高村光太郎

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高村 光太郎
(たかむらこうたろう)
生誕 高村 光太郎(みつたろう)
1883年3月13日
日本の旗 日本東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区東上野
死没 (1956-04-02) 1956年4月2日(73歳没)
日本の旗 日本・東京都中野区
国籍 日本の旗 日本
教育 東京美術学校[1]彫刻科
著名な実績 文筆短歌ほか)
彫刻
代表作 『道程』
智恵子抄
『典型』
『乙女の像』(彫刻)
『裸婦座像』(彫刻)
『柘榴』(木彫)
『蝉』(木彫)
受賞 帝国芸術院賞(1942年)
読売文学賞(1950年)
この人に影響を
与えた芸術家

高村光雲(父)

オーギュスト・ロダン
智恵子と光太郎

高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年明治16年)3月13日 - 1956年昭和31年)4月2日)は、日本詩人歌人彫刻家画家東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。

日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』、『智恵子抄』等の詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論随筆短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家高村豊周。甥は写真家高村規で、父である高村光雲等の作品鑑定も多くしている。

生涯

1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。

1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年明治35年)に彫刻科を卒業し、研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国[2]。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安でおどおどと悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。このようにして、昼は働き夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通って学んだ[3]。世界を観て帰国した光太郎は、旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。

1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年大正3年)に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後、1941年(昭和16年)に詩集『智恵子抄』を出版した。

智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」[4]など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞[5]1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。

1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。

1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。戒名は光珠院殿顕誉智照居士[6]

著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。

主な著作

詩集
歌集
  • 白斧
美術評論
随筆
  • 某月某日
  • 独居自炊
  • 山の四季
翻訳

近年刊行の著作

文庫詩集は現在、新潮文庫岩波文庫集英社文庫ハルキ文庫版が刊行されている。

  • 高村光太郎秀作批評文集 美と生命(前篇+後篇)(書肆心水、2010年)
  • ロダンの言葉〈現代日本の翻訳〉(講談社文芸文庫、岩波文庫)
  • 緑色の太陽 芸術論集(岩波文庫、初版1982年、復刊2010年ほか)
  • 全集(筑摩書房刊、1957年 - 1958年に全18巻、別巻1、1976年に新版、1994年 - 1998年に増訂版全22巻)

主な美術作品

彫刻

彫刻作品も、多くの美術教科書に載っている。

  • 有機無機帖(日本近代文学館所蔵)など
  • 「プラスなるもの食と美」(個人所蔵)

エピソード

  • ニューヨーク留学以前はユージン・サンドウが世に広めた「サンドウ式体操」で肉体を鍛えた。
  • ニューヨーク留学時に通学した芸術学校のクラスメイトが頻繁に高村の作品に悪戯をした。これに高村は立腹したが、レスリング経験のある主犯格の男と教室を舞台に高村は柔道、相手の男はボクシングのスタイルで試合をすることとなった。高村はサンドウ式体操で鍛えた腕力で相手の男を締め上げ、それ以降クラスメイトからの悪戯はなくなった。晩年「作品への悪戯がなくなり幸いであった」と懐述している。

参考文献

  • 平居高志 『「高村光太郎」という生き方』 三一書房、2007年5月。ISBN 4-380-07205-3。ISBN 978-4-380-07205-5。
  • 北川太一 『高村光太郎 書の深淵』 二玄社、1999年12月。ISBN 4-544-01150-7。ISBN 978-4-544-01150-0。
  • 北川太一 『新帰朝者光太郎-「緑色の太陽」の背景』 蒼史社〈高村光太郎ノート〉、2006年4月。ISBN 4-916-03608-5。ISBN 978-4-916-03608-7。※シリーズで高村光太郎ノートを刊行。
  • 湯原かの子 『高村光太郎-智恵子と遊ぶ夢幻の生』 ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2003年10月。ISBN 4-623-03870-X。ISBN 978-4-623-03870-1。

出典

  1. 現・東京芸術大学美術学部
  2. 潟沼誠二 「高村光太郎におけるアメリカ」‎1979・77頁
  3. 潟沼誠二 「高村光太郎におけるアメリカ」‎1979・80-83頁
  4. “社説・春秋”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年12月28日). http://www.nikkei.com/article/DGXDZO64719140Y3A221C1MM8000/ . 2015閲覧. 
  5. 『朝日新聞』1942年4月14日(東京本社発行)朝刊、3頁。
  6. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)186頁

関連項目

外部リンク