コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)
コンラート2世(Konrad II., 990年7月12日? - 1039年6月4日)は中世ドイツの王(在位:1024年 - 1039年)、イタリア王(在位:1026年 - 1039年)及びブルグント王(在位:1033年 - 1039年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1027年 - 1039年)。ザーリアー朝初代のローマ皇帝で、ザクセン朝初代皇帝オットー1世大帝の女系の玄孫[1]。ローマ皇帝としては唯一の「コンラート」であるが、東フランク王コンラート1世との区別のため「2世」とするのが一般的である。
Contents
生涯
生い立ち
ザーリアー朝はコンラート2世の父方の高祖父に当たるヴェルナー5世を祖として、ヴォルムスガウ伯およびシュパイアーガウ伯位を持っていた[2]。ヴェルナー5世はコンラディン家出身である東フランク王コンラート1世(若王)の婿であったといわれる[3][4]。息子コンラート(赤毛公)はオットー1世の娘のリウトガルトを娶ってロートリンゲン公となったが、義兄でオットー1世の子リウドルフの反乱に加担したため、ロートリンゲン公位を剥奪された[5]。後のレヒフェルトの戦いでアールパード朝のハンガリー王タクショニュ率いるマジャル人の軍勢に包囲されると、コンラートは岳父を救援して自身は戦死するも、ハンガリー王国の軍勢を撃退に成功した[6]。
コンラートとリウトガルトの息子オットー1世(老公)はケルンテン公国を獲得[7]、オットー1世の長男であるシュパイアーガウ伯ハインリヒとアーデルハイト(ジラール家、ロートリンゲンのメッツ伯リシャールの娘)との間の長男として後の皇帝コンラート2世は生まれた[8][9]。
ローマ教皇グレゴリウス5世、ケルンテン公コンラート1世およびシュトラスブルク大司教ヴィルヘルムは叔父で、ケルンテン公コンラート2世とヴュルツブルク大司教ブルーノ2世兄弟(コンラート1世の子)は従弟である[10]。また、母アーデルハイトはフランケン貴族と再婚し、異父弟にあたる後のレーゲンスブルク大司教ゲープハルトをもうけた[8]。
青年期
父ハインリヒ2世は祖父のケルンテン公オットー1世に先立って990年代頃[11]に死去し、コンラートは祖父オットー1世から家領の大部分を相続したものの[8]、ケルンテン公位は叔父コンラート1世が継承し、コンラートはローマ帝国の国王として選出されるまで無官職であった[12]。
1000年にヴォルムスガウ司教ブルクハルトと出会い、その教育を受けた[13]。しかしこのような教育の機会にもかかわらず、コンラートは生涯文盲に留まった。年代記作家はコンラートがアルファベットを読めず、またラテン語の読み書きもできなかったと伝えている[14]。
1016年の終わりまたは1017年の初めに、コンラディン家のシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラと結婚した[12]。ギーゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた(母親がブルグント王コンラート3世の娘ゲルベルガ)。なお、この結婚は2人が近縁であることにより、教会法によれば不法なものであった[15]。
選挙による国王選出
ハインリヒ2世が子を残さずして死去し、ザクセン朝は男系の血統が完全に断絶した。そのため1024年9月4日、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。この場において、満場一致でコンラートが王に選出され、ザーリアー朝初代の王となった[16]。しかしながら、満場一致とはいえケルン大司教ピルグリム、ロートリンゲン大公ゴツェロ1世などはこの諸侯集会に臨席していなかった[12][16]。そのためハインリヒ2世と同様にコンラート2世も各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた[13][17]。
帝国の版図拡大
ザクセン朝が推進したイタリア政策はザーリアー朝にも引き継がれた。1026年にはイタリア遠征を敢行して、同年3月23日にミラノでイタリア王の戴冠を受けた[18]。さらに翌年の復活祭の日(3月26日)には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった[19][20]。この戴冠式には、東フランク(後のドイツ)・イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーク王クヌーズ2世なども臨席していた[20][21]。
1032年9月、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去し、コンラート2世は相続によってブルグント王位も手中に収め[21]、1033年2月2日ペーターリンゲンで戴冠した[22]。このことによって東フランク・イタリア・ブルグントという3国の王冠が一手に掌握された。この3国の領域が中世西欧におけるローマ帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる政体の範囲を規定する雛型となった[21]。
1039年、ユトレヒトで死去[23]、自身が建設させたシュパイアー大聖堂に葬られた[24]。息子のハインリヒ3世がその後継者となった。
子女
1016年頃にシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘ギーゼラと結婚したが、ギーゼラは最初にブルノン家のブラウンシュヴァイク伯ブルーノ1世(1010年頃没)と、2度目にバーベンベルク家のシュヴァーベン公エルンスト1世(1015年没)と結婚しており、コンラートとの結婚は3度目であった[25]。ギーゼラとの間に以下の子女をもうけた。
脚注
- ↑ 菊池、p. 62
- ↑ 瀬原、p. 143
- ↑ Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln Neue Folge Band I. 1, 1998
- ↑ 下津、p. 302
- ↑ 瀬原、p. 144
- ↑ 瀬原、p. 86
- ↑ 瀬原、p. 145
- ↑ 8.0 8.1 8.2 瀬原、p. 147
- ↑ Karl R. Schnith. Mittelalterliche Herrscher in Lebensbildern. Von den Karolingern zu den Staufern. Styria Premium, 1990. Stammtafel.
- ↑ 下津、p. 303
- ↑ 990年(下津、p. 303)と1000年頃(瀬原、p. 147)死去の説がある。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 瀬原、p. 148
- ↑ 13.0 13.1 瀬原、p. 149
- ↑ 鈴木、p. 45
- ↑ 共にハインリヒ1世の子孫にあたる。1024年、マインツ大司教アリボーは2人が近親であることを理由に、ギーゼラへの戴冠を拒否した(シュルツェ、p. 81)。
- ↑ 16.0 16.1 成瀬 他、p. 153
- ↑ 成瀬 他、pp. 153 - 154
- ↑ 成瀬 他、p. 155
- ↑ 成瀬 他、p. 155 - 156
- ↑ 20.0 20.1 瀬原、p. 153 - 154
- ↑ 21.0 21.1 21.2 成瀬 他、p. 156
- ↑ 22.0 22.1 瀬原、p. 161
- ↑ 成瀬 他、p. 157
- ↑ 瀬原、p. 167
- ↑ 瀬原、p. 148
参考文献
- 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社現代新書、2003年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
- ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅲ』 ミネルヴァ書房、2013年
- 鈴木博之 『世界遺産をもっと楽しむための西洋建築入門』 JTBパブリッシング、2013年
関連項目
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