象潟

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蚶満寺から見た象潟
水田の中に小島(流れ山)が残る

象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域の地形である。現在は平地だがかつては潟湖で、それを象「潟」と呼んだ。

国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。また、2014年3月26日より、おくのほそ道の風景地の一つとして国の名勝にも指定されており、おくのほそ道最北の地と銘打たれている。

歴史

紀元前466年鳥海山が噴火し、発生した大規模な山体崩壊による流れ山日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々ができあがった。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖ができた。そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形ができあがった。東西の長さは20(約2200m)、南北の長さは30町(約3300m)をそれぞれ超える程度であった。

古の時代より九十九島・八十八潟が景勝地、歌枕の地として知られ、古今和歌集や新古今和歌集などにも当地を詠んだ歌がある。江戸時代には「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも

松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し

と評され、

象潟や雨に西施ねぶの花

と詠まれた。また、芭蕉は西行を偲んでこのおくのほそ道を紀行しており、そして、その芭蕉を偲んで与謝蕪村小林一茶もこの象潟を訪れた記録があるなど、俳人らの巡礼地となっていた。

しかし文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起し、陸地化した。その後、本荘藩の干拓事業による水田開発に飲まれ、歴史的な景勝地は消されようとしていたが、当時の蚶満寺の住職・二十四世全栄覚林の機転や命懸けの呼びかけによって、後に保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となった。なお、正岡子規は、この隆起後の景観を訪れているという。

現代も102の小島が水田地帯に点々と残されており、当時のまま九十九島という名称が付けられている。蚶満寺境内からつながる一部地域には往復5~7キロに及ぶ遊歩道(一部は農道と兼用)が設けられており、島を巡ることができる。とりわけ田植えの季節で、一帯の田圃に水が張られると、往年の多島海を髣髴とさせる風景が浮かび上がり、当時の光景を偲ぶことができる。道の駅象潟ねむの丘の展望台から、この九十九島を望むこともできる。

象潟郷土資料館では、地震前の象潟の再現模型が展示されている。

にかほ市文化財保護課では「象潟さんぽみち」と題した、島々の位置・形状・名称を記した大変便利な地図を作成しており、象潟郷土資料館のホームページから入手できる。

長崎県佐世保市九十九島は当地を語源として平戸松浦氏が付けた名称と言われている。

関連項目

外部リンク

座標: 東経139度54分28秒北緯39.22度 東経139.90778度39.22; 139.90778