角番

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角番(かどばん)は、大相撲本場所において負け越しをした場合に、その地位から陥落するという状況である[1]。通常は、現役大関の力士に対して用いられる[2]。新聞などでは「」の漢字を「かく」「つの」等と読み間違えしない配慮で「カド番」「かど番」とかな字で表記する場合が多い。

概要

大相撲においては、基本的に本場所で負け越した場合には番付が下がる(陥落・降格)が、大関については、その地位に上がるための規則が変則的であり、異なる基準によってその陥落を決めている。大関は、本場所で2場所連続で負け越した場合に関脇に陥落する決まりになっており、1場所目に負け越した後の2場所目が「角番」といわれる。その場所で勝ち越しすれば、「角番を脱出する」と言うが、負け越すと大関から陥落(関脇以下に降格)するため、該当力士にとっての「正念場」とされる。

ただし、大関から陥落した力士に対しては救済措置として、取り組み日数の3分の2以上の勝星を挙げれば特例として大関に復帰できる。1場所の日数は毎場所15日[3]であるため、10勝以上が必要である。なお、この特例は陥落直後の1場所のみ有効であり、この場所が9勝以下であった場合は、新大関の昇進時と同じ基準(関脇・小結の地位で連続3場所33勝以上が目安)を達成しなければならない(この場合は「大関復帰」ではなく、「再度の大関昇進」の扱いを受ける)。

なお、大相撲の番付の上下については、他の力士の成績との兼ね合いに左右され、横綱・大関昇進についてはその内容までが評価対象となるが、上記の大関陥落、特例の復帰については一切考慮されず、純粋に本人の成績のみによって決まる。

制度の変遷

2場所連続負け越しでの大関よりの降下は、1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。この頃は復帰に関しての明確な規定はなかった(1949年1月場所に関脇へ転落した汐ノ海が、1950年1月場所で再び大関に復活したのが唯一のケースである)。その後、1958年に年6場所制が実施されたときに、「3場所連続負け越し」で陥落することに定められた(この制度下での大関陥落者は、松登若羽黒の二力士)。

しかし「これでは甘過ぎる」という意見も出たために、1969年7月場所からは再び「2場所連続負け越し」での降下に改められた。また、同時に特例での復帰制度が定められた。この制度変更により、大関残留の条件が「負越→負越→8勝」から「負越→負越→10勝」(しかも3場所目は一旦関脇陥落)と、少し厳しくなった。

なお、かつて大相撲で公傷制度が実施されていた時は、公傷が認められた全休場所はカウントされず、その翌場所が角番場所となっていた。公傷制度が始まった1972年1月場所当初は、大関のみ適用外であったが、1983年5月場所からは大関も公傷適用の対象に該当された[4]。しかしその後、場所中に公傷適用による休場力士が増加し、さらに当時の大関陣が休場すれば公傷と認定される弊害が多く出た理由もあって、2003年11月場所限りで公傷制度は廃止となった。

通算角番回数

2000年代に千代大海や魁皇がほぼ隔場所で角番の状態で長く大関を維持し、従来の記録を大幅に更新した頃から現行制度の見直しも論じられるようになり、横綱審議委員会から「累積5回の角番で降格や引退勧告」という具体案が出されたこともあった[5]。しかし、日本相撲協会内部で改訂が議論される迄には至っていない。また、千代大海らはカド番の数も多いが大関に在位した期間自体も長く、更に彼ら以降に長期在位した多くの大関がカド番回数の上位に入っている。

