封建制

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封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。

中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説マルクス経済学唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。

中国史における封建制

封建制は、もともとは中国古代の王朝の統治制度であった。王朝で始皇帝の前で郡県制の導入が議論されてからは、封建制と郡県制の是非をめぐる議論がしばしば行われた。

殷・周

朝では、殷王が有力都市連盟の盟主もしくはそれ以上の立場にあったとみられるが、それらの都市支配者に領域支配を認める形の制度になっていたのかは不明である。

の時代には、封建制が成立し、各地にを基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。

長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。

春秋戦国時代

宗族組織が解体されより集権的な官僚制に置き換わるとともに中国的な封建制度は徐々に消滅していった。宗族制度は春秋末期から戦国初期にかけて解体され、末端では邑を中心とする諸侯支配が確立した。

また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。

戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。

秦の始皇帝による郡県制の導入

始皇帝は天下を平定すると、李斯の提言により郡県制を採用した[1]史記「秦始皇本紀」では、王綰らが封建制度の採用を提案したのに対し、李斯は周の封建制度が失敗に終わって天下争乱のきっかけになったことを指摘して郡県制度を施行するよう主張したことが記されている。始皇帝はそれに対して次のように言い、李斯の主張の通りに郡県制を採用した[1][2]

天下ともに苦しみ戦闘は ()まず、もって侯王あり。宗廟に頼り、天下を初めて定む。また再び国を立つるに、是の兵を樹つ、しこうして其の寧息を求むるは、あに難からずや。

(現代語訳: 天下はみな苦しみ戦闘が止まない。各地に封じられた侯王あってのことだ。宗廟によって、天下を初めて平定した。また再び各地に人を封じて国を立てれば、各々が封国で兵を集めるだろう。その上で天下の安寧を求めるのが、難しくないということがあろうか。)

始皇帝 、『史記』「秦始皇本紀」

封建・郡県の議論

秦の始皇帝による郡県制の導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった[1]。封建制と郡県制を巡る議論のなかで、有名なものは次のとおり。

人名 著書 是非 概要
曹冏 『六代論』(『文選』収録) 封建は是、郡県は非 夏殷周3代の封建制度は天下を私せず天下と諸侯とが共存共栄であった一方、秦の郡県制は、天子を孤立させその滅亡を早めたと主張
陸機 『五等諸侯論』(『文選』収録) 封建は是、郡県は非 封建制度は天下を公にする所以である一方、郡県制度は官僚政治であり、官僚の一身の栄達のために行政がなされ、国家百年の長計が顧みられない と主張
柳宗元 「封建論」 封建は否、郡県は是 周の封建制度は諸侯が相争って天下争乱の原因となり、秦・漢・唐では郡県制度が天下の平和をきたしたと主張
李百薬 「封建論」 封建は否、郡県は是 貞観2(629)年、唐の太宗のときに起きた封建制度採用の議論に反対するための上書
顔師古 「論封建表」 郡県・封建併用論
蘇軾 「論古」中の一節 封建は否、郡県は是 柳宗元の所論を賞賛。夏殷周3代の封建制度はやむをえず起こったと主張

出典: [1]

これらの議論について文献通考を編纂した馬端臨は、「その発明する(明らかにする)ところのもの公と私とに過ぎざるのみ」と整理した[3][4]。双方の議論とも、中国で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は中国と日本で広く読まれた[3]

明清時代の議論

末期からのはじめにかけては、異民族王朝の中国支配に直面し、それに抵抗する学者たちが「封建」論をとなえた[5]。そのなかでも有名なのは顧炎武の議論である。

顧炎武は、明末の政治腐敗と各地で起きる農民反乱、引き続いての満州民族の侵入と明の滅亡という亡国の悲運を経験しており、その原因を尋ねることを目的に歴史を研究した[5]。土地土着の有力者が身を挺して郷土と民を守る一方、郡県の地方官の多くが流族や満州族侵攻のときになにも抵抗していないことを目撃していた顧炎武は、その原因を郡県制の欠陥と考えた[5]。一方で、封建が郡県に変じたのはそれなりの歴史の必然であったとし、「封建の意を郡県に寓す」とする郡県制のなかに封建制を組み込ませる地方分権型の政治体制を主張した。具体的には、郡県制度の末端にあたる県の長官に大きな権限を与えるとともに世襲制とし、その下で働く地方官僚も県の長官がみずから任命できるようにすることなどを提案している。

清における封建論は、1728年呂晩村の獄で弾圧され、しばらく跡を絶った。清末になりアヘン戦争太平天国の乱などで王朝の弱体化が明らかになると、馮桂芬らがふたたび封建論を唱えるようになった[5]

