龍ヶ崎藩

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龍ヶ崎藩(りゅうがさきはん)は、明治4年(1871年)の一時期、常陸国河内郡龍ヶ崎村(現在の茨城県龍ケ崎市)に存在した。藩庁は龍ヶ崎陣屋に置かれた。

成立までの経緯

慶長6年(1604年)に江戸町奉行となり、明和4年(1767年)には武蔵国下総国上総国常陸国安房国の5国に散在する村落1万1000石の領地を有していた米津氏だったが、寛政10年(1798年)に武蔵国の領地のうち6400石を出羽国と移し替えられて、武蔵国久喜から出羽国長瀞に居城を移して長瀞藩となった。長瀞藩は出羽国に本拠を置いたため、後の戊辰戦争の東北での戦場となり、戦火によって長瀞陣屋と町を失った。明治2年(1869年)に版籍を奉還して長瀞藩知事に就任した米津政敏は、分散した領地には統治が行き届かないことを理由に、長瀞から上総国の大網村へ移って大網藩と改称する。続いて、政敏は分散した自領を一まとめにするよう新政府に願い出た。新政府は明治3年(1870年)5月、まず出羽国(明治元年より羽前国)の領地を山形県に組み込んで、代地として武蔵国埼玉郡、上総国山辺郡を大網藩に渡すよう宮谷県に通達、さらに明治4年に大網村の宮谷藩への移管が命じられた。大網藩には出羽国の代地に加えて、大網村の代地、常陸国河内郡龍ヶ崎村らを与えられることになり、これをもって1万1000石の龍ヶ崎藩が成立する。

藩史

明治4年(1871年)2月17日(新暦4月6日)、上総国大網藩知事であった米津政敏が藩庁を常陸国河内郡龍ヶ崎村に移したことから、龍ヶ崎藩が立藩した。しかし同年7月15日(新暦8月30日)の廃藩置県により政敏は藩知事を免官となり、ここに龍ヶ崎藩は廃藩となり、龍ヶ崎県となったのである。

こうして成立した龍ヶ崎藩だが、長瀞藩時代からの財政難は引き継がれて財政は破綻寸前となり、新政府に5000両を嘆願したものの望みが叶うことはなかった。

歴代知藩事

米津家

1万1000石

  1. 米津政敏(まさとし)

廃藩直前の領地

大網藩成立時に羽前国の長瀞藩領を常陸国、武蔵国に移し替えられた。


先代:
大網藩
行政区の変遷
1871年 (龍ヶ崎藩→龍ヶ崎県)
次代:
新治県