現行制度(1969年7月)以降の大関力士・角番回数

順位 角番 負越(公傷) 四股名 大関在位数 大関在位期間
1位 14回 15回 (4回) 千代大海龍二 65場所 1999年(平成11年)3月場所-2009年(平成21年)11月場所↓
2位 13回 13回 (1回) 魁皇博之 2000年(平成12年)9月場所-2011年(平成23年)7月場所
3位 8回 10回 (2回) 栃東大裕 30場所※ 2002年(平成14年)11月場所-2004年(平成16年)5月場所↓
2004年(平成16年)9月場所-2004年(平成16年)11月場所↓
2005年(平成17年)3月場所-2007年(平成19年)3月場所
4位 7回 8回 小錦八十吉 39場所 1987年(昭和62年)7月場所-1993年(平成5年)11月場所↓
琴欧洲勝紀 47場所 2006年(平成18年)1月場所-2013年(平成25年)11月場所↓
琴奨菊和弘 32場所 2011年(平成23年)11月場所-2017年(平成29年)1月場所↓
7回 豪栄道豪太郎 25場所 2014年(平成26年)9月場所-
7位 6回 7回 (1回) 武双山正士 27場所 2000年(平成12年)5月場所-2000年(平成12年)7月場所↓
2000年(平成12年)11月場所-2004年(平成16年)11月場所
9位 5回 5回 大麒麟將能 25場所 1970年(昭和45年)11月場所-1974年(昭和49年)11月場所
貴ノ花利彰 50場所 1972年(昭和47年)11月場所-1981年(昭和56年)1月場所
若嶋津六夫 28場所 1983年(昭和58年)1月場所-1987年(昭和62年)7月場所
6回 照ノ富士春雄 14場所 2015年(平成27年)7月場所-2017年(平成29年)9月場所↓
7回 貴ノ浪貞博 37場所 1994年(平成6年)3月場所-1999年(平成11年)11月場所↓
2000年(平成12年)3月場所-2000年(平成12年)5月場所↓
  • ↓印は場所後関脇に陥落。無印は大関の地位で引退。
  • なお千代大海は関脇陥落直後の場所中に、武双山と若嶋津は大関角番の場所中に、それぞれ引退を表明。
  • 「負越」した回数の内で、「括弧()内」の公傷適用による全休場所は除く。なお大関力士への公傷制度適用は1983年5月場所~2003年11月場所。
  • 魁皇(3勝8敗)・武双山(0勝4敗)・大麒麟(1勝3敗)・貴ノ花(2勝5敗)・若嶋津(0勝3敗)の引退場所は、負け越しに数えない(各不戦敗1あり)。
  • ※印の栃東は引退表明をした直後の2007年5月場所も含めると、31場所になる。またこの番付記載のみの場所も負け越しには数えない。
  • 魁皇と琴欧洲の大関在位数は中止された2011年3月場所を数えず、技量審査場所の2011年5月場所はカウントする。
  • 斜字の琴奨菊・照ノ富士は関脇以下の地位で、太字の豪栄道は大関の地位で、2018年現在も現役中。

