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オランダ黄金時代の絵画

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オランダ黄金時代の絵画(オランダおうごんじだいのかいが)は、オランダが世界的な影響力を持っていた、ネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)の終わりから17世紀(オランダ黄金時代[1]を中心として、オランダ人画家たち、あるいはオランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画[2]。八十年戦争でスペインからの独立を宣言したネーデルラント連邦共和国は当時のヨーロッパで最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家だった。連邦共和国を構成した北部の州は、南部の州に比べると芸術分野で優っているとはいえなかった。しかし戦争による混乱と住民の大規模な移動はそれまでの君主制やカトリック的伝統の破壊につながり、オランダ芸術はこれらの大きな変革の結果、素晴らしい成果となって結実した。

オランダ黄金時代の絵画はヨーロッパ全体でみるとバロック絵画の時代と合致し、なかにはバロック絵画の特徴がみられるものもある。しかし、バロック絵画の典型的な特徴である対象の理想化や壮麗な画面構成はほとんどなく、隣国であるフランドルのバロック絵画の影響も見られない。この時代に制作された有名なオランダ絵画の多くは、伝統的な初期フランドル派から引き継いだ細部にわたる写実主義の影響を強く受けている。

この時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたことであり、画家の多くがさまざまなジャンルに特化して絵画を描いた。このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年のフランスのオランダ侵略までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。

絵画のジャンル

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『ジプシー女』, フランス・ハルス, 1628年 - 1630年, ルーブル美術館, 板絵(油彩)

当時のヨーロッパ絵画の特徴といえるのが、初期のヨーロッパ絵画と比べて宗教を扱った絵画が少ないことである。オランダのカルヴァン主義教理は教会に宗教画を飾ることを禁じており、聖書を題材に描かれた絵画は個人宅では受け入れられていたとはいえ、制作されることはほとんどなかった。宗教画と同じく伝統的なジャンルである歴史画肖像画は制作されていたが、その他のジャンルの絵画が多く描かれている。農民の暮らしを描いた風俗画風景画、都市景観画、動物が描かれた風景画、海洋画、植物画、静物画などさまざまな専門分野に特化した絵画が制作された。これらのさまざまな絵画ジャンルの発展には、17世紀のオランダ人画家たちが決定的な影響をおよぼしている。

絵画においても、歴史画を最上位に、静物画を最下位に位置づける「ジャンルのヒエラルキー (en:Hierarchy of genres)」 は広く受け入れられており、多くの画家が歴史画を制作している。しかしながら歴史画は、たとえレンブラントの作品であったとしても売却が困難で、ほとんどの画家は「ヒエラルキー」としては下位ではあるものの、売却が容易な肖像画や風俗画を描くことを強いられた。「ジャンルのヒエラルキー」による絵画分野の順位付けは以下のようなものである。

  • 歴史画(宗教的主題も含む)
  • 肖像画
  • 風俗画、日常生活を描いた絵画
  • 風景画、都市景観画(オランダ黄金時代の画家サミュエル・ファン・ホーホストラーテンは、風景画家のことを「芸術家を軍隊とするならば、単なる一兵卒に過ぎない」としている[3]
  • 静物画
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『若い雄牛』, パウルス・ポッテル, 1647年, マウリッツハイス美術館, 「ジャンルのヒエラルキー」を無視した珍しい動物画

オランダ人画家たちは「下位」に位置づけられるジャンルの作品を多く描いたが、「ジャンルのヒエラルキー」の概念を無視していたわけではない。描かれた絵画のほとんどは比較的小さなもので、複数の人物を描いた肖像画だけが一般的な大きさの作品だった。壁に直接描く壁画は辛うじて描かれていたとはいえ、公共の場所の壁を絵画で装飾する必要があるときは、ちょうどいい大きさのキャンバスが使用されるのが普通だった。硬く精密な下地を求めて、新しい支持体だったキャンバスではなく旧来からの木板を使用した板絵を制作する画家も多かった。一方オランダ以外の北ヨーロッパの画家たちは、板絵を描くことはまれになっていき、銅版画に使用したあとの銅版を支持体とする画家も出てきた。 オランダ黄金時代に描かれた絵画のなかには、18世紀から19世紀にかけて再利用され上から新しい絵を重ね塗りされたものもある。これは貧しい画家にとって、新品のキャンバスや額装などよりも古い絵画のほうが安価に入手できたためだった。絵画とは逆にこの時代にオランダで制作された彫刻作品はほとんどない。葬礼芸術としての墓標にわずかに見られる程度で、公共建築物や個人宅の飾りは銀製品、陶製品などに置き換えられていく。装飾に使用されたデルフト近辺で製作された彩色陶器のタイルは非常に安価で一般的なものとなっていた。銀細工を例外として、当時のオランダ人芸術家たちの関心と努力はもっぱら絵画・版画分野に向けられていたのである。

背景

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『喫煙とゲームを楽しむ紳士』, ディルク・ハルス

当時大量に制作された絵画の大規模な即売会についての諸外国人たちの記録が残っており、それによると130万枚以上の絵画が1640年から1660年の20年間にオランダだけで制作されたと考えられている[4]。一握りの著名で流行の最先端を行っていた画家の作品を除いて、供給過多のため絵画の価格は低かったと考えられる。現在では当時の最高の画家だとされているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたちも、当時はそれほど高名ではない、あるいは流行に外れた画家として経済的問題を抱えており、貧困のうちに死去している。多くの画家が副業をもっており、芸術家としての生計を完全に諦めた画家もいる[5]。とくに1672年のフランス侵略は絵画市場に深刻な不況をもたらし、絵画の価格が以前の水準に戻ることはなかった[6]

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『ハールレムの聖ルカギルド』, ヤン・デ・ブライ, 1675年, アムステルダム国立美術館, ブライ自身の肖像画が左から二人目に描かれている

