赤松貞範

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赤松貞範
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 徳治元年(1306年
死没 文中3年/応安7年(1374年
幕府 室町幕府 美作守護[1]
主君 後醍醐天皇足利尊氏
氏族 赤松氏

赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将守護大名美作国守護

略歴

徳治元年(1306年)、赤松則村(円心)の次男として誕生。

嘉暦元年(1326年)頃は摂津国長洲荘荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った。建武2年(1335年)には中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は300騎で脇屋義助7000騎に突撃を敢行した。これを見て義貞方の大友貞載が寝返ったため戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波国春日部荘ほか播磨国の所領を与えられたという。

南北朝時代には北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活躍し室町幕府の確立に尽力した。正平元年/貞和2年(1346年)に姫路城の基礎である城を築いた。

正平6年/観応2年(1351年)に兄・範資が亡くなった時、弟・則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は幕府から疎まれていたためとされる[注釈 1]

正平11年/延文元年(1356年)に美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子・足利直冬山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし、正平18年/貞治2年(1363年)に時氏が幕府に帰順すると美作を時氏の末子・時義に交替させられた。翌年、春日部荘白耄寺に供養塔を建立している。

文中3年/応安7年(1374年)、死去。享年69。子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞赤松貞村を輩出した。

脚注

  1. 園太暦観応2年7月22日条で洞院公賢は「邪の輩、少々逐電す。春日部雅楽助」と記している。また足利直義と非常に不仲だったとされる。[2]

参考文献

関連項目