《参考》年6場所制(1958年1月)以降現行制度(1969年5月)以前の大関力士・負越と角番回数

順位 負越 角番 四股名 大関在位数 大関在位期間
1位 12回 3回 琴ヶ濱貞雄 28場所 1958年(昭和33年)5月場所-1962年(昭和37年)11月場所
2位 9回 1回 豊山勝男 34場所 1963年(昭和38年)3月場所-1968年(昭和43年)9月場所
3位 7回 4回 松登晟郎 15場所 1956年(昭和31年)1月場所-1958年(昭和33年)11月場所↓
4位 6回 0回 北葉山英俊 30場所 1961年(昭和36年)7月場所-1966年(昭和41年)5月場所
1回 栃光正之 22場所 1962年(昭和37年)7月場所-1966年(昭和41年)1月場所
6位 5回 1回 若羽黒朋明 13場所 1959年(昭和34年)11月場所-1961年(昭和36年)11月場所↓
3回※ 琴櫻傑将 32場所 1967年(昭和42年)11月場所-1973年(昭和48年)1月場所↑
8位 2回 1回 北の冨士勝明(のち北の富士勝昭) 21場所 1966年(昭和41年)9月場所-1970年(昭和45年)1月場所↑
9位 1回 0回 朝汐太郎 (3代、のち朝潮太郎) 11場所 1957年(昭和32年)5月場所-1959年(昭和34年)3月場所↑
佐田の山晋松 17場所 1962年(昭和37年)5月場所-1965年(昭和40年)1月場所↑
玉乃島正夫(のち玉の海正洋) 20場所 1966年(昭和41年)11月場所-1970年(昭和45年)1月場所↑
  • ↓印は場所後関脇に陥落、↑印は横綱に昇進。無印は大関の地位で引退。
  • *印の松登と朝汐(3代)の大関昇進は、年6場所制となる(1958年)以前である。
  • 松登は年6場所制となった1958年の11月場所後、大関で3場所連続負け越しの為関脇に陥落(年6場所制以前の大関負越は2回・角番2回、年6場所制以降の大関負越は5回・角番2回)。
  • 北葉山・朝汐・佐田の山・玉乃島は大関で負け越し(途中休場も含む)を経験したものの、角番は一度も無かった(但し北葉山は大関で2場所連続負越の1966年5月場所千秋楽に引退)。
  • 栃光は大関で2場所連続の負け越し後、角番の1966年1月場所も5勝10敗と3場所連続負越、関脇陥落が決定的となったのを機に引退。
  • ※印の琴櫻が過去3回の角番は、1969年7月の現行制度導入以降の22場所中である(1969年5月以前の大関負越は2回・角番0回、1969年7月以降の大関負越は3回・角番3回)。
  • 北の冨士は大関在位中北の富士に改名。
  • 朝汐(3代)は横綱昇進したのち朝潮(3代)に改名。
  • 玉乃島は横綱昇進直後玉の海に改名。

大関での連続勝ち越し(角番無し)の記録

順位 場所数 四股名 前場所 大関連続勝越(角番無し)期間 次場所
1位 32場所 武蔵丸光洋 関脇 1994年(平成6年)3月場所-1999年(平成11年)5月場所↑ 横綱昇進
2位 26場所 朝潮太郎 (4代) 6勝3敗6休※ 1984年(昭和59年)1月場所-1988年(昭和63年)3月場所 1勝2敗12休
3位 20場所 琴風豪規 関脇 1981年(昭和56年)11月場所-1985年(昭和60年)1月場所 5勝10敗
4位 18場所 北天佑勝彦 関脇 1983年(昭和58年)7月場所-1986年(昭和61年)5月場所 6勝9敗
稀勢の里寛 7勝8敗 2014年(平成26年)3月場所-2017年(平成29年)1月場所↑ 横綱昇進
6位 17場所 玉乃島正夫(のち玉の海正洋) 7勝8敗 1967年(昭和42年)5月場所-1970年(昭和45年)1月場所↑ 横綱昇進
旭富士正也 関脇 1987年(昭和62年)11月場所-1990年(平成2年)7月場所↑ 横綱昇進
琴欧洲勝紀 2勝7敗6休 2008年(平成20年)5月場所-2011年(平成23年)1月場所 3勝8敗4休
9位 16場所 清國勝雄 7勝8敗 1970年(昭和45年)5月場所-1972年(昭和47年)11月場所 1勝6敗8休
10位 15場所 北の富士勝昭 7勝8敗 1967年(昭和42年)9月場所-1970年(昭和45年)1月場所↑ 横綱昇進
若嶋津六夫 関脇 1983年(昭和58年)1月場所-1985年(昭和60年)5月場所 4勝4敗7休
  • 現行の角番制度(1969年7月場所)以降で大関に在位した力士を対象。
  • 大関連続勝越(角番無し)期間の↑印は、場所後に横綱昇進した力士である(武蔵丸・稀勢の里・玉乃島・旭富士・北の富士)。
  • *印の玉乃島(のち玉の海)と北の富士の二人は1969年5月場所以前からの連続勝ち越しを含む。
    • 玉乃島(のち玉の海)は1967年3月場所に皆勤負け越し(7勝8敗)を喫したが、当時は「3場所連続負越で大関陥落」(2場所連続負越で大関角番)の制度だった。「角番無し」で数えると、新大関場所の1966年(昭和41年)11月-1970年1月の20場所(琴風と並び3位タイ記録)となる。
    • 北の富士は1967年5・7月場所を5勝10敗、7勝8敗と大関の地位で2場所連続負け越し、当時の規約で大関角番を一度経験している。
  • ☆印の武蔵丸・旭富士の二人は、大関在位中一度も負越・角番の経験無しで、横綱に昇進した。
    • 武蔵丸は新入幕の1991年11月場所から横綱3場所目の1999年11月場所まで幕内49場所連続勝ち越し(歴代3位)を記録、旭富士は前頭筆頭だった1987年1月場所から横綱6場所目の1991年7月場所まで幕内28場所連続勝ち越し(歴代4位タイ)。
  • 他に、琴風・北天佑・若嶋津の三人が新大関場所からの記録。
  • ※印の朝潮(4代)の前場所は1983年9月場所の成績。1983年11月場所は公傷により全休。
  • 太字の稀勢の里は、2018年現在横綱の地位で現役中。