日本での封建・郡県の議論

日本ではじめて封建・郡県の本格的な議論をしたのは、江戸時代前期の山鹿素行とされている[6][7]。以降、 荻生徂徠太宰春台山片蟠桃頼山陽会沢正志斎らが封建・郡県制を論じている。

江戸時代前期の議論

山鹿素行や荻生徂徠の議論は、厳重な地方制御装置を備えた中央集権国家像を描いている点で一致しており、江戸時代の幕藩制のシステムを正当化するものであった[8]

江戸時代後期の議論

江戸時代後期の山片蟠桃は、郡県制が人為的制度、封建制が自然の理にかなったものとし、封建制を是とした。その上で江戸幕府を、天皇からの勅命を受けた正統な封建制とみなした。ただしこの時点で山片蟠桃の意図とは別に、江戸幕府の正統性が引きはがされる根拠が生じた[9]

頼山陽は、封建の概念を用いて日本の歴史について論じた。鎌倉幕府以来の武士の世を頼山陽は「封建の勢」とし、正統なものではないことを暗示し、封建の勢が進行するとともに重税化が進んだことを主張した[10]

会沢正志齋は、郡県制のイデオロギーであった王土王民思想を天皇と結び付け、天下の土地人民はことごとく天皇のものであり、封建制は天皇制に合致する場合だけ認められるとした[11]

フューダリズム

フューダリズムFeudalism)とは歴史学において中世北西部欧州社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳される。土地と軍事的な奉仕を媒介とした教皇・皇帝・国王・領主・家臣の間の契約に基づく緩やかな主従関係により形成される分権的社会制度で、近世以降の中央集権制を基盤とした主権国家絶対王政の台頭の中で解消した。

マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力進歩に伴い拡大するとされる生産関係の上部構造下部構造の間の矛盾発生とこの矛盾の弁証法的な発展解消を基盤として普遍的な歴史進歩の法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みられた。この場合、おおよそ古代ギリシア古代ローマ社会を典型とみなす古代奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示し、この制度が認められる歴史段階を中世と定義する。

北西部ヨーロッパ

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戦う人(騎士)、祈る人(聖職者)、働く人(農民)の中世西欧三身分を表す図

ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。

更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。

西欧中世においては、特にその初期のカロリング朝フランク王国の覇権の解体期において北欧からのノルマン人西アジア地中海南岸からのイスラーム教徒中央ユーラシアステップ地帯からのマジャール人アヴァール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった。

日本の封建制(フューダリズム)

封建制がフューダリズムの訳語として用いられるようになってから日本で封建制とされてきた体制は、荘園公領制による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。

日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。ひとつは鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいたわけではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。一方、日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。他には、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。

中国の儒家思想で当てはめた場合、平安期までが中央から派遣される地方官たる国司が地方の統治単位である令制国を実効統治する「郡県制」であり、鎌倉期以降が在地領主である武士荘園国衙領単位で実効統治を行う封建制となる(中国史学に基づくと12世紀末から19世紀が封建制となる)。これに対し、ヨーロッパ史学の影響を受けた福田徳三は『日本経済史論』において、延喜の治後、931年から1602年までを封建時代と解し、1603年から1867年(近世江戸期)を「専制的警察国家」(絶対主義)と定義した[12]

中国における発展段階論

中国史において唯物史観的発展段階論を適用した場合の封建制について述べる。

郭沫若はその著書『中国古代社会史研究』の中に於いて中国史に発展段階論を適用し、西周奴隷制の時代とし、春秋時代以降を封建制とした。これに対して呂振羽を奴隷制、代を封建制の社会だとして反論し、この論争は結論を見ないままに終わることになる。

これらの論の基準となる所は封建制の特徴とされる農奴の存在である。現在は春秋時代までの農耕民と牧畜民という文化の異なる都市国家・小国家間の戦争による捕虜などを供給源とした時代の奴婢を奴隷と見做し、戦国時代以降唐末までの奴婢を農奴と見る。

マルクス主義の立場をとる研究者からも、在地の地主に裁判権などの権力が備わっておらず、それらが国家権力の手に集中されており、封建制の重要な内容である領主権力が存在しないため、中国史における封建制概念を否定する見解が出された。封建制に代わる、中国史上の経済制度を特徴づける概念や歴史像はいまだ構築されていない。

出典

参考文献

  • 浅井清 『明治維新と郡県思想』1939年。
  • 石井紫郎 「第6章 「封建制」と幕藩体制」『日本人の国家生活』 東京大学出版会、1986年。
  • 増淵竜夫 「歴史主義における尚古主義と現実批判」『岩波講座哲学〈第4〉歴史の哲学』1969年。
  • 小沢栄一 (1972-11). “幕藩政下における封建・郡県論序説”. 東京学芸大学 紀要 第3部門 社会科学 24: 111-128. 

脚注

関連項目

外部リンク