オランダ人画家たちの絵画技術は非常に高く、中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた。一般的なオランダの絵画工房はフランドルやイタリアに比べると小規模で、同時には1人か2人程度の弟子しかとっておらず、さらに弟子の数はギルドの規定で制限されることも多かった。宗教改革後にカトリック教会の影響力が低下し、それまで教会の祭壇画や教会関係者からの注文を多く受けていた芸術家ギルドである各地の聖ルカ組合の力も衰えることに結び付いた。しかしながらギルドそのものの必要性は画家にとって依然として大きく、カトリック教会に代わる新しい依頼主をその都市の有力者に求めた。これら世俗的なギルドはこの時代に確立されたものである。アムステルダムは1579年、ハールレムは1590年、そしてゴーダロッテルダムユトレヒトデルフトでは1609年から1611年にかけて、世俗的なギルドが成立した[7]。一方ライデンでは1648年まで世俗的ギルドは成立しておらず[8]、カトリック法廷が置かれていたハーグでは1656年に宗教的ギルドと世俗的ギルドの2つに分裂している。

各地のギルドが、そこに所属する画家たちの絵画を一括して販売するという伝統的な手法はすでに時代遅れとなっていた。高品質高価格の絵画を制作するためには従来からの各地のギルドでの徒弟制度とは別の教育が必要であり、各地のギルドでの専売制は無意味であると考えられた。その結果多くの都市では徒弟制ではなく学校制の芸術家教育機関を設置しており、絵画の契約、販売場所も宿場、私有地、公開市場など多岐に渡ることとなった。肖像画だけは例外であり、他諸国とは違って特定顧客との契約なしに多くのオランダ絵画が「投機目的」で描かれており、これはオランダ美術市場が後世にもその影響を及ぼした一例である[9]

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『自画像』, アールト・デ・ヘルデル, 1685年, シュテーデル美術館

オランダには多くの芸術の名門家系があり、自身の師匠の娘や他の芸術家の娘と結婚した芸術家も多かった。富裕な家系出身の芸術家も多かった。各都市では土地特有の作風や得意とする絵画ジャンルがあったが、当時もっとも繁栄していたアムステルダムは様々な画家たちが集う巨大な芸術中心都市だった[10] オランダの芸術家たちは諸外国に比べると絵画理論にはそれほど関心がなく、芸術家間で芸術論をたたかわせることもほとんどなかった。このことは当時のイタリアに比べると、オランダでは芸術論が知的サークルや一般大衆間で興味を持たれていなかったことを意味する[11]。ほとんどすべての絵画制作依頼や絵画売買が私的なものであり、諸外国に比べると中産階級の相手との取引の記録はほとんど残っていない。しかしながら当時の芸術はオランダが世界に誇るものであり、伝記作家たちの著作は重要な情報源となっている。カレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)(1604年)』は黄金時代前半の画家たちの伝記が書かれており、アルノルト・ホウブラーケン (en:Arnold Houbraken) の『De groote c der Nederlantsche konstschilders en schilderessen(1718年 - 1721年)』も500人以上の画家の伝記が書かれた重要な著作である。両書ともジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』を一部底本としており、どちらも内容についてはおおむね正確であると考えられている。アムステルダムで活動していたドイツ人美術史家・画家のヨアヒム・フォン・ザンドラルト(1606年 - 1688年) (en:Joachim von Sandrart) の『ドイツのアカデミー (Deutsche Akademie)』も同様の形式で書かれたオランダ人芸術家の伝記となっている。ホウブラーケンの師で、レンブラントの弟子だったサミュエル・ファン・ホーホストラーテン(1627年 - 1678年)の『絵画芸術の高等画派入門(1678年)』は単なる伝記ではなく批評も含んでおり、当時の画家についての重要な論文となっている。しかしながら、これらの著作は芸術理論を重視しなかったオランダの絵画同様に、オランダでの芸術理論ではなくルネサンスの芸術理論に多くのページをあてているのも事実である。当時のオランダ絵画が完全に描写されているとはいえず、当時のオランダではあまり描かれなかった歴史画についての記述も多くみられる[12]

歴史画

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『ダナエ』,ヤーコブ・ファン・ロー, 1640年 - 1670年頃, レンブラントにも同名の絵画がある

歴史画の定義は過去の歴史的事件を描いた絵画だけではなく、聖書、神話、文学を主題とした絵画もさし、寓意画も歴史画に含まれる。近年の歴史的事件を扱った絵画は歴史画のカテゴリではなく、海洋、風景、都市景観と肖像画の組み合わせた写実画として分類されている[13]。当時のオランダでは歴史、聖書の劇的な場面を描いた大きな絵画は諸外国に比べるとほとんど描かれず、これは各地の教会からの注文がなかったことと、大きな絵画を収容可能な裕福な貴族階級の邸宅が少なかったことによる。さらに主要な都市での宗教改革と、八十年戦争によるスペイン・ハプスブルク家に対する反感が芸術の方向性を写実主義に向かわせ、壮大に飾り立てられた大きな絵画に対する忌避感となって現れた[14]。版画分野では歴史を扱った作品は比較的よく制作されていたが、絵画分野では歴史画は「少数派」となっていった[15]

他のジャンルの絵画に比べると、オランダの歴史画家はイタリアの影響を受け続けていた。イタリア名画の版画や模写が広く流通しており、それらを通じてイタリアの作風が定着していた。オランダ絵画における光の表現技術の向上は、イタリアバロックの巨匠カラヴァッジョのようなイタリア人画家の作風に影響を受け、それらを発展させたものとなっている。イタリアで修業したオランダ人画家もいたが、隣国フランドルに比べるとその数は少なく、当時のローマにあったオランダ人とフランドル人の互助会 (en:Bentvueghels) の会員名簿を見てもそのことは明らかである。レンブラント、フェルメール、ハルス、ステーン、ヤーコプ・ファン・ロイスダールら、当時を代表する重要な画家と現在では考えられている画家たちがイタリアへは行っていないことは注目に値する[16]

