鉢形城

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鉢形城
埼玉県
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 長尾景春
築城年 1476年(文明8年)
主な改修者 田丸直昌、森忠政
主な城主 長尾景春上杉顕定北条氏邦
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 土塁、堀、土橋、石垣の一部、復元石垣
指定文化財 国の史跡
位置 北緯36度6分35.04秒
東経139度11分45.54秒
地図
ファイル:Hatigatajou Arakawa.JPG
本丸跡から見た荒川と寄居町

鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代日本の城跡である。構造は連郭式平山城

概要

鉢形城は、深沢川荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。

初めて築城したのは関東管領山内上杉氏家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。

関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつといわれる。1932年昭和7年)に「鉢形城跡」(はちがたじょうあと)として国の史跡に指定された[1]1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備され[2]、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。

稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、小田原征伐では3万とも5万とも言われる北国軍に包囲されて1ヶ月に渡って籠城したのちに「開城」という形になった[3]

歴史・沿革

現代

氏邦桜

ファイル:Hachigatajo-Edohigan.JPG
鉢形城にあるエドヒガン

城跡内には町天然記念物に指定されているバラ科サクラ属の植物の一種「エドヒガン」が生存している。このエドヒガンは、一旦伐採され2本幹の株元から12本の芽が成長した珍しいものである。

2009年(平成21年)現在で樹齢は約150年。高さは18m、枝張りは、東西23.5m/南北21.8mで、根回りは6.5mほどもある。

ソメイヨシノの片親である「エドヒガン」であるが、名前のとおり関東ではソメイヨシノよりやや早めの彼岸のころ満開となり、満開の時期には多くの写真家画家が訪れる。

2018年、寄居町は鉢形城主の北条氏邦にちなんでこの樹の愛称を「氏邦桜」とした。

現地情報

所在地

  • 埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2

交通アクセス

鉄道・バス
自動車

脚注

  1. 鉢形城跡 - 国指定文化財等データベース
  2. 鉢形城公園 - 寄居町
  3. 日本の史跡101選
  4. 鎌倉大草紙塙保己一編『群書類従』第13輯、経済雑誌社、1894年、p.722.
  5. 実父は上杉憲実の子で僧籍にあった周晟
  6. 実父は3代古河公方の足利高基
  7. 永禄12年とする説もあり、有力である({{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}、黒田基樹『上里町史 通史編上』452頁)。なお、「北条氏邦の鉢形城入城をめぐって」『さいたま川の博物館紀要』第6号では永禄7年説を採用している。

参考文献

  • 浅倉直美 『後北条領国の地域的展開』 岩田書院、1997年 
  • 黒田基樹「第三編第四章二 後北条・上杉・武田三氏の攻防と加美郡」『上里町史』通史編上、1996年。
  • 黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』宮帯出版社、2015年。ISBN 978-4-8016-0017-1。
  • 黒田基樹 『鉢形城と戦国武将 鉢形城歴史館開館10周年記念特別講演会記録集』 寄居町教育委員会、2016年 

関連項目

外部リンク