西園寺実兼

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西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿従一位太政大臣西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。父は太政大臣西園寺公相、母は大外記中原師朝の娘。

人物像

文永6年(1269年)、祖父西園寺実氏の家督を継ぎ関東申次に就く。大覚寺統持明院統による皇位継承問題などで鎌倉幕府と折衝にあたる。正応4年(1291年)、子の西園寺公衡に関東申次を譲ったが、公衡の死去により再度就く。当初は持明院統に近い立場に立って伏見天皇践祚に尽力したために大覚寺統と激しく対立したが、京極為兼との確執から次第に大覚寺統寄りに転換していった。元亨2年(1322年)に薨去。また、続拾遺和歌集玉葉和歌集続千載和歌集などの勅撰集に入集するなど有名な歌人でもあり、また琵琶の名手でもあった。なお後深草院二条の「とはずがたり」に登場する恋人「雪の曙」は実兼であるとされる。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

母系を通しての琵琶の伝授

実兼の生母は大外記中原師朝の娘・八十前であるが、八十前の生母は琵琶西流藤原孝道の娘・讃岐局である。実兼は母親とその実家を通して琵琶の手ほどきを受けたと考えられる。また、実兼の息男・兼季の生母は同じく琵琶西流の藤原孝泰の娘・従三位孝子であるが、孝泰の父は藤原孝道の息男・孝時である。兼季は琵琶の達人として後年活躍することになるが、父実兼同様に琵琶西流の女性達から琵琶の伝授を受けたことの影響が大きかったのである[2]

琵琶秘曲伝授の師として

西園寺家は実宗以来、しばしば琵琶御師を務めて歴代天皇に秘曲を伝授していたことが、『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』や『文机談』に見えている。弘安9年(1286年)6月16日には実兼が当時春宮であった煕仁親王(後の伏見天皇)に楊真操の秘曲伝授をおこない、同月22日には献譜したことが後深草院御記にあり[3]、伏見院御記にも同様の記録がある[4]。その他にも実兼は琵琶秘曲伝授に多く関わっていることが「故入道太政大臣殿御記」に記されていて、文永9年に藤原孝頼から伝授を受けた記録、正応4年に伏見天皇に上原流泉、石上流泉を授けた記録、同じく正応4年に鷹司冬平に啄木を授けた記録、徳治2年に藤原孝章(孝頼の孫)に啄木を授けた記録、などが残されている[5]。藤原孝頼は地下の楽人であったが、死の間際に琵琶の秘曲を伝授してくれたことを実兼は感謝し、孝頼の孫にその秘曲を伝授して家業の興隆に努めさせた他、孝頼の姪にあたる孝子を側室に迎えて兼季を儲けている[6]

一方、実兼だけでなく息男の公顕は延慶2年(1309年)10月23日に後伏見院に楊真操の秘曲伝授を行っている[7]。前権大納言兼右大将であった公顕が従一位に叙せられた理由は、この秘曲伝授にあったと推察できる[8]。正和2年(1313年)にも後伏見院は公顕から秘曲を伝授されている[9]元亨2年(1322年)8月12日に後伏見院は実兼から伝授を受けるつもりであったが、実兼が所労危急の状態なので藤原孝重(孝章の孫)から啄木の伝授をうけることになったという記録もある[10]。なお、この時に実兼から口伝の筈の秘曲に関する書きつけを渡されている(後伏見院の御記によれば、元は藤原孝道が万が一の時に備えて書き留めておいた物で、後に実兼が伝授を受けた際に時にこれを書き写したものだという。勿論、院もこれをまた書き写した[11][12]。この直後の9月10日に実兼は薨去してしまうのである。

実兼は息男公顕と兼季に琵琶秘曲伝授の役割を引き継がせていることから、琵琶秘曲伝授を家業として、または家格を特徴づけるために琵琶を重視していたのではないか、と推測できる。そのために今出川家を分立させたとも考えられるのである。

従一位の大納言

弘安6年(1283年)12月20日に堀川基具従一位に叙せられ、翌弘安7年(1284年)1月13日に大納言を辞し、そののち大臣に準じて朝参すべしという宣下を受けた。また弘安8年(1285年)3月6日には前大納言正二位行兵部卿藤原良教が従一位に叙せられ兵部卿を辞している。実兼と大炊御門信嗣は大臣でなく従一位に叙せられた3例目と4例目になるが、従一位昇叙のあとに大納言を辞することなく内大臣に昇進している点が、前二者と異なる。

実兼の女である西園寺鏱子は、弘安11年(1288年)4月27日、従三位に叙せられ、正応元年(1288年)6月2日、前年に即位した伏見天皇のもとに入内、同月8日女御、さらに同年8月20日には中宮となった。実兼が大納言兼右近衛大将のまま従一位に叙せられた背景は鏱子の入内立后にあると推察できる。この時、序列で1つ上にいた大炊御門信嗣を超越した。また伏見天皇が即位するまで実兼と大炊御門信嗣が昇進できなかったということは、本郷和人が主張するように西園寺実兼は持明院統派であった傍証であると考えられる。

前内大臣から太政大臣への補任

寛元4年(1246年)に久我通光が前内大臣から太政大臣に補任されたが、この時までに前内大臣から太政大臣に任ぜられた者はいなかったのである。久我通光の昇進を先例として、鎌倉時代に前内大臣から太政大臣に昇進したのは徳大寺実基、実兼、洞院公守土御門定実大炊御門信嗣三条実重久我通雄である。この時代、摂関家が五つに分立し摂家の嫡男が若くして大臣に昇進することが多く、加えて西園寺家から嫡男以外の大臣も輩出したため、前内大臣から太政大臣へという昇進ケースが生み出されたと考えられる。そういう中で実兼が前内大臣から太政大臣に昇進していることには一考を要する。

花園天皇による人物評

花園天皇宸記』には、「入道相国酉始事切了云〃、尤以驚歎、此相国者朝之元老、国之良弼也、仕自後嵯峨之朝、為数代之重臣、頃年以來雖遁跡於桑門、猶関東執奏不変、又於重事者預顧問、上皇誠有外祖之義、於身又為曾祖之義、旁以不可不歎、何況国之柱石也、文才雖少、久仕数代之朝、閲天下之義理多矣、為朝為身悲歎尤深者也」とある[13]。実兼が果たした役割を十分に伝える人物評である。

系譜

尊卑分脈』(新訂増補国史大系)による。

脚注

  1. 9月27日に復任するまでに家督を相続することになった。
  2. 文机談』にも琵琶西流の女性達が婚姻関係と共に琵琶の師としての役割を果たした事が記されている。
  3. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』 pp.41-42.
  4. 前掲書同箇所
  5. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、各記録。
  6. 豊永聡美「中世における天皇と音楽-御師について-」下(初出:『東京音楽大学研究紀要』19号(1995年)/改題所収:豊永「音楽の御師-鎌倉後期~南北朝-」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9)
  7. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』 pp.43-44.)
  8. 『公卿補任』正和4年(1315年)の条にはそのような記述がある。
  9. 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』 pp.53.
  10. 前掲書同箇所
  11. 『代々琵琶秘曲伝受事』所引『後伏見院御記』元亨2年8月12日
  12. 豊永聡美「後醍醐天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P108-109
  13. 『花園天皇宸記』所収、元亨2年(1322年)9月10日の条

参考文献

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