1630年代までは北方マニエリスム (en:Northern Mannerism) に分類され、それまでの伝統的作風を持つ芸術家であるアブラハム・ブルーマールトヨアヒム・ウテワールらが活動していた[17]。ローマで活動していたドイツ人画家アダム・エルスハイマーの作品に見られるようにこの頃の歴史画は小さなものが多く、レンブラントの師のピーテル・ラストマン、ヤンとヤーコブのピナス兄弟などが、カラヴァッジョの影響を強く受けた絵画を制作していた。17世紀前半のオランダ歴史画は他諸国のバロック歴史画に比べると、オランダ独特の写実主義と明快な物語性とを持っている。現在彼らとその絵画は「前レンブラント派」と呼ばれ、レンブラントもキャリア初期にはこの作風の作品を残している[18]

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『棘の冠をかぶるキリスト』, ディルク・ファン・バビューレン, 1623年, ユトレヒトの修道院のために描かれたユトレヒト・カラヴァッジョ派の作品で、一般市場向けに描かれたものではない

ユトレヒト近辺に在住し、カラヴァッジョの影響を強く受けた画家たちをさす「ユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism)」の画家たちは、カラヴァッジョ風の歴史画や大きな風俗画を非常に強い明暗法(キアロスクーロ)で描いた。ネーデルラント連邦共和国の成立まではオランダ第一の都市だったユトレヒトは、他の都市とは異なり17世紀半ばまでカトリック教徒が40%程度を占めていた。地方領主など上流階級にもカトリック教徒が多く存在していた[19]ヘンドリック・テル・ブルッヘンヘラルト・ファン・ホントホルストディルク・ファン・バビューレンらがユトレヒト・カラヴァッジョ派の一流とされた画家たちで、1630年ごろまでこの流派の活動は続いた。その後ホントホルストは1650年代までイングランド王宮宮廷画家として活躍したが、オランダ総督オラニエ=ナッサウ家の宮廷芸術は依然として前時代的なものだった[20]

レンブラントは肖像画家として経済的成功を収めるまでは歴史画家として活動しており、終生歴史画の制作を続けている。レンブラントが制作した多くのエッチング版画の多くは宗教的物語を主題にしたもので、依頼されて描いた最後の歴史画『クラウディウス・シヴィリス』(1661年)をめぐる物語は、レンブラントの歴史画に対する傾倒と、一方で歴史画は大衆には受け入れられ辛かったこととの例証ともいえる[21]。歴史画の分野で成功した画家も少ないながら存在し、その多くがレンブラントの弟子でその作風を受け継いでいた画家たちで、ホーファールト・フリンク(1615年 - 1660年)(en:Govert Flinck) がレンブラントの弟子としてはもっとも成功した歴史画家だった。フランス古典主義の強い影響を受ける前のエラルート・デ・ ライレッセ(1640年 - 1711年)(en:Gerard de Lairesse) はレンブラントとは関係なく著名になった画家で、後にオランダでも有数の芸術理論家となった[22]

レンブラントはじめ多くの肖像画家が、古典的題名に紛れて裸像(ほとんどは裸婦像)を装飾として描いているが、裸像は事実上歴史画家にしか描くことが許されなかった。風俗画家が売春婦を描く場合でも、大きく開いた胸元やあらわな太もも以上に性的に挑発的な絵画を描くことはほとんどなかった。

肖像画

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『ゾフィア・トリプの肖像』, バルトロメウス・ファン・ デル・ヘルスト, 1645年, オランダ富裕階級の家族を描いた肖像画[23]

17世紀のオランダでは肖像画が隆盛した。当時の諸外国に比べオランダでは多くの肖像画の注文があり、巨大な市場を形成していた。この時期にオランダで描かれた肖像画は75万枚から110万枚に達すると見られている[24]。アムステルダムの肖像画家として、レンブラントはこの時期に経済的に大成功していたが、他の画家同様に中産階級市民の依頼に応じて肖像画を制作することに嫌気がさすようになる。カレル・ヴァン・マンデルはこのことを「芸術家が辿る退屈な道」と表現している[25]。レンブラントの後期の肖像画には極端ともいえる性格描写や、ときには物語的要素に満ちているが、メトロポリタン美術館にある「レンブラントの部屋」に見られるように、初期の肖像画は内省的で陰鬱ともいえる表現で描かれている。

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『ウィレム・ヘイツセンの肖像』, フランス・ハルス, 1634年

当時のオランダ人画家の中でもう一人の重要な画家がフランス・ハルス(1580年頃 - 1666年)である。独特の活気あふれる筆使いでのびやかな明るい雰囲気の人々の肖像画を描き、最下層で貧しい人々の肖像画でさえも陽気さに満ちている。『ウィレム・ヘイツセンの肖像(1634年)』のような「冷静なポーズ」の肖像画は極めて例外的な作風で、「この時代以降のいかなる肖像画でも、ハルスの作品ほどくだけてはいない」と言われている[26]。『ウィレム・ヘイツセンの肖像』のモデルとなっているのは富裕な織物商人で、ハルスが描いた唯一の等身大肖像画を10年前にも注文した人物だった。『ウィレム・ヘイツセンの肖像』はもっと小さな作品で、私室で乗馬服を着たヘイツセンが描かれている[27]

他の重要な肖像画家として、トマス・デ・ケイセル(1596年頃 - 1667年)(en:Thomas de Keyser)、バルトロメウス・ファン・ デル・ヘルスト(1613年 - 1670年)(en:Bartholomeus van der Helst)、フェルディナント・ボル(1616年 - 1680年)(en:Ferdinand Bol)、ヤン・デ・ブライ(1627年 - 1697年)(en:Jan de Bray)らがあげられる。

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『家族の肖像』, ヤン・マイテンス, 1652年, ハーグ歴史博物館, 「絵のように美しい」衣装の少年が描かれている

