輪廻

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ファイル:The wheel of life, Trongsa dzong.jpg
六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している

輪廻(りんね[1])とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार saṃsāra)に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること[1]。漢字の輪廻は生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡に喩えたことから来ている。日本語読みのリンネは、連音によるものである[1]

インド哲学において生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存をと見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。

ヴェーダの宗教における輪廻

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[注 1]ないし最初期のウパニシャッド文献[注 2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。

五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者はにいったんとどまり、となってに戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた精子となって、との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[2]

これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と(カルマ)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。

行為が行われた後、なんらかの結果(: phala)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。

生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた[3]

これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。なお『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、輪廻転生するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく一度生まれるだけのエーカジャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた[4]

仏教における輪廻

仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻をと捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき、永遠不変の魂は想定しない(無我[5]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅のアートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。

dukkhā jāti punappuna.

繰り返し行われる (ジャーティ)は苦(ドゥッカ)である

—  テンプレート:SLTP

akuppā me vimutti. Ayamantimā jāti. Natthidāni punabbhavo’ti.

わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。

—  テンプレート:SLTP

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である[6]。輪廻に主体(アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[5]

仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[7]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[7]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[8]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[9]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[注 3]、意識が断絶することはない。[注 4]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[8]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。

仏教における輪廻思想の発展

原始仏典では基本的に天、人、畜生、餓鬼、地獄の五道輪廻が説かれる。経典によっては阿修羅身(: asurakāya)が説かれることもあるが、この阿修羅は餓鬼(: peta-asura)[10]、天人(: deva-asura[注 5]のいずれかに分類される。もしくは阿修羅道としてひとつの道と看做し六道を説く場合もある。 これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。

後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、六道に声聞縁覚菩薩を加え、六道と併せて十界を立てるようになった。

仏教内における輪廻思想の否定

一方、ブッダの教説は輪廻の存在を認めるものなのか、否定するものなのかという議論は、現在も、少なくとも日本の仏教学会では続いている。

現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻を否定した」という主張が少なくない[12]。このような言説を包括的かつ批判的に扱った学者として松尾宣昭がいる[13]。松尾によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と、(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり、両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする[14]。この二つの考えは二律背反に見えるが、(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する。このような立場を松尾宣昭は「輪廻想念説」と呼び、このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず、「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」という趣旨の、「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる[14]。一方で、パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し、ある種の「仏教の本質」を想定することで、そこから帰結的に輪廻否定が導出されるとする立場もあるとする。松尾によれば和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという。[15][14][注 6]さらに「仏教の本質」を後代に明確化されたの教説に見出し、(1)と(2)の両立性を二諦説によって説明する見解もある[14]。松尾によると、空を用いた輪廻否定は、実質的には無我説を用いたものと同じであり、この場合は「龍樹がブッダの真意を説明した」テキストである『中論』を根拠として提示することができると述べている。[注 7]

輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[16][17]。このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。

ジャイナ教における輪廻

ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モークシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。

注釈

  1. ブラーフマナは、ヴェーダのシュルティ(天啓文書)のひとつで、ヴェーダの祭式を解説するいくつかの注釈書。紀元前900年頃から紀元前500年頃にかけて成立したとされ、この時代をブラーフマナ時代という。
  2. 紀元前800年頃以降にサンスクリットで書かれた哲学書で「奥義書」と称される。
  3. 南方上座部アビダルマ教学では、二つのエネルギーの因果関係が距離の影響を受けるとは考えない。[8]
  4. 南方上座部アビダルマ教学では完全な意識(路心 vīthi-citta)と無意識(有分心 bhavaṅga-citta)を区別し、どちらも意識(viññāṇa)と見做す。[7]
  5. 地神に依止している堕処の阿修羅 (bhummassita-vinipātikāsura[11]
  6. 松尾はこの説に詳細な批判を行っている。
  7. ただし松尾は、『中論』がそのように読めるとは思われないとする。[14]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 「輪廻」 - 大辞林 第三版、三省堂。
  2. 『南アジアを知る事典』(1992)
  3. 中村元『原始仏教:その思想と生活』日本放送出版協会〈NHKブックス〉2007年、第69刷、ISBN 4140011114 p.101.
  4. 森本 2003, pp. 191-192.
  5. 5.0 5.1 石飛道子 『仏教と輪廻(下)ブッダは輪廻を説かなかったか』
  6. アルボムッレ・スマナサーラ 『無我の見方』 サンガ、2012年、Kindle版,Q&A。ISBN 978-4905425069 
  7. 7.0 7.1 7.2 V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』
  8. 8.0 8.1 8.2 V.F Gunaratna 『仏教から見る死(下)』
  9. A.スマナサーラ; 藤本晃 『業(カルマ)と輪廻の分析』 サンガ〈アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉〉、83頁。 
  10. ウ・ウェープッラ、戸田忠=訳註『アビダンマッタサンガハ [新装版]』、中山書房仏書林、p.125
  11. 「堕処の阿修羅(…)地神(…)2神とも四大王天に属する天衆である」(ウ・ウェープッラ、戸田忠=訳註『アビダンマッタサンガハ [新装版]』、中山書房仏書林、pp.133-134)
  12. 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店、望月海慧『ブッダは輪廻思想を認めたのか』日本佛教学會年報第六十六号、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版など
  13. 「輪廻転生」考(一)~(四) NAID 110007172137 NAID 110008721186 NAID 110008747101 NAID 110009675250
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 松尾宣昭「「輪廻転生」考(三) : 一つの論点をめぐる補足] 龍谷大學論集」、『龍谷大學論集』第476巻60-75、龍谷大学2010年10月1日NAID 110008747101
  15. 松尾宣昭「「輪廻転生」考(一) : 和辻哲郎の輪廻批判]」、『龍谷大學論集』第469巻、2007年1月、 62-80頁、 NAID 110007172137
  16. アンベードカル『ブッダとそのダンマ』光文社田中公明『性と死の密教』春秋社山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』光文社
  17. 「アンベードカルを知らないと仏教がわからない。(...)アンベードカルを全部勉強することによって初めて本尊である仏陀がわかる。」世界遺産級の遺跡発掘に成功: インド仏教僧  佐々井秀嶺(2004)

参考文献

  • 『サンガジャパン Vol.21 特集・輪廻と生命観』 サンガ、2015年8月、ISBN 978-4-86564-024-3
  • 森本達雄 『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』 中央公論新社中公新書〉、2003年。ISBN 4-12-101707-2。
  • ミルチア・エリアーデ著、島田裕巳訳 『世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年5月、ISBN 4-480-08563-7
  • 辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修 『南アジアを知る事典』 平凡社、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0

関連項目

外部リンク


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