藤堂高虎

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藤堂 高虎
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年1月6日1556年2月16日
死没 寛永7年10月5日1630年11月9日
主君 浅井長政阿閉貞征磯野員昌織田信澄豊臣秀長秀保秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
伊予今治藩主→伊勢津藩
氏族 藤堂氏
ファイル:Todo Takatora.jpg
津城址にある藤堂高虎像

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。

何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城津城伊賀上野城膳所城などを築城し黒田孝高加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることとの設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

生涯

浅井家臣時代

弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた[1]。幼名を与吉と名乗った。

はじめ近江国の戦国大名浅井長政足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ[1]、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に小谷城の戦い浅井氏織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている[2]

豊臣家臣時代

天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕える[2]。天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった[3]。秀長のもとでは中国攻め賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された[3]

天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬った[3]。また秀長の命令で雑賀党鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ[4]猿岡山城和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている[5]

天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。[6]

天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援する活躍を見せて2万石に加増される[7]。この戦功により、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された[8]。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている[9]

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる[10]

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦い鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる[11]。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。

関ヶ原の戦い

ファイル:Site of Tōdō Takatora and Kyōgoku Takatomo's Positions.jpg
関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近する。高虎は元々家康と親交を有しており[12]豊臣氏の家臣団が武断派文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与した。

慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継を相手に戦闘を行った。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治小川祐忠朽木元綱赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。

戦後、これらの軍功により家康からはこれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた。

江戸時代

藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵

その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次改易伊勢津藩主・富田信高伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となる。今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせた。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡安芸郡三重郡一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。

高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を再建(創建当時の三門は文安4年(1295年)に焼失していた)釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという(釈迦如来像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。

家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えた。

元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、弟正高下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、これで津藩の石高は計32万3000石となった。

なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に和歌山城徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国山城国に5万石が与えられた。

元和6年(1620年)に秀忠の五女・和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。寛永4年(1627年)には自分の敷地内に上野東照宮を建立している。

一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で陸奥会津藩讃岐高松藩肥後熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。

元和9年(1623年)ころから眼病を患っており、寛永7年(1630年)についに失明してしまった。同年10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。享年75。死因は不明だが、普請の際に水に浸かったため、喉を痛め下痢をしていた、それで桔梗湯を煎じて飲ませたというカルテが残っている[13]。後を長男の高次が継いだ。養子の高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。

墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市高山神社に祀られている。屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。

人物・逸話

身体的特徴

身長は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている[1][14]

高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている[15][1]

家臣への対応

  • 高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという(江村専斎の『老人雑話』)[16]。この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる[2]
  • 戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した[17]。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」[18]と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。合戦で右腕を失っており、そのため生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという[19]
  • 江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である[20]。つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている[1]

加藤嘉明との対立

慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。別の話もある。陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという(『高山公言行録』『勢免夫話草』)[16]

何度も主君を変える

  • 高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
  • 高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと羽生道英は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。

徳川家康との逸話

  • 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている[21]。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」[22]とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。
  • 関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。
  • 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康は「どうしてだ?」と訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという[23][24]
  • 秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという[25][16]
  • 元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した[26][27]

政治家

  • 武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽茶の湯を嗜む文化人でもあった[28]
  • 三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた[29]。本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

高虎と餅

講談浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが彦兵衛は「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる[30]。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。

遺言

高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事[31]、長酒はしてはならない事を述べている[27]。特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている[27]。他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している。その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している[27]

家臣

藤堂高虎を主題とする作品

小説
楽曲

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 楠戸義昭『戦国武将名言録』P72
  2. 2.0 2.1 2.2 楠戸義昭『戦国武将名言録』P73
  3. 3.0 3.1 3.2 桜木謙堂『高山公』P18
  4. 新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年) ISBN 4404023340 P168、桜木『高山公』P18では1万石加増とする。
  5. 『豊臣秀長のすべて』P169-170
  6. 『高山公実録』
  7. 『新七郎家乗』
  8. 『日本城郭大系』第10巻(新人物往来社、1980年)P187-188
  9. 『三重県の歴史散歩』P271
  10. 桜木『高山公』P23
  11. 桜木『高山公』P31に引く6月23日付けの秀吉朱印状による。尚、桜木は6月26日付けで海船総督に任じられ、幔幕と軍艦を下賜されたとする。桜木『高山公』P32には、斎藤拙堂の書を引いて日本丸を与えられたのも加増時だとしている。
  12. 桜木『高山公』P35。この頃から高虎は儒者の三宅亡羊に資治通鑑を講義させており、中国の歴史に感激していたという。桜木は、高虎は趙普のようだと述べている。
  13. 曲直瀬玄朔『医学天正記』。BS-TBSにっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)でも紹介された。
  14. 藤田達生『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』(講談社現代新書、2006年)P28
  15. 『平尾留書』
  16. 16.0 16.1 16.2 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P664
  17. 楠戸義昭『戦国武将名言録』P124
  18. 『武将感状記』
  19. 楠戸義昭『戦国武将名言録』P125
  20. 『高虎遺書禄二百ヶ条』
  21. 『忠勤録』
  22. 『徳川実紀』
  23. 山鹿素行武家事紀
  24. 『武将感状記』
  25. 古賀桐庵『良将達徳鎖』
  26. 『西嶋八兵衛留書』
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 楠戸義昭『戦国武将名言録』P49
  28. 茶の湯は秀長に仕えていた時に千利休との交流があったとされる(藤田(2006)P17)
  29. 数々の築城は大坂城豊臣秀頼と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の淡路洲本藩から伊予大洲藩への転封もこの政策の一環としている(藤田(2006)P86 - P102)。
  30. 藤堂藩家老の中川蔵人の日記には「餅を土産として渡された」とある。
  31. 楠戸義昭『戦国武将名言録』P48

参考文献

書籍
  • 『高山公実録』上巻、上野市古文献刊行会、清文堂〈清文堂史料叢書 ; 第98刊〉、1998年。ISBN 4-7924-0437-1。
  • 『高山公実録』下巻、上野市古文献刊行会、清文堂〈清文堂史料叢書 ; 第99刊〉、1998年。ISBN 4-7924-0438-X。
  • 桜木謙堂(謙二)『高山公』伊勢新聞社活版部、大正二年(近代デジタルライブラリー所収)
  • 『三重県史』
  • 『加茂町史』
  • 朝尾直弘「「元和六年案紙」について」、『京都大學文學部研究紀要』第16巻、京都大学1976年3月31日、 23-83頁、 ISSN 0452-9774
  • 久保文武 『藤堂高虎文書の研究』 清文堂、2005年。ISBN 4-7924-0593-9。
  • 藤田達生 『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』 講談社講談社現代新書〉、2006年。ISBN 4-06-149830-4。
  • 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所2006年
史料

関連項目

外部リンク

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