オランダ人画家の工房での作業手順はほとんど伝わっていない。ヨーロッパの他の国々と同様に、まず最初にモデルの顔から描かれたのではないかと考えられる。モデルが画家の前でポーズをとっていた平均時間もはっきりしていない。記録に残っているのは0分(レンブラントの等身大作品)から50分程度となっている。モデルが着用していた衣服はそのまま工房に残され、弟子が肖像画の衣服を描くときの見本とされたか、あるいは衣服を描く専門画家が買い入れた。衣服の描写は肖像画の中でも非常に重要だと見なされていたためである[28]。家族の集合肖像画をのぞき、未婚女性の衣服には多くの色が使われていないため、肖像画に描かれている女性が未婚か既婚かは衣服で判別することができる[29]。当時実際には縞模様、織柄模様など多種多様な衣服が着用されていたが、描くのに時間がかかる表現は画家に嫌われ、肖像画に描かれているのはごくシンプルな衣服がほとんどである。ただしレースやひだ飾りのついた襟元は省略することができず、画家にとって写実性を追求する上で避けて通れない面倒な存在となっていた。レンブラントはレースをより効果的に表現する手法を編み出した。まず白色を塗りつけてから黒色で軽くパターンを描いていくというものである。他にレースを表現する手法としては、黒色の下地層に白色を塗り重ね、筆端で白色の絵の具を削ることによってレース模様を表現するといったものだった[30]

17世紀末には、フランドル出身のイングランド宮廷画家ヴァン・ダイクが1630年代に始めた、「絵のように美しい」「ローマ風の」と呼ばれる、モデルに華麗な衣装を着せて描く肖像画が流行した[31]。貴族階級や軍人階級のモデルは一般市民よりも豪奢な衣服で描かれ、さらに宗教的帰属も多くの絵画に影響を与えていた。世紀末には一般市民を描いた肖像画にもこの傾向が広まり、肖像画はより自由で装飾にあふれる絵画となっていった。

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『夜警』, レンブラント, 1634年, アムステルダム国立美術館

オランダで発展した集団肖像画も自警団、評議会、ギルド理事など多くの市民団体から人気があった。17世紀前半までは肖像画は極めて儀礼的なもので、集団肖像画ではモデルがテーブルのまわりに着席し、全員が正面を向いているような構図が多かった。衣服など詳細な表現が重要視され、社会的地位に応じた描きわけが必要とされていた。17世紀後半になると集団肖像画はより自由で、明るい色彩で描かれるようになっていった。自警団を描いた集団肖像画の多くがハールレムとアムステルダムで描かれた。もっとも有名な集団肖像画はレンブラントが描いたアムステルダム国立美術館所蔵の通称『夜警(1642年)』である。アムステルダムで描かれた集団肖像画のほとんどは最後まで注文主だった団体が所有しており、それらの肖像画の多くが現在アムステルダム歴史博物館の所蔵となっている。

風俗画

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牛乳を注ぐ女』, ヨハネス・フェルメール, 1660年頃, アムステルダム国立美術館

風俗画に描かれているのは特定可能な有名な人物というわけではなく、肖像画としても歴史画としても分類できない一般市民の日常生活である。風景画とともに、風俗画の発展と広範な人気は当時のオランダ絵画の最大の特徴となっているが、フランドルでも同時期に風俗画の人気は高かった。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』のように一人の人物を主題に描かれた作品も多いが、複数の階層や群集を描いた大きな作品もある。風俗画には多くの画題があり、一人の人物、農夫の家族、居酒屋、家事をする女性、村祭り、市場、兵舎、馬や家畜など多岐に渡っている。当時のオランダではそれぞれのタイプの絵画を指す呼び方はあったが、「風俗画」に相当するような全てのタイプの絵画を意味する総称は存在しなかった。18世紀後半のイングランドでは、これらの絵画の総称として「ユーモアのある絵画 (drolleries)」が使われていた[32]

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『リュートを弾く女』, ヘリット・ファン・ホントホルスト, 1625年, ユトレヒト中央博物館, リュートがこの場所は売春宿であることを意味している

風俗画には17世紀のあらゆる階層の大衆の日常が描かれているが、必ずしも正確な描写がなされているとは限らない[33]。風俗そのものを描いている作品ももちろんあるが、日常生活を表現しているように思える絵画が、実はオランダの格言や教訓を絵画として描いている可能性もある。多くの画家が猥雑な家庭や売春宿を描く楽しみと教訓的絵画との両立とを試みており、居酒屋も経営していたヤン・ステーン(1626年 - 1679年)の作品が例としてあげられる。これら二つの主題のバランスについては現在でも美術史家たちの間で論議となっている[34]。後世になって風俗画につけられた題名には「居酒屋」「宿屋」「売春宿」が区別された題名になっているが、実際には同じ目的の施設を意味していることが多く、ほとんどの居酒屋には二階に宿泊客のための小部屋があったり、裏手には売春目的の部屋があった。「前は宿屋で後ろは女郎屋」はオランダのことわざでもあった[35]。ステーンの絵画はまさしく好例で、絵画に描かれている各構成要素は写実的に現実のものとして描かれているが、絵画全体としては現実の光景を表現したものではない。典型的な風俗画で、あくまでも絵画として表現された風刺となっている[36]

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『農夫の家』, アドリアーン・ファン・オスターデ, 1661年

初期フランドル派から受け継いだ写実主義と細部の詳細な描きこみを最初に風俗画に取り込んだのは、ヒエロニムス・ボスピーテル・ブリューゲルらで、格言や教訓を風俗画の題材とし始めたのも同じときだった。そしてウィレム・ピエテルス・バイテウェッヘ (en:Willem Pieterszoon Buytewech)、フランス・ハルス、エサイアス・ファン・デ・ヴェルデ (en:Esaias van de Velde) たちが黄金時代初期の主要な風俗画家となった。バイテウェッヘは道徳的寓意をひそかに忍ばせた、着飾った若者たちを描いている。ファン・デ・ヴェルデは風景画家としても重要な存在だったが、その風俗画とは対照的に風景画では人物を地味に描いている。ハルスは肖像画家として有名だが、キャリア初期には風俗画も描いている[37]。1625年ごろから、居酒屋を扱った作品を多く描いたフランドルのアドリアーン・ブラウエルがハールレムに滞在し、アドリアーン・ファン・オスターデに大きな影響を与えている。それまでは農民を題材とした絵画のほとんどが野外を舞台に描かれていたが、ブラウエルは農民たちを飾り気のない薄暗い部屋を舞台として描き、オスターデはみすぼらしい屋内の描写が画面のほとんどを占める大きな絵を描いている[38]

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『猟師の贈り物』, ハブリエル・メツー, 1658年 - 1660年頃, アムステルダム国立美術館

