鈴木清順

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鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日[1] - 2017年2月13日[2])は、日本映画監督俳優。本名は鈴木 清太郎(すずき せいたろう)[1]。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる[1]

日活の専属監督として名を馳せ、小林旭高橋英樹宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』、『夢二』の三部作では幽遠な映像美を見せた[3]。その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれた。

来歴・人物

生い立ち

1923年(大正12年)、東京日本橋の呉服屋の長男として生まれる。関東大震災に被災後、本所亀沢町に移る。1941年(昭和16年)東京府立第三商業学校卒業後、旧制弘前高等学校(現弘前大学)に進む。柔道部に入部した。そのときに寮の同室の学生に北一輝の『支那革命外史』を読むように勧められた。1943年(昭和18年)学徒出陣で応召。陸軍二等兵として入隊。フィリピン台湾を転戦し、陸軍大尉で終戦を迎える。1946年(昭和21年)復員して弘前高校に復学し、1948年(昭和23年)に卒業の後、東京大学経済学部を受験するが失敗する。同じく東大受験に失敗した仲間に誘われる形で、鎌倉アカデミアの映画科に入るが、同年友人の誘いで松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験を受け、合格を果たす。合格者は1500人中8人だったという[4]。鈴木の成績は23番目だった。その後、岩沢康徳佐々木康中村登らについたのを経て、1951年(昭和26年)からメロドラマを得意とした岩間鶴夫のもとで専属助監督を務めた。

日活

1954年(昭和29年)西河克己の勧めで日活に移籍してからは、主に野口博志に師事し、1956年(昭和31年)中川順夫浦山桐郎共同脚本による「勝利をわが手に」を本名の鈴木清太郎名義で初監督。1958年(昭和33年)の「暗黒街の美女」で清順に改名し、以後、1959年(昭和34年)赤木圭一郎のデビュー作「素ッ裸の年令[5]」、1963年(昭和38年)小林旭出演の「関東無宿」、1964年(昭和39年)野川由美子出演の「肉体の門」、1966年(昭和41年)渡哲也出演の「東京流れ者」、高橋英樹出演の「けんかえれじい」など、モダンで新鮮な色彩感覚と映像リズムによる独自の世界観を作り出し、『清順美学』と称されるほど、一部に熱狂的なファンを獲得。この間、映画製作の仲間の曽根中生大和屋竺木村威夫らと脚本家グループ「具流八郎」を結成。1967年(昭和42年)には宍戸錠主演の「殺しの烙印」を発表するが、日活社長・堀久作の逆鱗に触れ、翌年同社を追われた。これに抗議したファンや映画関係者は「鈴木清順問題共闘会議」を結成、デモを行うなど、一時は社会問題に発展した。

鈴木清順問題共闘会議

1968年、シネクラブが企画していた「鈴木清順作品三十七本連続上映会」へのフィルム貸出を日活が拒否したことに端を発し、鈴木は日活から解雇された[6]。両者の争いとなり、川喜多和子などが「鈴木清順問題共闘会議」を結成して鈴木を支援し[6]、1971年12月に和解した[7]。この間鈴木は映画を製作しなかった[1]

1975年1月にはTBSの林美雄の企画による、渡哲也菅原文太原田芳雄ら映画俳優のコンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」に出演し、「麦と兵隊」を歌った[8]

活動再開以後

1977年(昭和52年)松竹で「悲愁物語」でカムバックを果たす[1]。同年から放送されたテレビアニメ「ルパン三世」第2シリーズには監修として携わった[9]

1980年(昭和55年)には内田百間の「サラサーテの盤」を原作とした「ツィゴイネルワイゼン」を完成させ、新方式のテント興行で上映した。十年間の鬱屈を全て晴らすように、一切妥協しないという創作態度で挑んだこの作品は、キネマ旬報ベストワン(これが初のベストテン入賞でもある)、芸術選奨文部大臣賞、日本アカデミー賞最優秀賞作品賞及び監督賞を獲得。ベルリン国際映画祭に出品されるや、国外の映画関係者に激賞され、ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞する快挙を成し遂げ、国内外で高く評価された。またこの受賞を機に清順が世界的に知られるきっかけとなった。続く翌年の「陽炎座」もキネマ旬報ベストテン3位に入賞するが、以降、作品発表間隔が大きく開くようになり、この両年に大きく盛り上がった再評価ブームは維持できなかった[10]

