論理哲学論考

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論理哲学論考』(ろんりてつがくろんこう、: Logisch-Philosophische Abhandlung: Tractatus Logico-philosophicus)はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの著作。ウィトゲンシュタインが生前に出版したただ一つの哲学書であり、かつ前期ウィトゲンシュタインを代表する著作である。後期ウィトゲンシュタインの代表作である『哲学探究』が『探究』と略されるのに対し、この『論理哲学論考』は『論考』と略される。

第一次世界大戦のさなかの1918年に執筆され、初版はドイツで1921年に出版された。

スタイル

論理哲学が勃興しつつあったこの時代、ウィトゲンシュタインは哲学が扱うべき領域を明確に定義し、その領域内において完全に明晰な論理哲学体系を構築しようと志した。

『論考』では、言語: Sprache)の有意味な諸命題すべては各々世界の諸事態の「像」(: Bild)であるとして、言語と世界とを平行関係に考えつつその構造を解明する。全体は7章からなり、それぞれの章は、番号づけられた短い命題の集合で構成される。

内容

  1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
    • 世界とは、起きている事全てのことである。(ではなく、事実の総体であるとする)
  2. Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
    • 起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)
  3. Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
    • 事実の論理上の像が、思想(思惟されているもの、思考対象、思想内容)である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)
  4. Der Gedanke ist der sinnvolle Satz.
    • 思想は、意義を持つ命題である。
  5. Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze. (Der Elementarsatz ist eine Wahrheitsfunktion seiner selbst.)
    • 命題は要素命題の真理関数である。(要素は、自分自身の真理関数である。)
  6. Die allgemeine Wahrheitsfunktion ist:[math][\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)][/math]. Die ist die allgemeine Form des Satzes.
    • 真理関数一般は、[math][\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)][/math]と書ける。これは命題の一般形式である。
  7. Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
    • 語りえないことについては、沈黙するほかない。

注釈

意義と意味
前期ウィトゲンシュタインにおいては、フレーゲの定義を引き継いで、意味(内包的意味 : sense: Sinn)は命題が表す事態、意義(外延的意味 : reference, denotation: Bedeutung)は指し示す対象のことである。現実と言語は、名前(名辞)が対象に対応し、事実の論理形式が、命題の論理形式に対応する。
語ると示す
語りうることとは、真偽命題(しかじかが、これこれである、という事態が存在する)の形で表現可能なことであり、前期ウィトゲンシュタインにとっては、これが、言語、有意味に語りうることの領域に重なる。示しうることは、そのような形で表現可能ではないが、しかし言語によって了解させることができることである。

命題 1.*-3.*

命題 1.*-3.* とその補助命題の主要テーゼは、ウィトゲンシュタインの写像理論である。

  • 世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており、一方で命題群は世界の「像」を為している。
  • 或る一つの像が或る一つの事実を映す為には、この像は、何らかの形で、その事実と同じ論理構造を保有していなければならない。こうして、言語表現をある種の幾何学的投影とみなすことができる。そこでは、言語はさまざまに投影された可変的な形式にあたり、その言語表現の論理構造は変化しない幾何学的な関係にあたる。
  • 複数の論理構造の間で、何が共有されているかを、言語によって語ることはできず、ただ、示すことしかできない。われわれの使用している言語は、こうした関係に依存しており、その為に、われわれは、言語の外に言語によって出ることはできないからである。

命題 4.*-5.*

命題 4.*-5.* とその補助命題を通じて、ウィトゲンシュタインは論理的な理念的言語の構成のために必要になる形式的な諸装置を追究した。彼の用いた真理値表は、今では命題論理の意味論を説明するための標準的な手段となっているが、これはそれなしだった場合よりも厳密な考慮を形式論理学にもたらす。

  • 5.2522「或る形式的系列 a, O' a, O' O' a, ... の一般項を [a, x, O' x] と書くこととする。このとき、このカッコ内の記号表現は変項であり……」