他にオランダ黄金時代の著名な風俗画家としては、女流画家のユディト・レイステル(1609年 - 1660年)、その夫ヤン・ミーンセ・モレナール(1610年 - 1668年)、ヘラルト・ドウ(1613年 - 1675年)、ハブリエル・メツー(1629年 - 1667年)、フランス・ファン・ミーリス(1635年 - 1681年 (en:Frans van Mieris the Elder))、その息子ウィレム・ファン・ミーリス(1662年 - 1747年)、ゴットフリート・スカルッケン(1643年 - 1706年)アードリアン・ファン・デル・ヴェルフ(1659年 - 1722年 (en:Adriaen van der Werff))らがあげられる。

黄金時代後半でも肖像画や歴史画を描く画家は非常に高く評価され、現代の観点からは精緻に過ぎるといわれることすらあるそれらの作品は高価格で取引されるようになり、ヨーロッパ中でもてはやされていた[39]。風俗画はオランダ社会の拡大する隆盛を反映して、徐々に穏やかで富裕な階級を表現したものとなっていった。

風景画

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『冬の風景』, エサイアス・ファン・デ・ヴェルデ, 1623年

風景画は17世紀でも人気のある分野で、16世紀にフランドルで描かれた風景画が最初にその火付け役となった。実在の風景を描いた写実的絵画ではなく、多くが空想を交えて工房で描かれた絵画であり、初期フランドル派のヨアヒム・パティニールヘッリ・メット・デ・ブレスやピーテル・ブリューゲルがその伝統を受け継いだ画家たちである。オランダでは屋外で風景画を描くことによってより写実的なものとなった。フランドルの風景画によくみられる高い位置から俯瞰したような構図ではなく実際の視点からの構図であり、低い位置に描かれた地平線、広い上空に描かれた印象的な雲と降り注ぐ太陽光がオランダの風土を表す典型的な表現となっていった。好んで画題とされたのは西部の海岸、隣接する牧草地と家畜が描かれた河川などで、はるか遠景に影のように都市の町並みが描かれることも多かった。凍った運河や小川を描いた冬の風景や海も多く描かれている。

オランダ風景画が写実主義へと移行していく過渡期の重要な画家として、エサイアス・ファン・デ・ヴェルデ(1587年 - 1630年)、ヘンドリック・アーフェルカンプ(1585年 - 1634年)がおり、二人とも風俗画家としても重要な画家である。とくにアーフェルカンプの作品は風景画、風俗画どちらのカテゴリとしても問題ない作品が多い。1620年代後半から、対象物の輪郭を和らげ、ぼかし効果を多用して見事なまでに空を表現した風景画が描かれ始める(「色調のフェーズ」)。これらの風景画では人物は描かれないか、あるいは小さく遠景に描かれることが多く、対角線の構図で水辺を描いた風景画が主流となっていった。

著名な風景画家として、ヤン・ファン・ホーイェン(1595年 - 1656年)、サロモン・ファン・ロイスダール(1602年 - 1670年)、ピーテル・デ・モリン(1595年 - 1661年)、シモン・デ・フリーヘル(1601年 - 1653年)などがいる。近年の研究ではアルベルト・カイプ(1620年 - 1691年)を含む75人以上の画家が、ホーイェンの作風に影響を受けて絵画を制作したといわれている[43]

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『風車』,ヤーコプ・ファン・ロイスダール, 1670年, アムステルダム国立美術館
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『騎手と川のある風景』, アルベルト・カイプ, 1655年頃, アムステルダム国立美術館, カイプはイタリアの「黄金の光」をオランダ絵画に再現した

1650年代からは「古典的フェーズ」が始まる。「色調のフェーズ」独特のぼやけた表現は残っているものの、より表現力に満ちた構図で、光と色彩の強いコントラストで描かれた風景画である。構図としては一本の「壮大な樹木」、風車、塔、そして海を描いた風景画であれば舟が主題となった作品がよく描かれた[44]。この時期の重要な画家にヤーコプ・ファン・ロイスダール(1638年 - 1682年)がおり、さまざまな主題で数多くの作品を描いた。イタリア・ルネサンス風の作品ではなく、暗欝で急流や滝が描かれた山や森の大規模な「北欧風の」絵画を描いている[45]。『ミッデルハルニスの並木道 (1689年)(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)』で知られるメインデルト・ホッベマ(1638年 - 1709年)はファン・ロイスダールの弟子である。アルベルト・カイプとフィリップ・デ・コーニンク(1619年 - 1688年) (en:Philip de Koninck) も独自の作風の絵画を描いており、高さ1メートル以上の大きな作品で知られている。カイプはイタリアの技法である黄金色の光の表現を昼の情景に用い、前景にその光を浴びる人物を描き、後景には川と広大な自然を描きだした。

「色調のフェーズ」「古典的なフェーズ」のどちらにも属さない、イタリア風の風景画もオランダでは描かれているが、このスタイルの風景画家の全てがイタリアを訪れているわけではない。ヤン・ボト(? - 1652年)(en:Jan Dirksz Both) はローマ在住経験があり、カイプらオランダ風景絵画に大きな影響を受けたフランス人画家クロード・ロランとともに修業している。イタリア風風景画を描き続けた画家にニコラース・ベルヘム(1620年 - 1683年)、アダム・ペイナッケル(1622年 - 1673年)(en:Adam Pijnacker) があげられる。ペイナッケルは版画となって流入したイタリアの風景画を模写した作品を、当時のどの画家よりも多く描いている[46]

当然ながら以上のようなカテゴリに属さない風景画を描いた画家も多く存在した。レンブラントの数少ない風景画には、16世紀の作風で渓谷が描かれた大きな風景画を描いたヘラクレス・セーヘルス(1589年頃 - 1638年頃)(en:Hercules Seghers) などさまざまなスタイルの影響がみられる[47]

動物が描かれた風景画を描いた画家として、パウルス・ポッテル(1625年 - 1654年)、アドリアーン・ファン・デ・ヴェルデ(1636年 - 1672年)、カレル・デュジャルディン(1626年 - 1678年)、フィリップス・ワウウェルマン(1619年 - 1668年)らがいる。牛はオランダでは富の象徴だったが絵画では描かれることは少なく、馬が描かれることがはるかに多く、羊はイタリア風の風景画であることを表すために描かれていた。