関脇陥落後の復帰

大関から関脇の地位へ陥落し、転落直後の場所で10勝以上を挙げて大関に特例復帰した力士は、三重ノ海貴ノ浪武双山栃東の4人のみである。その内、三重ノ海は大関転落者で唯一の横綱昇進を果たし、栃東は2度の特例復帰を達成している。また関脇陥落場所で特例復帰の10勝を挙げられずに、のちに大関復活を果たした力士は魁傑ただ1人である(但し再昇進した4場所後に又も関脇陥落となった)。

関脇陥落場所の成績

場所 地位 四股名 成績
1972年(昭和47年)5月場所 張出関脇 前の山太郎 7勝8敗
1974年(昭和49年)7月場所 東張出関脇 大受久晃 9勝6敗
1976年(昭和51年)1月場所 西関脇 魁傑將晃 7勝8敗(のち再昇進)
1976年(昭和51年)7月場所 西張出関脇 三重ノ海剛司 10勝5敗(特例復帰)
1977年(昭和52年)11月場所 西関脇 魁傑將晃(2) 6勝9敗
1985年(昭和60年)9月場所 東張出関脇 琴風豪規 公傷→全休
1993年(平成5年)3月場所 西張出関脇 霧島一博 公傷→5勝10敗
1994年(平成6年)1月場所 西張出関脇 小錦八十吉 2勝13敗
2000年(平成12年)1月場所 西関脇2 貴ノ浪貞博 10勝5敗(特例復帰)
2000年(平成12年)7月場所 西関脇2 貴ノ浪貞博(2) 7勝8敗
2000年(平成12年)9月場所 西関脇 武双山正士 10勝5敗(特例復帰)
2001年(平成13年)9月場所 西関脇 出島武春 5勝10敗
2002年(平成14年)1月場所 東関脇2 雅山哲士 公傷→全休
2004年(平成16年)7月場所 西関脇2 栃東大裕 10勝5敗(特例復帰)
2005年(平成17年)1月場所 西関脇2 栃東大裕(2) 11勝4敗(特例再復帰)
2010年(平成22年)1月場所 西関脇 千代大海龍二 0勝4敗(現役引退)
2013年(平成25年)1月場所 西関脇 把瑠都凱斗 8勝7敗
2014年(平成26年)1月場所 西関脇 琴欧洲勝紀 8勝7敗
2017年(平成29年)3月場所 東関脇2 琴奨菊和弘 9勝6敗
2017年(平成29年)11月場所 東関脇2 照ノ富士春雄 0勝5敗10休
  • この内、公傷適用が切れて全休した琴風と雅山の二人は平幕の下位に転落。休場明けの場所で、琴風(1985年11月場所)は東前頭10枚目で0勝4敗(現役引退)、雅山(2002年3月場所)は東前頭8枚目で9勝6敗。
  • 斜字の琴奨菊・照ノ富士は、関脇以下の地位で2018年現在も現役中。

