エカチェリーナ1世

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エカチェリーナ1世Екатерина I Алексеевна, 1684年4月15日ユリウス暦4月5日) - 1727年5月17日ユリウス暦5月6日))は、ロマノフ朝第2代のロシア皇帝(在位:1725年 - 1727年)。ピョートル1世の妃。

生涯

エカチェリーナはマルタという名のリヴォニアの農民の娘[1]で、バルト・ドイツ人牧師の家に引き取られて家族同様に育てられ、ドイツ語を学んだ。1701年スウェーデン竜騎兵と結婚したが、当時はロシアとスウェーデンとの大北方戦争が続いており、リトアニアが戦場になると、彼女はロシア軍がマリーエンブルク(リヴォニア)Deutsch版を占領した際に捕虜となり、ロシア人将軍ボリス・シェレメーテフの家に連れてこられた。しかし立場は召使だったのか妾だったのか判然としない。女奴隷から女帝に上ったと言われるのはこの出自のためであるが、上記のように、元々は無学卑賤の身分というわけではない。

捕らえられてからは正教に改宗し、名もエカチェリーナ・アレクセーエヴナと改めている。父称アレクセーエヴナはピョートル1世の長男で代父アレクセイによるとする説がある。その後、将軍アレクサンドル・メーンシコフの家に引き取られ(ここでも使用人か妾かはっきりしない)、メーンシコフからピョートル1世に献上された。

ピョートル1世は1689年に最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナと結婚して長男アレクセイも生まれているが、1698年に妻を修道院に幽閉した。ピョートル1世はエカチェリーナを大変気に入り、1707年ワルシャワ近郊で秘密結婚した。ピョートル1世の隠し妻となったエカチェリーナはがっしりした体格の、健康で快活な女性で、ピョートル1世の怒りの発作をうまくなだめることができたと言われている。1712年サンクトペテルブルクで正式に結婚し、皇后となった。2人の間には12人もの子供が生まれているが、成人したのは娘2人だけだった。エカチェリーナは中年になると深酒のため容色も衰え、ピョートル1世に疎まれることも多くなった。

ファイル:Ekaterina I.jpg
エカチェリーナ1世

1725年に入ってピョートル1世の死期が近づくと、有力大貴族はピョートル1世の長男アレクセイの子ピョートル・アレクセーエヴィチを後継に推し、新興勢力は皇后エカチェリーナを推して対立した。同年1月28日早朝、サンクトペテルブルクでピョートル1世が死ぬと、皇后側に就いた近衛部隊が元老院を押さえ、皇后は同日中にエカチェリーナ1世として即位した。こうして卑賤な生まれのリヴォニア農民の娘がロシア史上最初の女帝となったが、メーンシコフが牛耳る最高枢密院に実権を握られた傀儡の皇帝に過ぎなかった。ただし、修道女となっていたピョートル1世の先妻エヴドキヤをシュリッセリブルク要塞の独房に監禁して、復讐心を満たしたりしている。

エカチェリーナ1世の治世は2年あまり、1726年神聖ローマ皇帝カール6世と同盟を結んだ程度で、目立った実績はないものの、ピョートル1世の改革を続行する形で国政は進んだ。エカチェリーナ1世は婚約者に先立たれた娘エリザヴェータに跡を継がせたいと考えていたが、貴族たちの認めるところとならず、1727年5月6日に女帝が死ぬと、ピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位した。

子女

脚注

  1. 中野京子 『名画で読み解くロマノフ家12の物語』 光文社、2014年。ISBN 978-4-334-03811-3。

関連項目

先代:
ピョートル1世
ロシア皇帝
1725年 - 1727年
次代:
ピョートル2世