ハンニバル

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ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴ将軍ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「光」という意味である。

第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強のとして後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも、その戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど、戦術家としての評価は非常に高い。

チュニジアで流通している5ディナール紙幣に肖像が使用されている。

生涯

少年期

第一次ポエニ戦争シチリア共和政ローマに奪われると、ハンニバルの父、ハミルカルは当時未開であったイベリア半島植民地化政策に乗り出す。そして植民都市カルタゴ・ノウァを建設し、イベリア人部族をまとめて兵士を集め、軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際、父はハンニバルをバアルの神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓わせたという。ハミルカルの死後、ハンニバルは、ハミルカルの娘婿であり義理の兄にあたるハシュドゥルバルのもとで少年期を過ごす。

ハンニバル戦争

アルプス越え

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アルプス山脈を越えるハンニバルの軍

紀元前221年にハシュドゥルバルが暗殺されると、ハンニバルはまだ26歳ながらも、軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島戦線指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市サグントゥム(現サグント)と同盟関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。しかし、ハンニバルはサグントゥムを包囲攻撃し、八ヶ月後に陥落させた[1]。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。

紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめハンニバルの軍勢は歩兵 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、騎兵 12,000(ヌミディア兵主体)、戦象 37 頭、カルタゴの伝統通り多数の傭兵が含まれていた[2]。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵 10,000 人、騎兵 1,000 人をピレネー山脈からエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。ハンニバルの軍勢は歩兵 50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭となった。これを率い、ハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。

ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深い森林のためにすぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。戦象も 30 頭は健在だったようである。この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。索敵していたローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオが現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、アルプス山脈に向かっていた。

このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にして行軍をはじめた。途中で遭遇したガリア人には「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。が降るほどの寒さ疲労、狭い山道となど、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵 20000 、騎兵 6000 にまで減った[3]

ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争、紀元前218年 - 紀元前201年)の始まりであった。

トレビアの戦い

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トレビアの戦いの図
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トラシメヌス湖畔の戦いの図

ローマはハンニバルの攻撃は予測していたが、まさかアルプス山脈を越えて侵攻してくるとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにハンニバルの動きを阻止すべくローマ軍を出動させるが、ティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、スキピオ自身も負傷する。ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルに協力し始めた。ハンニバル軍は続くトレビアの戦いでも、もう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスも破る。

トラシメヌス湖畔の戦い

こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべく紀元前217年の春に南下を開始し、エトルリアに侵入する。これに対し、ローマでは新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスが再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、2人の執政官は戦死した。この勢いに乗じてローマの同盟都市に離反を促すため、ハンニバルは南イタリアマグナ・グラエキア)へ向かった。ハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という戦略を立てていた。戦勝の中でローマ本軍とその捕虜には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時釈放するなど、工作を重ねていたのである。そうした戦いの中、不衛生な沼沢地の行軍などにより、疫病で左目の視力を失った。

ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、クィントゥス・ファビウス・マクシムス独裁官に任命する。ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。ハンニバルはアプーリア(現在のプーリア)を荒し回りカンパニアへ進軍したが、ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。

カンナエの戦い

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カンナエの戦いの図

紀元前216年、ローマの執政官にガイウス・テレンティウス・ウァッロルキウス・アエミリウス・パウッルスが当選した。このうち、ファビウスの戦法に不満を持つウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァッロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァッロの性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なカンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。この戦いでは 50,000 から 70,000 人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になったという。執政官パウッルスと次期執政官に内定していた者 2 名が戦死、さらに 2 人のクァエストル、48 人のトリブヌス・ミリトゥムが戦死し、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという、過去に例のない完敗を喫した。これ以降、ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹することになる。

勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、特に騎兵隊長のマハルバルが強く進言したが、ハンニバルは攻城兵器兵站の不足という戦略上の理由から、首都ローマへの進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ることを決定する。この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。

ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年タレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらを除いては目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。上記の戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。シラクサヒエロニモスと同盟したハンニバルはカルタゴ本国に補給を要求したが、カルタゴ政府はこの戦争に対して初めは日和見の立場を取っており、制海権をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することができなかった。

ローマ側の反撃、スキピオ登場

ファビウスの消極戦法は次第に効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。これに対してハンニバルは紀元前215年アンティゴノス朝ピリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。

だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に撃破・無力化して行く。紀元前211年プブリウス・スキピオがハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、またギリシアのアエトリア同盟と結託することで東方マケドニアピリッポス5世の押さえとしている。

ハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年にタレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと、南イタリアでのハンニバルの戦略的な主導権は奪われてしまう。

紀元前207年、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途上にメタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴリグリア攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマはハンニバルの指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。

ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げたスキピオが攻勢に転じようとしていた。シチリア島を占拠した後、彼はそこを拠点にして志願兵を募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換に踏み切れない元老院は、当初スキピオに渡航許可を与えなかった。曲折を経てようやく元老院の許可(実際は黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった)が出たスキピオは、軍勢とともにアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシュファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。

この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還を画策、休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の露見によって休戦交渉は反故となった。ともあれ紀元前203年、ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。

ザマの戦い

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ザマの戦いの図

スキピオは先の会戦でヌミディアシュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたマシニッサをヌミディア王に即位させていた。これによって、今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴ軍は、ローマに対する騎兵の優位を失った。このような状況の中、ハンニバルはスキピオに直接交渉を打診し、紀元前202年10月19日、ハンニバルは対峙する両軍の前でスキピオと会見した。

