宇都宮頼綱

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宇都宮頼綱
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 承安2年(1172年
死没 正元元年11月12日1259年12月26日
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼家実朝藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族 藤原氏下野宇都宮氏

宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士御家人歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。

生涯

治承2年(1178年)頃、宇都宮業綱の子として誕生。その後、源頼朝の乳母であった寒河尼に預けられ、その夫・小山政光の猶子となった。文治5年(1189年)の奥州合戦紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。建久5年(1194年)2月には北条義時の嫡男金剛(後の泰時)の元服の儀に参列する。

公田掠領騒動

建久5年(1194年)5月、祖父・宇都宮朝綱下野国司野呂行房より公田掠領(百余町)を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件を大変憂慮したと云われている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に直接仕える身であったとはいえ、実際には源頼朝勢の意向に従って行動しており、実質、朝廷の命令であってもそれに実効力を与えていたのは源頼朝であったことから、一説によると頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったとも云われている。

何れにせよ、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野尾羽[1]にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199年)6月に夭逝した頼朝の次女・乙姫の葬儀に供奉し、その10月には他の有力御家人と共に梶原景時の変で景時弾劾に参加している。

牧氏の変

元久2年(1205年6月22日畠山重忠の乱(畠山事件)が起きる。この際、頼綱は北条氏側に与して功を挙げた。しかし同年閏7月、頼綱の姑にあたる牧の方北条時政が3代将軍・源実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生し、翌8月には頼綱自身に謀反の嫌疑をかけられる。8月7日、頼綱が一族郎従を率いて鎌倉参上を擬し謀反を企てているとの風聞があり、北条義時大江広元安達景盛らが北条政子邸に合し、小山朝政を召し出して評議が行われた。その席で大江広元は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山朝政に頼綱を追討するよう主張したが、朝政は頼綱と義理の兄弟である事を理由にその追討を断ったため、頼綱は鎌倉政庁による追討からは逃れられた。8月11日、頼綱は朝政を介して鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後の8月16日には下野において出家するに至った。この折、一族郎従60余人も出家したと伝えられている。8月17日、頼綱は宇都宮を発って鎌倉に向かい、8月19日に鎌倉に到着、北条得宗家に面会を求めるが一度は拒絶される。そこで一族の結城朝光を介して献髪し陳謝の意を表して実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したと云われる。頼綱出家の後、頼綱の子等は全て幼少であったため、弟・宇都宮朝業が宇都宮家を代表して幕府に出仕することとなる。

出家後

頼綱はその後法然の弟子証空に師事したが、建保2年(1214年)頃までには鎌倉政庁の許しを得、5月には園城寺改修を拝命、山王社及び拝殿の修復に努めている。浄土宗に帰依した頃よりその潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流西方寺」、宇都宮「清巌寺」、桐生「西方寺」として受け継がれていると云われる。建保4年(1216年)、頼綱が伊賀国壬生庄の地頭を称し春日大社領を押領していると、興福寺の僧信賢が朝廷を介して鎌倉政庁に訴えて来たが、幕府の訴訟の範疇でないため記録所で示談された。

承久3年(1221年)6月、 承久の乱が起きたが、頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から戦後、伊予国守護職を与えられた。建長2年(1250年)3月、閑院殿の改築に際し、その造営雑掌の西二封の当番となる。

嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(頼綱)の他、弟である信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。

また、同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が安貞元年(1227年信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている[2]

正元元年(1259年11月12日、京にて死去。享年88。その遺言により京西山三鈷寺証空の墓の側に葬られたとされる。現在、この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。

歌人

頼綱は父譲りで歌人としても優れており、同族である藤原定家と親交を深め、宇都宮歌壇京都歌壇鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。十三代集に頼綱の作品が多数修められている。

脚注

  1. 現・栃木県芳賀郡益子町尾羽。
  2. 山本隆志「関東武士の在京活動-宇都宮頼綱-を中心に」(初出:『史潮』新40号(歴史学会、2006年)・改題所収:「関東武士の都鄙活動-宇都宮頼綱-」山本『東国における武士勢力の成立と発展』(思文閣出版、2012年) ISBN 9784784216017 )

関連項目