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『アッセンデルフト教会』, ピーテル・ヤンス・サーンレダム, 1649年, アムステルダム国立美術館

教会などの建築物を描いた風景画もオランダではよく描かれた。当初描かれていたのは想像上の宮殿や街並みで、架空の北方マニエリスム様式の建物だった。フランドルでこのスタイルの風景画が発展し、オランダでもディルク・ファン・デーレン(1605年頃 - 1671年頃)が作品を残している。自然の風景画同様に建築物を描いた風景画も徐々に写実的なものへと変わっていった。なかには遠近法を用いて教会内部のインテリアを描いたピーテル・ヤンス・サーンレダム(1597年 - 1665年)やエマヌエル・デ・ウィッテ(1617年 - 1692年)のような画家もいる。ウィッテやヘンドリック・ファン・フリート(1611年頃 - 1675年)らが作風を受け継いだヘラルト・ホックヘースト(1600年 - 1661年)は、構図に対角線を用いることによって伝統的な絵画描写により劇的な効果を加えている[48]ヘリット・ベルクヘイデ(1638年 - 1698年)は、中規模都市の中央通り、広場、公共建築物などを専門的に描いた画家で、ヤン・ファン・デル・ハイデン(1637年 - 1712年)は、アムステルダムの通りを木々や運河とともに落ち着いた静かな情景として描いた画家である。ハイデンが描いた絵画は実際の風景を描いた作品だったが、より作品の完成度を上げるために手を加えることもあった[49]

ネーデルラント連邦共和国の繁栄はその多くを諸国との海洋貿易に負っており、都市には川や運河が交錯する水運都市でもあった。このような背景のもとで海洋画は非常に多く描かれるようになり、当時のオランダ人画家たちによって海洋画はさらなる発展を遂げる。河川や土地を描いた風景画と同様に、高い位置から見下ろしたような初期海洋画の視点から構図が下がっていったことが重要な分岐点となった[50]。海洋画も風景画の一種と見ることができ、多くの風景画家が川を描いた風景画と同様に海を描いた海洋画を制作している。サロモン・ファン・ロイスダール、アルベルト・カイプ、ヤン・ポルセリス、シモン・デ・フリーヘル、アブラハム・シュトークウィレム・ファン・デ・ヴェルデ (父)English版ウィレム・ファン・デ・ヴェルデ (子)English版などが当時の著名な画家である。

静物画

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『ヴァニタス』, ピーテル・クラース, 1630年

静物画は織物などの質感や写実的な光の効果を詳細に描きだす、画家にとっていわば自身の技量を存分に見せつけることができるジャンルだった。テーブルいっぱいのあらゆる食物、銀食器、テーブルクロスの複雑な織模様や微妙なしわ、飾られた花などは、画家たちにとって挑戦し甲斐のあるモチーフだった。

ほとんどすべての静物画には道徳的な寓意が込められている。人生の空しさ(ヴァニタス)を表現した作品が多く、頭蓋骨や半分剥かれたレモンなど、明白に虚無を表す対象物が描かれていなくとも静物画がヴァニタスを表していることは暗黙の了解として認識されていた[51]

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アブラハム・ファン・ベイエレン, 1667年, 「派手な」静物画で、ナイフの上にネズミが描かれている

初期の静物画に描かれたモチーフは平凡でありふれたものだったが、17世紀半ばから高価で異国風なモチーフが「派手に」描かれるようになっていき、それとともに静物画の人気も上がっていった。「色調のフェーズ」と「古典的フェーズ」に分岐した風景画と静物画はよく似ている[52]ヘダ・ウィレム・クラース(1595年 - 1680年頃) (en:Willem Claeszoon Heda)、ウィレム・カルフ(1619年 - 1693年)(en:Willem Kalf) は静物画を「派手に」発展させた画家で、ピーテル・クラース(? - 1660年)(en:Pieter Claesz) の静物画は静謐でヴァニタスを好んで描いた画家だった。静物画家が使用する絵具は、とくに17世紀半ばには茶色が色彩のほとんどを占めており、かつぼんやりとした効果で描かれることが多かった。しかしながらヤン・ダヴィス・デ・ヘーム(1606年 - 1684年)(en:Jan Davidsz. de Heem) は例外的に豊かな色彩の静物画を描いている画家の一人となっている。

花を中心に描く静物画も一つのジャンルをなし、マリア・ファン・オーステルウィック(1630年 - 1693年)(en:Maria van Oosterwijk) やラッヘル・ライス(1664年 - 1750年)(en:Rachel Ruysch) のようにこのジャンルで活躍した女流画家もいる[53]。静物画では花それ自体は非常に写実的に描かれてはいるが、咲く季節がそれぞれ異なる花々が同じ絵画に描かれることや、同じ花が複数の絵画に描かれることもごく普通のことだった。また、花瓶に多くの花束を飾ることは当時の一般家庭ではありえず、非常に富裕な家庭でさえもデルフト陶器のチューリップ用花挿し (en:Tulipiere) に一本ずつ花を飾るのが精いっぱいだった[54]

オランダ静物画は、フランドル生まれで17世紀初めにはオランダ北部で活動していたアンブロジウス・ボスハールト(1573年 - 1621年)と、その一族によって発展した。ボスハールトの義弟バルタザール・ファン・デル・アスト(1593年頃 - 1657年)(en:Balthasar van der Ast) は貝や花を静物画に描いた最初の画家のひとりだった。これら初期の静物画では花束は比較的シンプルに表現され、どちらかといえば明るい色調の作品だった。しかしながら17世紀半ば以降の静物画はウィレム・ファン・アールスト(1627年 - 1683年)(en:Willem van Aelst) の作品に見られるように、暗色の背景を持った典型的なバロック様式といえる構成になっていった、

次世代の評価

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『渡し船を待つ旅人』, フィリップス・ウーウェルマン, 1649年, 白馬はウーウェルマンがハイライトとしてよく描いたモチーフだった