ハンニバルはスキピオに対して、ローマとカルタゴは相互不可侵とし、地中海を境に北をローマ領とし、南をカルタゴ領とするという休戦条件を提案する。しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が発端だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。個人的には互いの才能を高く評価していた2人であったが、交渉は決裂した。

ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭に戦象を配備した。敵に戦象がいる事を知ったスキピオは、軽装歩兵で編成されている歩兵中隊を広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功した。大集団の密集した重装歩兵を基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。これによってカルタゴの地中海での優位性は完全に失われ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。

戦後

カルタゴ再建

第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。

ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げた。そして改革の結果賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。

シリアへ亡命

続いてハンニバルは国力の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆にマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあり、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」とローマに讒言し、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、亡命のためシリア王アンティオコス3世の許へ走った。

セレウコス朝ではアンティオコス3世の軍事顧問として意見を具申したともされ、シリアがローマとの戦争に突入した際、ハンニバルはシリア軍の参謀の一人としてローマと対峙するが、若い指揮官や王に疎まれて意見は採用されず、エウリュメドン川の戦いでシリア軍将軍アポロニオスとの連携不足のために敗北する。そしてセレウコス朝自体もまたマグネシアの戦いで大敗を喫して、アンティオコスは降伏を余儀なくされた。

確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する程の強大な存在となっていた。

最期

シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した。暫くはローマ側もハンニバルがビテュニアへ留まっていたのを知っていたが、元老院の使者としてビテュニアを訪れたティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはビテュニア王(プルシアス1世)に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。これを察知したハンニバルは逃亡を図ったが、果たせずに自殺した[4]奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている[5]

なお、没年は紀元前183年紀元前182年とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。

死後の評価、エピソード等

ローマ人の評価

ハンニバルはローマ史上最強の敵としてローマ人の記憶に残った。ハンニバルにまつわる記述のほとんどは後世のローマ人によるものであるため、当然ながらローマの敵として彼の能力は高く評価されつつも、人間味のない恐るべき将軍として書かれている。多くの記録には決まり文句のように「彼は残虐きわまりなかった」と書かれており、ティトゥス・リウィウス、さらにキケロでさえもそのような表現を使っている。

後世のローマ人は彼を、偉大なるローマに立ち向かった同じぐらい偉大な畏敬すべき強敵として認識していたようで、このカルタゴ人の像を街の中心地に建立するというようなこともあった。

エピソード

ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第一にアレクサンドロス大王、第二にピュッロスエペイロス王)、そして第三に自分だ」と答えた。スキピオが重ねて「ザマの戦いであなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという[6]

とは言え、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦術は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高いものである。

またリウィウスの『ローマ史』によればハンニバルはこう語ったという。「いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。」のちにローマではポエニ戦争の勝利に伴う社会構造の変化にうまく適応できず、内乱の一世紀と呼ばれる混乱の時代が訪れることとなる。

その他

ラテン語には「戸口にハンニバルがいた (Hannibal erat ad portas) 」、「危険が迫っていた」という意味の格言がある。[7]転じて、イタリアでは今でも子供が悪い事をすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがある。ハンニバルが未だに恐怖の代名詞となっていることがうかがわれる。他方、ローマ人に制圧されてきた国では、彼らがカルタゴの後裔であると否とを問わず、ハンニバルを英雄として称える場合がある。

脚注

  1. 8ヶ月もかかっているという事から、ハンニバルは野戦は得意だったが攻城戦は不得意だった、という評価がある。逆に、ハンニバルはわざと戦いを長引かせ、ローマ側から宣戦布告させることを狙った、という説もある。こうすることで不可侵条約を無効にし、エブロ川の北へ進出することを狙っていた、というものである。
  2. 栗田, 佐藤 2009, pp.305-306。兵力の数値はポリビウス(『歴史』巻3§35)とリウィウスの著作による。彼ら二人が参考にしたのはハンニバルのギリシャ語教師シレヌスの記録と、ローマの元老議員ファビウス・ピクトルの記録だが、これらは現存していない。
  3. ポリュビオスによれば、この数字はハンニバル自身の記録による(『歴史』巻3§56)。この記録は現代の学者によっても踏襲されている。例えば栗田, 佐藤 2009, p. 314
  4. プルタルコス「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス20
  5. ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」39.51
  6. プルタルコス「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス21
  7. http://www.kitashirakawa.jp/taro/2011/05/hannibal-erat-ad-portas/

関連作品

参考文献

  • 長谷川博隆著『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社学術文庫 ISBN:4-06-159720-5
  • テオドール・モムゼン、長谷川博隆訳 ローマ歴史 モムゼン
  • ポリュビオス『歴史1』2004年 京都大学学術出版会
  • 松谷健二『カルタゴ興亡史 ある国家の一生』1999年 白水社
  • ベルナール・コンベ=ファルヌー(石川勝二訳)『ポエニ戦争』
  • マドレーヌ・ウルス=ミエダン(高田邦彦訳)『カルタゴ』1999年 白水社
  • 岡道男中務哲郎監修、ネポス著『叢書アレクサンドリア図書館第三巻 英雄伝』1995年 国文社
  • アラン・ロイド(木本彰子訳)『カルタゴ 古代貿易大国の滅亡』河出書房新社 1992年 
  • 森本哲郎、ムハンマド・ファンタール、登誠一郎特別座談会「カルタゴの興亡と現代日本」正論 1998年 
  • 栗田伸子 『通商国家カルタゴ』 講談社、2009-9。ISBN 978-4-06-280703-6。

登場作品

関連項目