らを排除し,華北や華南の反蒋軍閥と戦い,また共産党に対して大規模な包囲討伐作戦を実施。 31年の満州事変以後,日本への妥協と譲歩を重ねて共産党包囲作戦に全力をあげたため,国内民衆の世論は内戦停止,一致抗日を要求するにいたり,36年の西安事件で張学良らに逮捕監禁された。周恩来の調停もあって,内戦停止,国共合作へ踏切らざるをえなくなり,釈放された。 37年日中戦争勃発後,国共合作を正式に受入れ,抗日民族統一戦線を結成して対日抗戦を開始したが,38年重慶に遷都後,共産党に対する弾圧を始め,41年皖南事変を起して新四軍を全滅させるなどの行動に出た。抗日戦争時期国民党総裁,国防最高委員会委員長,連合軍中国戦区最高司令官,国府主席などの職を兼ね,党,軍,政の最高権力を一身に集め,一層独裁支配を強めた。経済的にも四大家族の1つとして,戦時体制のもとで国民経済の命脈を支配下に収めた。抗日戦勝利ののち,46年1月政治協商会議による国内政治の民主的改革を受入れたが,同年3月の国民党6期二中全会ではこれを拒否し,全面的内戦を引起した。 11月には共産党や中国民主同盟などの民主諸党派が不参加のまま制憲国民大会を開いて「中華民国憲法」を通過させ,48年初代中華民国総統に選ばれた。この間,国共内戦はアメリカの軍事的財政的援助にもかかわらず,国内民衆の支持を失い,49年 10月中華人民共和国が成立,蒋介石政権は台湾に逃亡した。総統に再選後,72年まで5選され,国民党総裁にも連続して選出され,その独裁権力を保持し続けたが,71年国連で議席を失って以後,国際的にもますます孤立を深めた。著書に『蒋中正全書』(1937) ,『中国の命運』 (43) ,『中国のなかのソ連』 (56) などがある。



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