1984年(昭和59年)、「カポネ大いに泣く」で一般劇場映画に復帰。また、1985年(昭和60年)に公開された[11]ルパンシリーズの劇場映画第3作『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では監督を務めた[9]1986年(昭和61年)「鈴木清順全映画」が刊行され、今まで清順を知らなかった人にまで話題を呼ぶ。1990年(平成2年)「夢二」で「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と続く大正三部作が完成。その後、しばらく監督業から遠ざかるが、2001年(平成13年)に10年ぶりに再びメガホンを取った「ピストルオペラ」はヴェネツィア国際映画祭で「偉大なる巨匠に捧げるオマージュの盾」を受賞し、清順の作品が特別上映されるなど話題を呼んだ。この間1997年に47年間連れ添った妻と死別[12]2004年ごろ、48歳年下の女性と再婚[12]

2005年(平成17年)には構想20年の大作「オペレッタ狸御殿」を監督、カンヌ国際映画祭で栄誉上映特別招待作品として招待された。また山羊ひげの洒脱な風貌で、俳優としても「ムー一族」「美少女仮面ポワトリン」「みちしるべ」「ひまわり」などのテレビドラマや、「ヒポクラテスたち」「不夜城」などの映画にも出演している。2006年(平成18年)に第24回川喜多賞受賞。2010年、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。

2017年(平成29年)2月13日慢性閉塞性肺疾患のため都内の病院で死去[2][13]。93歳没。2005年の『オペレッタ狸御殿』が遺作となった。次作として室生犀星の小説『蜜のあわれ』の映画化の準備が水面下で進んでいたが、叶わなかった[14]

キネマ旬報』2017年4月下旬号(No.1744)で追悼特集が組まれた[15]。他に『ユリイカ 詩と批評 特集 追悼・鈴木清順』(青土社、2017年5月号)がある。

その他

  • 松竹入社後、ダンディで名高い松竹トップクラス監督の木下惠介が、「あんな汚らしい男をうちの助監督につけるな」と発言。現に一度も木下惠介の助監督はやっていない。一方で松竹から日活へ移る鈴木に唯一木下だけが頑張れと励ましの声を掛けてくれた。
  • 松竹助監督時代はどちらかと言うと、日陰の存在の監督(岩間鶴夫)や「大船三天皇」と呼ばれた奇人の助監督などと共に仕事をしていた。よくいっしょに仕事をしていたのは篠田正浩
  • 「日活は松竹の3倍の給料が出るよ」と西河克己監督に誘われて日活移籍を決意。
  • 監督キャリアの初期は非常に地味な存在であり、後年とは別人のようなドキュメンタリータッチのものも多い。突如ブレイクして華麗な演出を見せ始めたのは1963年あたりからである。
  • 東京流れ者』の虚無的なラストシーンが日活上役たちから大批判を受け、急遽、ラストシーンを撮り直す。修正前のフィルムは現存せず。そしてとうとう翌年、『殺しの烙印』で社長の逆鱗に触れ、日活を解雇されてしまう。
  • 日活解雇後、妻や彼を慕う人々に生活や仕事を支えられ、梶原一騎プロデュースの『悲愁物語』で映画界に復活。そして荒戸源次郎プロデュースの『ツィゴイネルワイゼン』で日本のみならず海外でも高い評価を受ける。キネマ旬報ベストテン1位(黒澤明監督『影武者』は2位)など、各賞受賞。
  • 1990年朝日新聞社系のCS局である衛星チャンネル(現・朝日ニュースター)の情報生番組『What's New』にゲスト出演。当時一般的にいわれていた、清順美学は『野獣の青春』で突然開花したという定説を自ら覆し、デビュー作の頃から意識していたと発言した。なお、この番組では、鈴木自身のセレクトによる名場面集が「桜」「奈落」「幽霊」などのテーマに分けて紹介されている。
  • 1991年読売テレビの深夜映画番組『CINEMAだいすき!』で鈴木清順特集が組まれ、日活時代から復活後までの作品と、それらの作品などを珍しく積極的に語る監督の貴重なインタビューが放送された。
  • 1984年のテレビアニメ『ルパン三世 PartIII』第13話「悪のり変装曲」では脚本を執筆しており、一風違ったミステリアスな作品に仕上がっている。
  • 生前は馬好きで知られた[16]
  • 大森一樹監督が『暗くなるまで待てない!』(1975年)『ヒポクラテスたち』 (1980年)と続けて清順を「特別出演」させて以降、彼をリスペクトする若手監督たちの間で「鈴木清順のカメオ出演」が流行のようになり、大量の映画やテレビドラマに出演することとなった。
  • 笑って許して!!』で、当時NHKの花形アナウンサーだった鈴木健二を「あれはうちの弟」と発言した際、観客席はおろか、共演していた回答者や司会者までもが驚くというエピソードがあった。兄弟だったということを、あまり話す機会がなかった故に起こったことであった。