17世紀オランダ絵画の大きな成功は次世代以降の絵画を圧倒するものだった。18世紀、19世紀のオランダ人画家で世界的な評価を受けている者はいない。17世紀終わりの時点ですら、画商は生きている画家よりも既に死去した画家の作品に興味を示すといわれるほどであった。

オランダ黄金時代の絵画は「巨匠・偉大な画家 (オールド・マスター)」の作品の大部分を占めているが、これは単に17世紀のオランダで大量の絵画が制作されたことによるものではない。「オールド・マスター」という言葉自体が、オランダ黄金時代の芸術家を意味する用語として18世紀につくられたものである。もとはオランダ王室コレクションが所有していたフィリップス・ウーウェルマンの作品だけでも、現在ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に60枚以上、エルミタージュ美術館に50枚以上が所蔵されている[56]。しかし黄金時代のオランダ絵画の評価は時代によって様々で、とくにロマン派以降のレンブラントに対する賛美で顕著だった。一方財産価値と市場価格が大きく下がった画家もいる。黄金世紀終盤でもライデンの優れた画家たちへの評価は高かったが、19世紀半ば以降のさまざまなジャンルで描かれた写実主義の絵画はより賞賛され、高値で取引されることとなった[57]。フェルメールは描いた絵画が19世紀になってから他の画家の作品であるという間違った特定をされ、絵画の歴史からその名前がほとんど抹消されるところだった。しかしながら、他の画家の作品だったと誤解されていたフェルメールの多くの絵画がすでに主要なコレクションに所蔵されていたという事実は、画家の名前に関係なく個々の絵画それ自体が優れていたということを意味している[58]。フェルメールの他にも多くの無名画家の中から後世に有名画家の仲間入りをした画家として、アドリアーン・コールテ(1665年頃 - 1707年)、フランス・ポスト(1612年 - 1680年)らがあげられる[59][60]

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『父の訓戒』, ヘラルト・テル・ボルフ, 1654年頃, アムステルダム国立美術館

風俗画は変わらず人気を保っていたが、ジャンルとしての風俗画は依然として低い位置におかれていた。18世紀のイギリス人画家ジョシュア・レノルズは、オランダ絵画について意義深いコメントを残している。レノルズはフェルメールの絵画『牛乳を注ぐ女』やハルスの生き生きとした肖像画などの質の高さに強い感銘を受け、自身の作品に正確に作品を仕上げるだけの忍耐が無かったことを自省している。そしてヤン・ステーンがイタリア生まれで盛期ルネサンスの洗礼を浴びていれば、ステーンの才能はより開花しただろうと残念がっている[61]。レノルズが活動していた時代には、風俗画が内包していた道徳的側面は、黄金時代に道徳的寓意に満ちた風俗画が描かれていたオランダですら理解されないものとなっていた。ヘラルト・テル・ボルフの作品に通称『父の訓戒 (Conversación galante)』と呼ばれる絵画がある。この作品は、父親が娘を叱責しているところを繊細な表現で描いた絵画であるとして、ドイツの文豪ゲーテら多くの著名人に賞賛されていた。しかし現在の多くの美術史家はこの絵画は売春宿で客の男が娼婦を誘っているところを描いた作品であるとしている。この作品にはベルリンとアムステルダムに二枚のヴァージョンがあり、客の男が持っている「告げ口コイン (tell-tale coin)」[62]は、片方のヴァージョンにしか描かれていない。片方の作品のみに描き足されたのか、あるいは両方の作品にもともと描かれていたのが片方の作品から除去されたのかははっきりしていない[63]

18世紀後半にイングランドでは、オランダ絵画の現実的写実主義は「ホイッグ党風」と呼ばれていた。フランスでは啓蒙時代合理主義哲学と結びついて、政治改革への願望の象徴となった[64]。19世紀になるとオランダ写実主義は世界的な評価を得た。「ジャンルのヒエラルキー」の順位付けは衰退し、当時の各国の画家たちはオランダの風俗画から、写実主義と絵画に物語を与えるためのモチーフの両方を自分たちの作品に取り入れ始めた。オランダ絵画と同じような主題の絵画を描き、静物画以外では黄金時代のオランダ絵画が大きなキャンバスに描かれるあらゆる絵画ジャンルの先駆者ともいえる存在になっていった。

18世紀では風景画はイタリア風絵画がもっとも影響力があり、高く評価されていた。しかしイタリア風風景画は人工的で不自然であるとするロマン派の一員だった19世紀イギリス人画家ジョン・コンスタブルのように、抑制された色調の古典的な作風の画家を好む芸術家もいた[46]。19世紀の風景画においてはオランダ写実主義絵画とイタリア風絵画はどちらも影響力があり、大衆からの人気があったのは間違いない。

