大日本航空

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大日本航空(だいにっぽんこうくう)とは、日本にかつてあった航空会社

大日本航空株式会社法により1939年に設置され、ポツダム宣言の受諾に伴い閉鎖された[1]

創設

第二次世界大戦太平洋戦争)敗戦まで、日本はドイツアメリカフランスイギリスなどと並ぶ世界的な航空技術先進国のひとつであった。これは民間航空においても同様であり、1929年昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社は、日本の主要航空路および日本の租界が置かれていた中国大陸を結ぶ航空路を自国が製造した旅客機で運航しており、北東アジアにおける航空網の中心的存在であった。

1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、日本にとって満州国を含む中国大陸と日本本土との航空路による連絡が戦略上重要となり、民間航空輸送は、新たに設立する大日本航空株式会社への統合が図られることとなった。

日本航空輸送株式会社(会長・大谷登)は1938年(昭和13年)、国策会社へと改組され、次いで同年11月7日の臨時株主総会において大日本航空株式会社に参加の件を承認し、事業を新会社に継承したうえで同月末日に解散することとなった。これにあわせ、日本のローカル線を経営していた日本航空輸送研究所(代表者・井上長一)、日本海航空株式会社(代表者・中島久太郎)、東京航空株式会社(代表者・相羽有)、安藤飛行研究所(代表者・安藤考三)は航空輸送を停止することになり、日本国内における航空輸送事業は大日本航空株式会社によって統一営業されることとなった。

大日本航空株式会社の創立総会は同月28日に開かれ、12月1日に営業が開始された。初代会長は大谷登日本郵船第7代社長)[2]。資本金は2,550万円であった。創立当時の組織は総務部、営業部、経理部、東洋部、欧亜部、海洋部、技術部であった。

1939年(昭和13年)3月7日の閣議で国際航空輸送事業を大日本航空株式会社に独占させる大日本航空株式会社法案[3]が決定された。これを受け、政府は3,725万円を出資し、資本金は1億円に増資された。

運航

1938年12月から1939年3月の大日本航空の時刻表。中央下部には社紋が描かれている。
大日本航空でも運航されたMC-20-I(一〇〇式輸送機I型)の同型機
大日本航空でも運航された九七式輸送飛行艇の同型機
機内の客室乗務員(当時の呼称は「エア・ガール」)

機材

運航機材は、前身の日本航空輸送と国際航空から継いだ一五式水上機フォッカー スーパーユニバーサルなどの羽布張りの旧式機に加え、全金属製単葉機である国産初の高性能双発旅客機である中島 AT-2や、陸軍一〇〇式輸送機の民間転用型である高性能機三菱 MC-20ダグラス DC-2ダグラス DC-3ロッキード L-14立川 Y-39など、当時世界最新鋭の全金属製単葉機が主に旅客輸送に用いられており、また貨物機として、陸軍から九七式重爆撃機の武装撤去型三菱 MC-21を供与されていた。

路線

航空路線としては、日本航空輸送や国際航空から継承した路線が大半で、満州国の首都新京(現在の長春)を結ぶ航空路も開設されていたが、海軍で用いられていた九七式飛行艇の民間輸送機型によって、横浜港からサイパン島コロールといった日本の委任統治下にあった南洋群島への長距離路線が新規に運航された。

なお、国際航空が計画していた中央アジア経由のドイツ線は、日中戦争の激化のために最終的に実現しなかったが、タイバンコク線によってKLMオランダ航空インペリアル航空などのヨーロッパ系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本とヨーロッパ、さらにオセアニアを結ぶ航空路に連結されていた。

また設立当時は、イギリスの植民地である香港や、フランス領インドシナハノイサイゴンへの乗り入れは両政府より拒否されていたものの、ハノイとサイゴンへはフランス本国へのドイツ軍侵攻、占領に伴う1940年7月のヴィシー政権の設立と、その後の日本軍仏印進駐を受けて実現された。香港乗り入れも、当初は宗主国のイギリスから拒否されていたものの、1942年(昭和17年)初頭の日本軍による香港占領によって実現されることとなる。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、友好国のタイのバンコク線に合わせて、さらにイギリスの植民地であった昭南や香港、アメリカの植民地であったフィリピンのマニラダバオオランダ領東インドジャカルタオーストラリアの植民地であったラバウルなど、日本軍が宗主国の植民地軍を放逐し、新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。

戦時下においては、大日本航空の機材や乗員の多くは、開戦直前に陸軍航空部隊編成した「特設第13輸送飛行隊」に編入され南方地域への運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改編された。

終焉

日本が1945年(昭和20年)8月14日に連合国によるポツダム宣言受諾を決定、敗戦したために、日本軍は順次武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。

大日本航空も解散の対象となり、戦後処理のために軍用機とともに日本国内で運航されていた緑十字飛行も同年10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」 (SCAPIN-301) によって日本人による航空活動は一切禁止された。その後1952年(昭和27年)に再開が認められ、ノースウエスト航空の機材支援・全搭乗員派遣で日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことはなかった。

直接的な後継会社としては1947年に航空施設部門を分割した三路興業(現国際航業)がある。なお、大日本航空は名称からすれば現在の日本航空の前身の企業のようにもみえるが、間接的な関係はあっても時間軸として断絶しており、法的にも別の会社である。

歴代会長・総裁

  • 大谷登(会長):1938年12月1日 -
  • 中川健藏(総裁):1939年8月31日 - 1943年1月29日
  • 児玉常雄(総裁):1943年7月 - 1945年10月31日(解散)

児玉は中華航空の初代総裁を務めている。なお、同社の副総裁は辻邦助および胡祁泰である[4]

主な就航地

国内線

南洋群島線

国際線

戦前における日本最大の民間国際空港であった雁ノ巣飛行場が主に、日本における玄関口として使われた。当時の航空機の性能・技術レベルの都合上、北九州は関東・関西に比べ中国大陸・南洋により近かった地理上の利点があったことによる。

関連項目

脚注

  1. 大日本航空株式会社法施行令(昭和14年勅令第309号)御署名原本、国立公文書館
  2. 「大日本航空(株)『航空輸送の歩み : 昭和二十年迄』(1975.07)」 - 渋沢社史データベース
  3. 帝国関東州及び南洋群島を含む)内各地間に於ける航空輸送事業及び帝国内に起点を有する国際航空輸送事業は大日本航空株式会社の外、これを営むことを得ず。但し勅令を以て定むる帝国内各地間に於ける航空輸送事業はこの限りに在らず」
  4. 「大日本航空(株)『航空輸送の歩み : 昭和二十年迄』(1975.07)」 - 渋沢社史データベース

参考文献

外部リンク

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