シベリア出兵

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シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、: Siberian Intervention

対ソ連への武力干渉の一つ。極東においてロシア革命に武力干渉する目的で,フランス,イギリス,日本,アメリカがシベリアに共同出兵したことをさす。 1917年ロシアで十月革命が勃発すると,フランス,イギリスによって日米両国に共同干渉が要請された。革命後,日本では東シベリアに親日的緩衝国家を樹立して脅威にそなえようという積極的シベリア出兵論が,田中義一参謀次長を中心とする参謀本部や本野一郎外相ら外務省の一部に台頭していたが,18年3月,アメリカがシベリア干渉に疑義を明らかにしたことで,対米協調を優先する立場から,日本政府は本野らの自主的出兵論をいったん退けた。しかし一方では,反革命政権の擁立工作などシベリア介入の準備が進められていた。7月になって,アメリカがチェコスロバキア軍救援のために日米共同で限定出兵することを提議すると,8月2日,日本はこれに応じてシベリア出兵を宣言し,同3日にアメリカも出兵宣言を行なった。同 12日,日本軍はウラジオストク上陸を開始し,その後も増兵して,協定兵力1万 2000をはるかにしのぐ全面出兵となり,9月上旬にハバロフスクを占領,10月には東シベリア一帯を占領し,11月には7万 3000の大軍にふくれ上がった。しかし,日本の反ボルシェビキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗によって不成功に終った。

19年秋にはコルチャクのオムスク政権が崩壊し,イギリス,フランスによる革命政権の圧殺は不可能となり,ヨーロッパ革命情勢もあって両国はシベリア撤兵を決定,アメリカも,チェコスロバキア軍の引揚げ完了で出兵目的を達成したとして,20年1月,シベリア派遣軍の撤退を通告した。しかし原敬内閣は,列国が撤兵したのちも出兵目的をチェコスロバキア軍救援から居留民保護と朝鮮,満州への過激派の脅威防止に変更して,駐兵を継続した。このため国際的不信が集中し,国内での批判も高まった結果,22年 10月,日本は撤兵を完了したが,3500名の死傷者を出し,10億円に上る戦費を費やした。この出兵は日米関係の悪化を招き,日ソ国交回復の妨げとなっただけであった。



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