監督作品

映画

テレビ

オリジナルビデオ

  • 春桜 ジャパネスク(1983年)
  • 弘高青春物語(1992年 2003年劇場公開)

出演作品

映画

オリジナルビデオ

テレビ

CM

著書

  • 『けんかえれじい』 三一書房 1970、新版1991/新装版:日本図書センター「人間の記録」2003
  • 『花地獄』 北冬書房 1972、新版1996
  • 『夢と祈祷師』 北冬書房 1975、新版1991
  • 『まちづくし』 北冬書房 1982
  • 『孤愁』 北冬書房 1981
  • 『シネアストは語る 1 名古屋シネマテーク』 1990 (名古屋シネマテーク叢書:no.1)
  • 『つくりつたえるメッセージ : 情報達人たちの世界』 鈴木清順 [ほか述] 社会経済国民会議情報化対策国民会議 1992
  • 『すっころび仙人の人生論』 講談社 1995
  • 『清/順/映/画』 鈴木清順 述/磯田勉轟夕起夫編、ワイズ出版 2006
  • 『鈴木清順エッセイ・コレクション』四方田犬彦編、筑摩書房〈ちくま文庫〉 2010

参考文献

  • 『清順映画』鈴木清順述、磯田勉轟夕起夫編、ワイズ出版、2006年
  • 『清順スタイル』 磯田勉編、ワイズ出版、2001年
  • 『鈴木清順全映画』 上野昂志編、立風書房、1986年
  • 『ユリイカ 詩と批評 特集追悼・鈴木清順』青土社、2017年5月号
  • 『夢ムック 鈴木清順 総特集』河出書房新社、2001年5月

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「ei」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2.0 2.1 映画監督:鈴木清順さん死去、93歳…「けんかえれじい」,毎日新聞,2017年2月22日
  3. 「この三部作には戦後日本映画が到達したもっとも洗練された美意識と、極度にバロック的な精神の結合が見受けられる」(四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.214)。
  4. 他に合格したのは、松山善三井上和男斎藤武市中平康有本正生駒千里今井雄五郎らがいた。
  5. 日活
  6. 6.0 6.1 高崎俊夫 フランス映画社の復活、そして川喜多和子さんのこと 2010年11月
  7. 2014/7/26~8/1上映作品 | 鈴木清順監督特集『けんかえれじい』/『東京流れ者』/『野獣の青春』/『刺青一代』 早稲田松竹
  8. 柳澤健『1974年のサマークリスマス』(集英社)
  9. 9.0 9.1 “鈴木清順さん死去『ツィゴイネルワイゼン』で知られる映画監督 『ルパン三世』監修も”. The Huffington Post. (2017年2月22日). http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/22/suzuki-seijun_n_14924028.html . 2017閲覧. 
  10. 戦後のキネマ旬報ベストテンで2年連続3位以上に入賞したのは、黒澤明木下恵介今井正市川崑山田洋次大島渚岡本喜八深作欣二であるが、その後一度もベストテン入りできていない監督は鈴木のみであり、他は全員が3本以上の作品をベストテン入りさせている。日活時代に10年あまりで40本の映画を撮った鈴木は、後半生の37年間は4本の長編実写映画を監督したのみであった。
  11. “ルパン三世 バビロンの黄金伝説”. Movie Walker.
  12. 12.0 12.1 88歳・鈴木清順監督が再婚 相手は48歳年下 2011年6月27日 スポニチ
  13. [訃報]映画監督・鈴木清順氏 逝去のお知らせ”. ニュース. 日活 (2017年2月22日). . 2018閲覧.
  14. “鈴木清順監督が死去 独特映像美の「清順美学」”. 日刊スポーツ. (2017年2月23日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1782752.html . 2018閲覧. 
  15. キネマ旬報 2017年4月下旬号 No.1744 キネマ旬報社
  16. 半澤孝平 (2017年2月23日). “映画監督・鈴木清順さん死去 道南からも惜しむ声”. 函館新聞. https://digital.hakoshin.jp/news/national/17514 . 2017閲覧. 

外部リンク

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