ゴルディアヌス3世

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マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス(Marcus Antonius Gordianus Pius)、またはゴルディアヌス3世(Gordianus III、225年1月20日 - 244年2月11日)は、ローマ皇帝(在位:238年 - 244年)。ゴルディアヌス1世の娘でゴルディアヌス2世の姉妹である、アントニア・ゴルディアナの息子である。父の名はユニウス・リキニウス・バルブスであり、おそらくは238年に祖父の名を名乗る以前には父と同じこの名を名乗っていたと思われる。父の父母の名はユニウス・リキニウス・バルブス(140年頃 - ?)とセルウィリア・ケイオニア(145年頃- ?)であり、セルウィリアの父母はクィントゥス・セルウィリウス・プデンス(120年頃 - 166年以降)とケイオニア・プラウティア(122年頃 - ?)。ケイオニア・プラウティアの弟はネルウァ=アントニヌス朝の皇帝の一人でマルクス・アウレリウス・アントニヌスの共同皇帝だったルキウス・ウェルスである。つまり、ゴルディアヌス3世はプラウティアの曾孫で、ウェルスから見て曾姪孫(大甥の子、姪の孫)という遠縁にあたる。また、プラウティアとウェルスの姉弟の父で皇帝ハドリアヌスの養子の一人であったルキウス・アエリウス・カエサルの玄孫にあたる。このようにゴルディアヌス3世の一族は、ネルウァ=アントニヌス朝と縁戚、血縁両方で結びついていた。

生涯

皇帝アレクサンデル・セウェルス高地ゲルマニア属州の首都モゴンティアークム(現代のマインツ)で暗殺された後、マクシミヌス・トラクス元老院の承認を得て、皇帝に即位した。しかし、元老院はマクシミヌスの政策に対する不満から対立するようになる。238年3月、ゴルディアヌス1世がカルタゴで叛旗を翻すと、ローマはマクシミヌスの行動を反逆とみなし、アフリカ属州にいたゴルディアス1世と2世を共同皇帝と宣言した。しかしゴルディアヌス父子は4月にマクシミヌスの支持者であったヌミディア総督カペリアヌスに鎮圧された。2人は死んだものの、ローマの公衆はゴルディアヌス父子を、平和を好み文芸に秀でながらマクシミヌスの暴政の犠牲となったものとして悼み、記憶に留めた。

マクシミヌスはローマに進軍しつつあったが、元老院はなおもこれを認めず、元老院議員デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスマルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスを共同皇帝とし、ゴルディアヌス1世の孫でまだ13歳であったゴルディアヌス3世に「カエサル」の称号を与えて2人の副帝とした。マクシミヌス配下の軍団の離間、とりわけ第二軍団パルティカ (Legio II Parthicaによる暗殺のおかげで、2人はマクシミヌスを破ったが、2人の治世は初めから危殆に瀕していた。民衆の暴動、軍団の不満、238年6月のローマの大火などが相次ぎ、ついに7月29日、2人は親衛隊により暗殺され、ゴルディアヌス3世がローマ皇帝と宣言された。

ゴルディアヌス3世は若年だったため、実際の政治はその周囲の貴族たちが行い、元老院を通じてローマの国事を支配していた。241年にゴルディアヌス3世は、新任の親衛隊長官ガイウス・フリウス・サビニウス・アクイラ・ティメシテウスの娘フリア・サビナ・トランクィリナと結婚した。親衛隊の勢力と皇帝の舅という立場を背景にして、ティメシテウスはすぐにローマ帝国の事実上の支配者となった。

3世紀、ローマ帝国の国境はライン川ドナウ川をはさんで対峙するゲルマン人の部族によって弱体化していた。またユーフラテス川の向こうではサーサーン朝(ペルシア)の攻撃が増していた。ペルシアがシャープール1世のもとメソポタミアに侵攻すると、若い皇帝ゴルディアヌス3世はヤヌス神殿の扉を開け、東方へ向かった。ヤヌス神殿の扉を開けることは古代ローマにおいては戦時を意味したが、この時扉を開けたのが歴史に記録される最後の事例となっている。ペルシア軍はユーフラテス川の対岸へと押しやられレサエナの戦いEnglish版243年)で敗北した。戦役は成功に終わり、ゴルディアヌスは敵地への侵攻を計画したが、このとき義父ティメシテウスが定かでない状況のもと死を遂げた。ティメシテウスを失い、戦役とゴルディアヌスの安全は危険にさらされることになった。

ピリップス・アラブスが後任の親衛隊長官となり、戦役は続けられた。244年のはじめ、ペルシア軍は逆襲をしてきた(ミシケの戦いEnglish版)。ペルシア側史料(ナクシェ・ロスタムのレリーフ)によれば、現在のファルージャの近くでペルシアとローマの戦闘があり、ローマはこれに大敗し、ゴルディアヌス3世はこの戦いで死んだ。ローマ側史料はこの戦いには触れず、ゴルディアヌスはこれより遠く、ユーフラテス川上流で死んだとする。ゴルディアヌス3世の死因は不明であるが、親衛隊長官ピリップスがしばしば殺人者として言及される。ピリップスはゴルディアス3世の後を継いで、皇帝となった。19歳没。

若く性格のよいゴルディアヌス3世は、祖父や伯父、さらには自身の悲劇的な運命もあって、長くローマ人より敬愛された。新皇帝ピリップスの反対にもかかわらず、ゴルディアヌス3世は死後に神格化された。これは民衆の歓心を買い、暴動を避けるためであった。

関連項目


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