デリー・スルターン朝

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デリー・スルターン朝の版図

デリー・スルターン朝(デリー・スルターンちょう、Delhi Sultanate)は、13世紀初頭から16世紀初め(1206年 - 1526年)までの約320年間デリーを中心に主として北インド[1]を支配した5つのイスラーム王朝の総称。名称に関しては、デリー・スルタン朝、デリー諸王朝、デリー・サルタナットなど様々ある。

概要

具体的には、次の5王朝を指す。このうちローディー朝のみアフガン系で、そのほかはトルコ系の王朝である。

13世紀から100年にわたってモンゴルのインド侵攻1221年 - 1320年)にさらされた。

なお、ムガル帝国フマーユーンを破り、北インド一帯を1540年 - 1555年にかけて支配したシェール・シャースール朝をデリー・スルターン朝として数える場合がある。

歴史

奴隷王朝

1206年ムハンマド・ゴーリーの死後、その軍人奴隷たるクトゥブッディーン・アイバクゴール朝の北インド領を支配する政権として、デリー・スルターン朝が打ち立てた[2]。アイバクが打ち立てたこの王朝は、王朝の創始者をはじめとする3人が軍人奴隷であったことから「奴隷王朝」と呼ばれている。

1210年、アイバクが死亡すると、翌年にシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが君主となった。彼はベンガルシンドムルターンラホールなど北インド一帯を征服した[3]

だが、その死後に貴族らが政権を握ると、息子や娘による短期間の統治が続き、最終的にギヤースッディーン・バルバンが政権を握った[4][5]1266年にイルトゥトゥミシュの息子が没すると、自身が王位を継いだ。バルバンは貴族をおさえ、王権を強化した。

1286年、バルバンが死ぬと孫のムイズッディーン・カイクバードが継いだが、貴族が再び伸長し、カイクバードは傀儡となった[6][7]

ハルジー朝

奴隷王朝の混乱に乗じ、辺境ではハルジー族が勢力を拡大した。1290年に奴隷王朝の武将でありハルジー族の族長ジャラールッディーン・ハルジーが奴隷王朝を滅ぼし、デリー・スルターン朝の2番目の王朝であるハルジー朝を創始した[8][9]

だが、1296年にジャラールッディーンは甥のアラー・ウッディーン・ハルジーに暗殺された。アラー・ウッディーンは軍を整え、デカン地方、南インドに遠征軍を送り、ヤーダヴァ朝カーカティーヤ朝ホイサラ朝を臣従させた[10]

アラー・ウッディーンの治世晩年、その有能な武将であり家臣マリク・カーフールの専横が目立つようになった[11][12]。その死後、マリク・カーフールが実権を握ったがすぐに暗殺され、混乱が続いた。

トゥグルク朝

1320年、ハルジー朝の武将ギヤースッディーン・トゥグルクがデリーを制圧、デリー・スルターン朝の3番目の王朝であるトゥグルク朝を開いた[13]。彼自身はベンガル地方に遠征し、息子にはデカン、南インドを任せて、カーカティーヤ朝とパーンディヤ朝を滅ぼし、広大な版図を獲得した。

次のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世、王子時代に獲得したデカン、南インドの広大な領土を統治をするためにデリーからダウラターバードへと遷都した[14]。だが、この遷都は結果的に失敗し、デリーへと再遷都後、各地で反乱が相次いだ。この過程で、マドゥライ・スルターン朝ヴィジャヤナガル王国バフマニー朝ベンガル・スルターン朝が誕生した。

1351年、従兄弟のフィールーズ・シャー・トゥグルクが王位を継承すると、先代から続く混乱は収まり、内政面では大きな功績をあげた。だが、ベンガル地方への遠征は失敗するなど、喪失した領土は奪還できなかった[15][16]

1389年、フィールーズ・シャーが死亡すると、一族の間で王位をめぐる争いが発生し、1398年にはティムールの侵攻があって、デリーが略奪・破壊された[17]。また、その前後にジャウンプル・スルターン朝マールワー・スルターン朝グジャラート・スルターン朝が成立した。

サイイド朝

1414年、ティムールの代官でもあったヒズル・ハーンはデリーを制圧し、デリー・スルターン朝の4番目の王朝であるサイイド朝を開いた[18]

だが、サイイド朝はトゥグルク朝の領土をそのまま継承しただけなので、首都デリーとその周辺しか支配していなかった[19]。加えてジャウンプル・スルターン朝マールワー・スルターン朝メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった[20][21]

ムハンマド・シャーの治世、数人の貴族らが政権を握り、マールワーにデリーを制圧するように要請することもあった。また、パンジャーブ一帯に力を持ったアフガン系ローディー族が台頭した[22]

ローディー朝

こうしたなか、1451年にローディー族の族長バフルール・ローディーがデリーを制圧し、デリー・スルターン朝の5番目の王朝であるローディー朝を開いた。その治世、ジャウンプル・スルターン朝と長い戦いがあり、1479年にその首都ジャウンプルを征服した。

次のシカンダル・ローディーは名君であり、ジャウンプルを完全に支配下に置き、ビハールも併合し、デリーの南に存在したラージプートのグワーリヤル王国に征服しようとした。また、デリーからアーグラへと遷都し[23]、内政面でも成功をおさめ、その領土には平和が保たれた。

だが、イブラーヒーム・ローディーの時代、父の代からの貴族勢力と衝突し、またメーワール王国にも敗北し[24]バーブルがパンジャーブに侵攻するなど[25]、王朝は混乱が続いた。そして、1526年にイブラーヒームはバーブルにパーニーパットの戦いで敗北して戦死、ここにデリー・スルターン朝は滅亡した[26]

歴代君主

奴隷王朝

ハルジー朝

トゥグルク朝

サイイド朝

ローディー朝

脚注

  1. ハルジー朝とトゥグルク朝のみほぼインド全土を統一。
  2. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.109
  3. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.112
  4. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115
  5. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.116
  6. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.123
  7. チャンドラ『中世インドの歴史』、p.89
  8. チャンドラ『中世インドの歴史』、p.90
  9. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.124
  10. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.130
  11. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.130
  12. チャンドラ『中世インドの歴史』、p.91
  13. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.132
  14. 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.115
  15. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.147
  16. 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.115
  17. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158
  18. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149
  19. 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.115
  20. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151
  21. 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.116
  22. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151
  23. チャンドラ『中世インドの歴史』、p.182
  24. チャンドラ『中世インドの歴史』、p.182
  25. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163
  26. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163

参考文献

  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 
  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 

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