脚注

  1. 1702年がオランダ黄金時代の終焉だとする説がある:Slive はオランダ黄金時代を1600年 - 1675年と1675年 - 1800年に分けて著述している(p. 296, 294, 32)
  2. 日本で「オランダ絵画」と呼称される絵画は、この時代に描かれたものをさすことが一般的である。
  3. Fuchs, 104
  4. 現存しているのはそのうちの1%程度で、価値ある絵画は10%程度だった (Lloyd, 15)
  5. MacLaren によると、ヤン・ステーンは宿屋を経営しており、アルベルト・カイプは裕福な家庭から妻を迎えたため経済的な心配はなかった。一方カレル・デュジャルディンは画家として生計を立てるのを諦めたと考えられている
  6. Franits, 217 and ff. on 1672 and its effects.
  7. Prak, 241
  8. Lloyd, 97
  9. Fuchs, 43
  10. Franits' book is largely organized by city and by period; Slive by subject categories
  11. Fuchs, 76
  12. See Slive, 296-7 and elsewhere
  13. Fuchs, 107
  14. Fuchs, 62, R.H. Wilenski, Dutch Painting, "Prologue" pp. 27-43, 1945, Faber, London
  15. Fuchs, 62-3
  16. Fuchs, 43
  17. Slive, 13-14
  18. Fuchs, 62-69
  19. Franits, 65. Catholic 17th century Dutch artists included Abraham Bloemaert and Gerard van Honthorst from Utrecht, and Jan Steen, Paulus Bor, Jacob van Velsen, plus Vermeer who probably converted at his marriage.[1] Jacob Jordaens was among Flemish Protestant artists.
  20. Slive, 22-4
  21. Fuchs, 69-77
  22. Fuchs, 77-78
  23. Trip family tree. ゾフィアの祖父、祖母をレンブラントが肖像画に描いている
  24. Ekkart, 17 n.1 (on p. 228).
  25. Shawe-Taylor, 22-23, 32-33 on portraits, quotation from 33
  26. Ekkart, 118
  27. Ekkart, 130 and 114.
  28. Ekkart (Marike de Winkel essay), 68-69
  29. Ekkart (Marike de Winkel essay), 66-68
  30. Ekkart (Marike de Winkel essay), 69-71
  31. Ekkart (Marike de Winkel essay), 72-73
  32. Fuchs, 42 and Slive, 123
  33. Franits, 1, mentioning costume in works by the Utrecht Caravagggisti, and architectural settings, as especially prone to abandon accurate depiction.
  34. Franits, 4-6 summarizes the debate, for which Svetlana Alpers' The Art of Describing (1983) is an important work (though see Slive's terse comment on p. 344). See also Franits, 20-21 on paintings being understood differently by contemporary individuals, and his p.24
  35. On Diderot's Art Criticism. Mira Friedman.p. 36
  36. Fuchs, 39-42, analyses two comparable scenes by Steen and Dou, and p. 46.
  37. Franits, 24-27
  38. Franits, 34-43. Presumably these are intended to imply houses abandoned by Catholic gentry who had fled south in the Eighty Years War. His self-portrait shows him, equally implausibly, working in just such a setting.
  39. Fuchs, 80
  40. Franits, 164-6.
  41. MacLaren, 227
  42. Franits, 152-6. Schama, 455-460 discusses the general preoccupation with maidservants, "the most dangerous women of all" (p. 455). See also Franits, 118-119 and 166 on servants.
  43. Slive, 189 – the study is by H.-U. Beck (1991)
  44. Slive, 190 (quote), 195-202
  45. Derived from works by Allart van Everdingen who, unlike Ruysdael, had visited Norway, in 1644. Slive, 203
  46. 46.0 46.1 Slive, 225
  47. Rembrandt owned seven Seghers; after a recent fire only 11 are now thought to survive – how many of Rembrandt's remain is unclear.
  48. Slive, 268-273
  49. Slive, 273-6
  50. Slive, 213-216
  51. Slive, 279-281. Fuchs, 109
  52. Fuchs, 113-6
  53. and only a few others, see Slive, 128, 320-321 and index, and Schama, 414. The outstanding woman artist of the age was Judith Leyster. Other female artists are described here
  54. Fuchs, 111-112. Slive, 279-281, also covering unseasonal and recurring blooms.
  55. クラースは光の反射の表現にすぐれていたことで有名だった。
  56. Slive, 212
  57. See Reitlinger, 11-15, 23-4, and passim, and listings for individual artists
  58. See Reitlinger, 483-4, and passim
  59. Slive, 319
  60. Slive, 191-2
  61. Slive, 144 (Vermeer), 41-2 (Hals), 173 (Steen)
  62. 娼婦を買うためのコインであり、この絵画が売春宿の情景であることを意味している
  63. Slive, 158-160 (coin quote), and Fuchs, 147-8, who uses the title Brothel Scene. Franits, 146-7, citing Alison Kettering, says there is "deliberate vagueness" as to the subject, and still uses the title Paternal Admonition.
  64. Reitlinger, I, 11-15. Quote p.13

出典

  • "Ekkart": Rudi Ekkart and Quentin Buvelot (eds), Dutch Portraits, The Age of Rembrandt and Frans Hals, Mauritshuis/National Gallery/Waanders Publishers, Zwolle, 2007, ISBN 9781857093629
  • Franits, Wayne, Dutch Seventeenth-Century Genre Painting, Yale UP, 2004, ISBN 0300102372
  • Fuchs, RH, Dutch painting, Thames and Hudson, London, 1978, ISBN 0500201676
  • Ingamells, John, The Wallace Collection, Catalogue of Pictures, Vol IV, Dutch and Flemish, Wallace Collection, 1992, ISBN 0900785373
  • Christopher Lloyd, Enchanting the Eye, Dutch Paintings of the Golden Age, Royal Collection Publications, 2004, ISBN 1902163907
  • MacLaren, Neil, The Dutch School, 1600–1800, Volume I, 1991, National Gallery Catalogues, National Gallery, London, ISBN 0947645-99-3
  • Prak, Maarten, "Guilds and the Development of the Art Market during the Dutch Golden Age." In: Simiolus: Netherlands Quarterly for the History of Art, vol. 30, no. 3/4. (2003), pp. 236-251.
  • Gerald Reitlinger|Reitlinger, Gerald; The Economics of Taste, Vol I: The Rise and Fall of Picture Prices 1760-1960, Barrie and Rockliffe, London, 1961
  • Simon Schama|Schama, Simon, The Embarrassment of Riches: An Interpretation of Dutch Culture in the Golden Age, 1987
  • Desmond Shawe-Taylor|Shawe-Taylor, Desmond and Scott, Jennifer, Bruegel to Rubens, Masters of Flemish Painting, Royal Collection Publications, London, 2008, ISBN 9781905686001
  • Slive, Seymour, Dutch Painting, 1600–1800, Yale UP, 1995, ISBN 0300074514

日本語文献

  • エディ・デ・ヨング(Eddy de Jongh)『オランダ絵画のイコノロジー テーマとモチーフを読み解く』小林頼子監訳、NHK出版、2005年
  • 『西洋美術の歴史6 17~18世紀 バロックからロココへ、華麗なる展開』中央公論新社、2016年
    • 「第3章 一七世紀ネーデルラントの美術」。大野芳材・中村俊春・宮下規久朗・望月典子著
  • クリストファー・ブラウン『オランダ絵画』 千速敏男訳、西村書店〈アート・ライブラリー〉、1994年