藤原良房

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東三条殿跡・藤原良房が創設、京都市中京区押小路通釜座西北角

藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿藤原北家左大臣藤原冬嗣の次男。官位従一位摂政太政大臣正一位染殿白河殿と称される。漢風諡号忠仁公 、国公は美濃公

皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。

経歴

嵯峨天皇に深く信任された優秀な廷臣で、左大臣に昇った藤原冬嗣の次男として生まれる。弘仁14年(823年)選ばれて嵯峨天皇の皇女であった源潔姫降嫁される。当時、天皇の皇女が臣下に降嫁する事は禁じられていたが、潔姫は既に臣籍降下していたため規定の対象外であった。それでも、天皇の娘が臣下に嫁ぐという事は前代未聞であり、9世紀において他にこの待遇を受けたのは源順子宇多天皇皇女。一説には実父は光孝天皇)を降嫁された藤原忠平のみである。

天長3年(826年淳和天皇蔵人に補せられ、天長5年(828年従五位下叙爵。妹・順子皇太子・正良親王(後の仁明天皇)の妃として道康親王を生んでいた一方、良房自身も天長7年(830年)に正良親王の春宮亮に任ぜられており、正良親王に非常に親しい存在であった。また、父に引き続いて嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子にも深く信任されていた。

仁明朝に入ると、天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて急激に昇進する。天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴って従五位上・左近衛少将蔵人頭に叙任されると、同年末までに一挙に従四位下・左近衛権中将まで昇進し、翌承和元年(834年)に参議に任ぜられ公卿に列す。その後も、承和2年(835年)に従三位権中納言、承和7年(840年)に中納言と順調に昇進を続けた。

承和9年(842年)正月に正三位、7月には右近衛大将を兼任する。当時、皇太子には淳和上皇の皇子である恒貞親王が立てられていたが、7月に嵯峨上皇が崩御した直後に起きた承和の変で恒貞親王が廃され、道康親王が立太子される。これにより良房は皇太子の外伯父となると共に、大納言左近衛大将に昇進する。また、変により大納言・藤原愛発と中納言・藤原吉野が失脚して、太政官の上席は老齢の左大臣藤原緒嗣と大納言・橘氏公、及び嵯峨天皇皇子の若い右大臣源常のみになっており、良房はこの変を通じて朝廷での影響力を一挙に強めた。承和10年(843年)藤原緒嗣、承和14年(847年)橘氏公が没して、良房は太政官の次席の地位に昇り、承和15年(848年)には右大臣に任ぜられた。

嘉祥3年(850年)に道康親王が即位すると(文徳天皇)、良房は潔姫が生んだ明子女御として入内させる。同年、明子は第四皇子・惟仁親王を生み、良房は僅か生後8カ月で直ちに立太子させるが、これは先例のない事だった。嘉祥4年(851年正二位に昇り、斉衡元年(854年)左大臣・源常が没したために良房は一上となる。さらに同年左近衛大将も兼ねる。斉衡4年(857年)にはついに従一位太政大臣に叙任され、道鏡以来約90年ぶりの太政大臣として位人臣を極めた。またこの頃、国史(『続日本後紀』)編纂の責任者も務めている。

良房には嗣子がいなかったため、兄・長良の三男・基経を養子とした。また、同じく長良の娘の高子を惟仁親王に嫁がせ、次代への布石も打った。高子は在原業平との恋愛で有名で、惟仁親王より9歳も年上だった。

文徳天皇は第一皇子・惟喬親王(母は紀名虎の娘)を愛し、惟仁親王が幼すぎる事を案じて、まず惟喬親王を立て、惟仁親王の成長の後に譲らせる事を考えた。しかし、良房を憚って決しない内に天安2年(858年)に崩御してしまい、良房は9歳の惟仁親王を即位させた(清和天皇)。『公卿補任』ではこの時に摂政に就任して貞観6年(864年)に清和天皇の元服と共に摂政を退いたとするが、正史である『日本三代実録』の清和天皇即位の記事には摂政に関する記述がないことから、良房は太政大臣として天皇を後見したと考えられている(当時、太政大臣の職掌には摂政と同様に天皇の後見する役目が含まれており、当時皇族しか就けなかった摂政の職務を太政大臣として行っていた可能性がある。両者の職掌が明確に分離されたのは基経の時代である[1])。清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を終始深く信任していた。

貞観8年(866年)に起きた応天門の変では、大納言・伴善男を失脚させ、事件に連座した大伴氏紀氏の勢力を宮中から駆逐する。この年の8月19日、清和天皇は良房に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とする摂政宣下の詔を与えた。これが人臣最初の摂政である。

法制の整備に力を入れて、『貞観格式』を完成させた(格は貞観11年(869年)、式は貞観13年(871年)に公布)。

貞観13年(871年准三宮を宣下されるが、それから数ヵ月後の貞観14年(872年)9月2日薨去。享年69。没後正一位追贈され、忠仁公と諡された。

官歴

注記のないものは『六国史』による。

系譜

嵯峨天皇藤原冬嗣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淳和天皇仁明天皇
 
 
 
 
 
順子良房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恒貞親王紀静子
 
文徳天皇
 
明子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王清和天皇

生母について

藤原良房の生母については通説では藤原美都子とされるが、請田正幸は以下の点から藤原良世の生母でもある大庭王の娘が正しいとする説を唱える。

  1. 『公卿補任』の天長11年条の良房の項目において良房の母は大庭王の娘と記され、異説として藤原美都子が追記されている。また、『尊卑分脈』においても、良房の欄では母は藤原美都子とされている一方で、良世の欄では大庭王の女、忠仁公(良房)同母、と矛盾した内容になっている。
  2. 良世が著した『興福寺縁起』の長講会の部分において良房が両親の為に長講会を始めたとある。この中で良世は自分が続けなければならないところ高齢で無理なため寺領を寄付した事、また順子が先考(亡父・冬嗣)の為に寄進したことが記されているが、これを良房の母親は良世とは同じであるが順子とは違う事を意味する(順子は父親のみを供養の対象としているため)。また、先妣(亡母)は尚侍正二位に叙せられたとあるが、美都子は没後の贈位で従三位から正一位になっているので二位に叙せられた事実はない。
  3. 良房・清和天皇共に舎人親王系王氏ゆかりの宗像神を特に信仰していたが、これは良房の母方が王氏であった事を示す傍証となる。

なお、請田は良房の母に関する系図の改竄は藤原摂関家がその始祖と言うべき良房と自分達の血縁上の祖である美都子所生の長良(基経の実父)が異母兄弟である事実を不都合と捉えた事によるものであり、『大鏡』が編纂された11世紀には行われていたとする。また、請田説を取ると、良房と良相及び文徳天皇(順子所生)との対立の背景の1つとして良房と彼らの血縁的結びつきの弱さがあり、それが良房をして外孫である清和天皇の即位を推し進める一因になったと解される[4]

脚注

  1. 天皇が幼少時に摂政が任命されるという慣例は930年の藤原忠平(朱雀天皇摂政)の時に確立したと考えられているが、『公卿補任』はその原則が最初からのものと思い込んで後世に加筆されたとする和田英松の説が今日では通説とされている。
  2. 栗原弘『藤原良房と源潔姫の結婚の意義』(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年(平成20年)) ISBN 978-4-7517-3940-2 第二部第三章)P203 - P204
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 『公卿補任』
  4. 請田正幸「良房の母」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3)

出典

関連項目

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