命題 5.2522 は数学的帰納法を表現している。 a は述語であり、O' aa に対する操作である等々。この記法が命題6以降で用いられるが、それによって a のありうる真理関数すべての外延を示すことが意図されているのである。

命題 6.*

命題6の始まりで、ウィトゲンシュタインはすべての言明の本質的形式を仮定している。この文章は、それは部分的にはウィトゲンシュタインの独特な記法である[math][\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)][/math]の責任なのだが、一読して受ける印象ほど謎めいたものではない。ここで記号の意味を解説する。

  • [math]\bar p[/math] は要素命題を表現している。
  • [math]\bar\xi[/math] は諸命題の任意の部分集合を意味する。
  • [math]N(\bar\xi)[/math][math]\bar\xi[/math]を構成するすべての命題の否定を意味する。

命題6が実際に語っているのは、要素命題の総体に対する一連のNAND(否定論理積)演算によって、どんな論理的言明も派生させることができるということである。これは実際は、ヘンリー・シェーファーによる著名な論理学の定理であり、ウィトゲンシュタインはこれを利用している。

続く命題6の補助命題群において、かれは論理学のより哲学的反省、つまり知識や思考、アプリオリ先験的超越的、といった理念に関連する問題へと移る。最後の一節では、論理学と数学はトートロジーと先験的、超越的なものしか表現しないと論じられる。たとえば、それらは「形而上学的主体」にとっての世界=経験される現象の世界の外側に位置している。他方で、論理的に「理想的」な言語は意味を持っているのではなく、世界を反映する。そうである以上、論理的な言語の文は、事実を単に反映しているのでないなら、もはや意味あるものであり続けることはできない。

最後のページでウィトゲンシュタインは宗教的考慮ともみなされうるものへと方向を転じる。これは命題6.3と6.4の間の懸隔に見ることができる。論理実証主義者にとっては、6.4以前の『論考』の命題は受け入れ可能だろう。しかし、6.41とそれに続く命題群は、倫理もまた先験的・超越的であると論じ、言語によっては検証できないとする。それは美学の一形式であり、表現不可能なのである。自由意思、死後の生、神についてかれは論じはじめる。かれはそうした論題を検証して、そうした事柄の議論はすべて、論理の誤用であるとする。

特に、論理的な言語は世界をただ反映できるだけなのだから、神秘的な、つまり「形而上学的主体」の枠内の(主体は、世界の限界を為し、世界の内部には存在しない)現象的な世界の外部にあるものについての議論は、無意味なものとなる。このことは、倫理や形而上学などの、哲学の伝統的な論題の多くが、有意味に議論することはできない、ということを示唆する。そうしたものを論じようとしても、直ちにすべての意味が失われることになる。こうしたことはまた、言語を解き明かそうという彼自身の計画が、まさしくほかならぬこれらの理由で不可能であることを示唆する。かれは、哲学の試みは、究極的には、その外部にあるものではなくて世界を反映しようとする論理的実践のために、放棄されなければならないという。彼によれば、自然科学こそがまさしくそのような実践なのである。

テキストの最後で、かれはアルトゥル・ショーペンハウアーに由来する類比を借りて、本書を、ひとが上りきったときは放り投げなければならない梯子に引き比べている。それによって、かれは、ひとは本書の哲学を通じて哲学の全くの無意味さを理解しなければならない、と示唆しているのである。

命題 7

この書物の掉尾を飾る命題7は補助命題を持たない。優美でいささか感動的な響きのある命題によってこの書物は閉じられる。「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」。

解説

1と2から、世界は事実の総体であり、ということは成立している事態の総体のことであることになる。そして事態とは、名前が組み合わされてできる論理的な関係のことであると定義される。例えば、「花が咲く」という事態は、現実であることも現実でないこともある。

世界はこのうち現実に成り立っている事態の総体である。命題は、この際に、その事態が、現実に成立しているかどうか(すなわちその真偽)を告げる。つまり、真理関数である、というのは、その真偽を宣言するということである。要素命題が、それ自身の真理関数であるということは、「花が咲いている」という要素命題は、「花が咲いている、ということが真である、現実である」を同時に意味している、ということである。つまり、要素命題は、それ自身の真偽の値を持ち、要素命題からなる複合的な命題は、それを構成している要素命題の真偽から一義的に、論理的な計算によって定まる。