魁傑の関脇陥落直後の場所から大関再昇進直前の場所までの全成績

場所 地位 成績 備考
1976年(昭和51年)1月場所 西関脇 7勝8敗 大関特例復帰ならず
1976年(昭和51年)3月場所 東前頭筆頭 5勝10敗 金星北の湖
1976年(昭和51年)5月場所 西前頭6枚目 10勝5敗 敢闘賞
1976年(昭和51年)7月場所 西小結 5勝10敗
1976年(昭和51年)9月場所 西前頭4枚目 14勝1敗 優勝、敢闘賞
1976年(昭和51年)11月場所 西関脇 11勝4敗 敢闘賞
1977年(昭和52年)1月場所 西関脇 11勝4敗 敢闘賞、翌場所大関再昇進

大関角番で優勝した力士

角番場所 地位 成績 四股名 前場所成績 次場所成績
1975年(昭和50年)9月場所 西大関 12勝3敗(○北の湖) 貴ノ花健士(のち貴ノ花利彰) 0勝4敗11休 8勝7敗
1989年(平成元年)11月場所 西張出大関 14勝1敗 小錦八十吉 5勝10敗 10勝5敗
1994年(平成6年)1月場所 西大関 14勝1敗 貴ノ花光司 7勝8敗 11勝4敗
2001年(平成13年)7月場所 東大関3枚目 13勝2敗 魁皇博之 4勝5敗6休 0勝4敗11休
2003年(平成15年)3月場所 東大関2枚目 12勝3敗 千代大海龍二 6勝3敗6休※ 10勝5敗
2006年(平成18年)1月場所 東大関2枚目 14勝1敗 栃東大裕 2勝2敗11休 12勝3敗
2008年(平成20年)5月場所 西大関2枚目 14勝1敗 琴欧洲勝紀 2勝7敗6休 9勝6敗
2016年(平成28年)9月場所 東大関2枚目 15戦全勝 豪栄道豪太郎 7勝8敗 9勝6敗
  • 四股名は優勝当時の四股名
  • 貴ノ花健士(のち貴ノ花利彰)成績で()内は優勝決定戦
  • ※印の千代大海は前々場所の成績(前場所は公傷制度適用のためカウントされず)。
  • 「大関2枚目」のようにある表記は、張出ではなく、番付の枠内に書き出されたもの。
  • 太字の豪栄道は2018年現在大関の地位で現役中。
  • 上記の8力士共に角番大関で優勝したものの、次場所では「大関で2場所連続優勝、もしくは準ずる成績」を挙げる事が出来ず、全て横綱昇進は果たしていない。
    • 但し、☆印の貴ノ花(のち貴乃花)の一人だけが、その後1994年9月と11月場所に「大関で二場所連続全勝優勝」を達成して、1995年1月場所に新横綱と成った。

脚注

  1. 「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、76頁。
  2. 他の地位に対して用いられる例もある。例えば、2009年7月場所(名古屋場所)の出島武春は十両陥落の危機にあり、場所中の朝日新聞の記事に「幕内角番」と説明された。
  3. (国家的な行事や、突発的な大災害、また相撲界の不祥事などで、)取り組み日数に増減があった場合でも、実際に行われた日数の3分の2以上で計算する事となっている。ただし、規定改正後1度も前例は無いが、可能性が有った1例として『昭和天皇崩御(1月7日の土曜日に崩御、大相撲が翌8日の日曜日の開催予定だった)時であり、この時は更に翌9日の月曜日から23日の月曜日まで変則15日間(通常は、日曜~日曜までの15日間)に渡って行われた。
  4. 適用第一号は1983年9月場所の4代朝潮
  5. 大関陣の不甲斐なさを示す意外な数字・~カド番大関・千代大海らの罪~ SportsGraphic NuberWeb 2009/05/22 06:01