藤原師輔

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藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿歌人藤原北家関白太政大臣藤原忠平の次男。官位正二位右大臣

有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子冷泉天皇円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。

経歴

摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。延長8年(930年)頃醍醐天皇の第四皇女で4歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王降嫁された[1]承平天慶年間(931年-947年)に累進して参議を経て、権中納言となる。

平将門が乱を起こした時、藤原忠文征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄・実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。実頼は持説に固執した。世論は師輔こそが長者の発言であるとした。その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ。

天暦元年(947年朱雀天皇が譲位し村上天皇が即位する。兄・実頼が左大臣となるに従い右大臣に任じられ、正二位に叙された。出世は嫡男である実頼が常に先を行くが、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。師輔は村上天皇が東宮の時代から長女・安子を妃に入れており、その即位と共に女御に立てられ、よく天皇を助けた。安子は東宮の憲平親王を生んで中宮となり、他に為平親王守平親王を生んでいる。皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の下で師輔らが行った政治を天暦の治という。

室の勤子内親王が薨去すると雅子内親王を、雅子内親王が亡くなると康子内親王を次々に降嫁され、醍醐天皇の内親王を三人も室にして、皇室との繋がりを強めた。三人の内親王に密通し、いずれも室にした事から、師輔を『うつほ物語』の主人公の1人で「限りなき色好み」の右大将藤原兼雅のモデルとする説もある[2]

天徳4年(960年)師輔は病に伏し[3]、当時の慣習に従い剃髪出家しようとするが、村上天皇勅使を送り、師輔の必要たるを励まし慰留しようとした[4]。その甲斐なく病は篤くなり、5月2日剃髪し、同4日薨去。享年53。

師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できた事が、後に師輔の家系の全盛に繋がり、長男・伊尹を筆頭に、兼通兼家為光公季と実に五人の息子が太政大臣に昇進し、子供達の代で摂関家嫡流を手にする事となった。

人物

忠平の教育を受けた実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫に受け継がれる事になった。これを纏めた書物が『九条年中行事』である。師輔と同じく故実に通じた源高明と親交があり、師輔の三女と五女が高明に嫁いでいる。才人であった高明は師輔の後援を受けて栄進する。

また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。天暦10年(956年)「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話等が『大鏡』に記されている。勅撰歌人として、『後撰和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に36首が採録されている[5]

自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』を残す。

官歴

※主に『公卿補任』の記載による。日付は旧暦であらわす。

年紀(西暦) 年齢 事歴
延長元年(923年 16歳 9月5日 叙爵。
延長2年(924年 17歳 2月21日 侍従
延長4年(926年 19歳 11月10日 昇殿を聴す。
延長6年(928年 21歳 6月9日 右兵衛佐
延長7年(929年 22歳 正月7日 従五位上
延長9年(931年 24歳 3月13日 右近衛権少将
承平元年(931年) 24歳 閏5月11日 蔵人頭
承平2年(932年 25歳 正月27日 近江介を兼ぬ。
11月16日 正五位下
承平3年(933年 26歳 正月12日 右近衛権中将
承平4年(934年 27歳 正月7日 従四位下
承平5年(935年 28歳 2月23日 参議
承平6年(936年 29歳 正月29日 伊予権守を兼ぬ。
承平8年(938年 31歳 正月7日 従四位上
天慶元年(938年) 31歳 6月23日 従三位権中納言(7人を超ゆ)。
8月27日 昇殿[6]
9月3日 左衛門督を兼ぬ。検非違使別当となす。
天慶2年(939年 32歳 12月27日 中宮大夫を兼ぬ。
天慶5年(942年 35歳 3月29日 大納言
天慶7年(944年 37歳 4月22日 春宮大夫を兼ぬ(中宮大夫を止む)。
天慶8年(945年 38歳 2月28日 按察使を兼ぬ。11月25日 右近衛大将
天慶9年(946年 39歳 正月7日 正三位。4月28日 従二位
天暦元年(947年 40歳 4月26日 右大臣。5月9日 昇殿を聴す[7]
天暦4年(950年 43歳 5月24日以前 修理職別当[7]
天暦9年(955年 48歳 2月7日 正二位。6月17日 右近衛大将を辞す。
天徳4年(960年 53歳 5月4日 九条第にて薨去。出家大臣たるに依りて薨奏贈位なし[8]

系譜

  • 妻:藤原公葛の女
  • 生母不明の子女

脚注

  1. 『継嗣令』では、臣下は五世以下の王女でないと結婚できず、後に規定が緩和されたものの内親王の降嫁は認められていなかった。藤原良房源潔姫嵯峨天皇皇女)・藤原忠平(源順子宇多天皇または光孝天皇皇女)も天皇の娘を降嫁されているが、いずれも臣籍降下した皇女である。
  2. 山口博「藤原師輔論」『王朝歌壇の研究 村上・冷泉・円融朝篇』桜楓社1967年
  3. 風病(神経系の疾患)とされる(『新編 日本古典文学全集 31 栄花物語 1』小学館、1995年、38頁)
  4. 扶桑略記』天徳4年5月2日条
  5. 『勅撰作者部類』
  6. 貞信公記
  7. 7.0 7.1 九暦
  8. 『日本紀略』天徳4年5月、『栄花物語
官職
先代:
藤原実頼
右大臣
947 - 960
次代:
藤原顕忠
先代:
藤原実頼
陸奥出羽按察使
945 - 967
次代:
源清蔭
先代:
藤原実頼
右近衛大将
946 - 955
次代:
藤原顕忠
先代:
藤原実頼
左衛門督
938 - 942
次代:
藤原顕忠