こうして、『論考』は、現実世界の対象について、その間にどのような関係が成立しているかどうかについての真偽の知識を与えない命題は、意味を持たない、ナンセンスな命題であると述べる。したがって、自然科学こそが、すぐれて有意味な言明を与えるわけである。これが、『論考』の遂行する従来の哲学、形而上学批判である。このパースペクティブにおいては、哲学的命題は、『論考』自体も含めて(『論考』の諸命題もまた、現実の諸対象と、その間に成り立っている事態について記述しているわけではない)、矛盾しているがゆえに意義を持たないか、指示対象を持ち得ないゆえに無意味な命題であることが明らかになる。「上り終えた梯子は捨て去られねばならない」哲学に残されているのは、『論考』自身のように、そのこと自体を示すことだけとなる。

こうした観点からは、自我・意志・倫理・価値・神等は、それについての命題がどのようなものであれ、世界内の事実についての記述ではありえないがゆえに、意味を持たない命題であり、語りえない事柄に属するとされる。たとえば、価値や主体や自我は世界内の存在ではなく、世界の記述のパースペクティブのことであるから、それがいかなるものであろうと、そのことによって、世界内の事実、対象の間の関係が変化するわけではない。同様に、実在論独我論との完全な一致も主張される。どちらの観点を取ろうと、言明される事実は同一だからである。

なお、『論考』が、要素命題を、名辞を含みつつも、それ以上分析できない単位としたことは、フレーゲの文脈原理を受け継いでいる。

また、語の意味を、その外延的な現実世界における指示対象によって定義し、主観的思想内容による定義を排除しようとしている点では、バートランド・ラッセルの系譜の議論を引き継ぎ、その後のやはりあくまでも外延的な指示の理論として展開する、分析哲学の意味理論の傾向を確固たるものとしたといえる。

語りえぬもの

『論考』、最後の命題「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は形而上学の終焉を告知することばとして広く知られており、現在でもしばしば引用される。しかし、大方の了解とは異なり、この言明は神秘主義的で不可知論的な命題が語られているわけでも、あるいは逆に形而上学的な領域の存在を否定しているわけでもない。

『論考』においては、語られえないものは示されうる。命題的に語られうるものを最大限明晰に語りきることによって、語り得ず、ただ示されうる領域を示すことは可能であり、まさしく『論考』はそのような行為を遂行しようとしたのであった。

有意味な(即ち、真偽について判断を為しうる)命題として形而上学的、あるいは価値的領域(『人生の問題』)を語ることができない、という『論考』の主張は、そのような領域が存在することを否定するものではない。そうではなく、形而上学的領域を「語って」しまう形而上学は意味を為さない命題の集合に堕すほかない、ということを意味している。

決して、原理的に真偽について判断を為しうる種類の事柄ではない、ということは、それが、了解の外部にあるということではないし、言語を超えた、あるいは情緒的な、何か神秘的な了解のコミュニケーションがあるのだ、ということでもない。あくまでも「示されうること」は、平明で具体的な言語などの実践を通じて、その意味内容としてではなく効果として了解されうることを指すのである。

この主題系は、ジョン・L・オースティンの事実宣言的(コンスタティブ)と行為遂行的(パフォーマティブ)の区別とずれながらも一部重なるところもあり、何よりも後期ウィトゲンシュタイン自身によって『哲学探求』において追求された。そこでは言語は現実の像としてではなく、ある種のゲームにおける実践として捉えられている。

