薩摩国

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薩摩国(さつまのくに)

現在の鹿児島県西半部の薩摩半島を中心に甑 (こしき) 島列島を含む旧国。西海道の一国。中国。もと熊襲 (くまそ) 国,日向 (ひむか) 国のなかにあり,「記紀」にみえる吾田 (あた) の地があった。『続日本紀』には唱更 (はやひと) 国とあり,いまの薩摩国なりとある。薩摩隼人がこれである。和銅2 (709) 年には『続日本紀』に,薩摩,多ね (たね) の両国とあるので互いに独立した一国であったことが知られる。『旧事本紀』には薩摩国造がみえ,天平 18 (746) 年の『薩摩国正税帳』には薩摩君が郡司として記されている。『延喜式』には出水 (いつみ) ,高城 (たかき) ,薩摩,甑嶋,日置,伊作,阿多,河辺,頴娃(えの) ,揖宿 (いふすき) ,給黎 (きひれ) ,谿山 (たにやま) ,麑嶋の 13郡があり,『和名抄』には郷 34が載せられている。国府,国分寺は薩摩川内市に置かれた。律令制下,最遠国の一つとして奈良時代には班田制は施行されず,延暦 19 (800) 年にいたって初めて施行されている。平安時代中期以降には,近衛家を領家とする島津荘が成立し,その下司 (げし) として島氏が台頭した。鎌倉時代に島津忠久が源頼朝の御家人となり島津荘地頭職 (じとうしき) を安堵された。かくて島津氏は鎌倉,室町時代を通じて薩摩国のほかに日向国,大隅国の3国の守護を兼ね,天正 15 (1587) 年豊臣秀吉に攻められ降伏したが旧領3国は安堵され,江戸時代には 77万石の大名として幕末に及び長州藩と結んで討幕の中心的存在となった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で鹿児島県となった。





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