受容と影響

ウィトゲンシュタインは『論考』によってすべての哲学的問題は解かれたとみなし、その出版をもって引退し、オーストリアの小学校教師となった。

この間、この書物は、ケンブリッジ大学の数学者兼哲学者フランク・ラムゼイ(当時まだ十代であった)の手を借りてチャールズ・ケイ・オグデンによって英語に訳された。『論考』はまたウィーン学団の哲学者たちの、とりわけルドルフ・カルナップモーリッツ・シュリックの注意を惹いた。かれらのグループは、このテキストについて何ヶ月もかけて一行もおろそかにせず喧々囂々の議論を行った。シュリックは最後にはウィトゲンシュタインにウィーンを訪れたときには『論考』についてかれらと議論することへの同意を取り付けた。(当時彼は建築家として働いていた。)

ウィトゲンシュタインは、学団ときちんと会合しようとはせず、ただシュリック、カルナップ、ワイスマンを含むそのメンバーの何人かとだけ会った。しかし、しばしば、かれは哲学について議論することを拒み、会合をやめて、壁に椅子を向けて詩を暗誦するのだと言い張った。彼は、カルナップが許可もなく彼の考えのいくつかを使ったと信じるようになった後では、かれら学団のメンバーとの形式的な関係さえもすっかり絶つようになった。

かれらの受容についていえば、『論考』は、日常言語は、その通常の使用においては、まさしく世界内の自然的事実関係を記述するものとして使用されるがゆえに、十全なものであると前提している。しかし、学団の論理実証主義者たちは、『論考』の無意義な命題への批判を、そのような命題を可能にする日常言語の欠陥への批判であると受け止め、数理言語・人工言語によって為される自然科学のみを有意な言明として位置づけ、有意義な言明のみを産出するような普遍言語、論理的言語、完全言語の人工的な構築をも指向した。

ウィトゲンシュタインの哲学への復帰

シュリックとの『論考』の出版に続く時期に行われた議論はウィトゲンシュタインの哲学への復帰に大いに貢献した。かれは『論考』の思想と方法の両方に疑問を抱くようになり、1929年にケンブリッジに復帰した。次の二十年間は、かれは集中的に仕事を行いながらも何一つ出版することはなかった。1951年のかれの死の直後、かれの二つ目の傑作である『哲学探求』が遺言執行者たちによって出版された。この書物も言語の本性によって課される哲学の限界を扱っているとはいえ、『論考』によって叙述された言語の写像の理論とは、決定的に離れたものとなっている。

C・K・O訳論考へのウィトゲンシュタイン自身の評価

論理哲学論考は、まず1921年にドイツの物理学年鑑に掲載された後、翌年1922年バートランド・ラッセルの序文と共に、チャールズ・ケイ・オグデンを中心に進められた英訳を併記した独英対訳書として、イギリスのキーガン・ポール社から出版された。この英訳についてオグデンはウィトゲンシュタインの直接の関与によって注意深くなされたと主張しており、実際にウィトゲンシュタインの校訂の入った稿本も残っている。しかしウィトゲンシュタインの小伝を書いたG.H.フォン・ウリクトEnglish版は、その小伝でウィトゲンシュタイン自身から正反対の評価を直接に聞いたと主張し、原文の意味を台無しにする誤訳が多いとして早期の訂正を提言している。ウィトゲンシュタイン自身による具体的な指摘の内容は不明であるが、参考例として、

命題 1のドイツ語原文は、

Die Welt ist alles, was der Fall ist.

である。太字で強調した箇所は、当事者性の強い、現場の状況についての言及であることを強調する表現である。これに対するオグデン訳は、

The world is everything that is the case.

である。ちなみに命題 1.1のオグデン訳は

The world is the totality of facts, not of things.

である。これからすると命題 1でオグデンの使用している everything は適当な訳語とは言い難い。この箇所における邦訳では、中央公論社世界の名著』訳では「その場に起こること」大修館書店ウィトゲンシュタイン全集訳』では「実情」という表現を使ってドイツ語原文の持つ状況性を表現している。これに対してオグデン訳を邦訳すると「世界はそうである もの の全てである」というような意味にしかならないであろう。これは、ウィトゲンシュタインが拒絶したラッセルによる『論考』の論理的原子論解釈の影響であるかも知れないが、ともかくも1961年には同出版社から新しい英訳『論考』が出版されている。

入門書

訳書

関連項目

外部リンク