斯波義廉

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斯波義廉
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 文安2年(1445年)頃[1]
死没 不詳
幕府 室町幕府管領越前尾張遠江守護
氏族 渋川氏斯波氏

斯波 義廉(しば よしかど)は、室町時代中期から後期の武将守護大名室町幕府管領越前尾張遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている[2]

生涯

家督相続

長禄3年(1459年)、斯波氏の先々代当主・斯波義敏は家臣の守護代甲斐常治と対立し(長禄合戦)、8代将軍足利義政の怒りに触れて罷免され、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続する。2年後の寛正2年(1461年8月2日に松王丸も廃され、義廉は大まかには斯波氏と同じ足利氏の一門渋川氏の出で、かつ曾祖母が斯波義将の娘であるという縁から、同年の10月16日に義政の特命により斯波氏の家督を継承することとなる。この時、尾張・越前・遠江の守護にも任命されている[3]

この家督相続には幕府の関東政策が絡んでおり、常に軍事力不足だった義政の異母兄の堀越公方足利政知の要請に義政が応じて、政知の執事である渋川義鏡が斯波氏当主の実父という立場から足利一門最強の斯波軍を動員出来るように工作したとも言われている。義政は最初義敏・常治を関東に派遣させようとしたが、両者が命令に従わず内乱を起こしていたため義敏を罷免、松王丸を当主に置いても長禄3年から翌4年(1460年)にかけて斯波氏領国の遠江で今川範将の反乱が勃発、関東情勢に不安が残されていた事情もあった。

ところが、寛正2年10月に再び遠江で反乱が起こり、翌寛正3年(1462年)に幕府の介入で反乱は収まったが、関東で幕府方の上杉持朝と父が政争を起こし、三浦時高千葉実胤太田道真ら持朝の重臣が隠居、事態を重く見た義政により父が失脚させられてしまった。更に寛正4年(1463年)11月、義政生母・日野重子の死去による大赦で義敏・松王丸父子と畠山義就が赦免され義廉の立場は悪化した[4]

失脚と復権

義廉の家督相続は上記の関東政策のためであり、義鏡が失脚した以上義廉の必要性はほとんど無くなり、義政は義敏の復帰を考えるようになった。寛正6年(1465年)に義廉が斯波氏と同族の奥州探題大崎教兼との取次に失敗したことも影響しており、義敏がかつて大崎教兼と取り次いでいたことと常治が亡くなっていたことを合わせて復帰工作を始めた。しかし、一方的に廃嫡されることを恐れた義廉は義政の妨害に動き出し山名宗全・畠山義就の連携に奔走した。

義敏は義政の側近の政所執事伊勢貞親季瓊真蘂の画策で寛正6年12月30日に京都で義政と対面、翌文正元年(1466年7月23日に幕府の裁定で義廉は幕府への出仕を停止させられ、8月25日には義敏への3ヶ国の守護返還を命じられた。しかし、この時既に義廉は宗全派と手を組んでおり、義敏の支持者だった元管領細川勝元ら諸大名も貞親ら側近衆に反感を抱いていたため家督問題は複雑化した。

義敏は貞親・真蘂・赤松政則らと共に9月6日文正の政変で失脚し、14日に守護職は義廉に戻された。更に宗全・義廉らは勝元派の排除も狙い、大和で挙兵した畠山義就を呼び寄せ、応仁元年(1467年1月8日に義廉は義就の軍事力を背景に畠山政長を管領から追い落とし、後任として管領に就任。義父の宗全らは義廉を支持し、義敏は勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の1つにもなる[5]

なお、応仁元年5月1日には左兵衛佐に任じられている(『斎藤親基日記』)[6]

応仁の乱とその後の義廉

応仁元年1月18日、京都北部で義就と政長が激突(御霊合戦)、敗れた政長が姿をくらましたことにより宗全派が実権を握ったが、勝元も巻き返しを図り、5月に義敏を始め勝元派が宗全派の領国を襲撃、両派共に京都に大軍勢を呼び寄せ、26日に京都市街において上京の戦いが発生、応仁の乱がはじまる。翌2年(1468年)に7月には幕府より管領・3ヶ国守護職を剥奪されるが[7]、西軍内ではなおもその地位に留まった。義廉は宗全率いる西軍に属して各地に転戦するなど西軍の主力を担ったが、文明3年(1471年)に有力家臣の1人である朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、文明7年(1475年)に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受ける。

同年11月、尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし、義敏・義寛父子の盛り返しにより文明10年(1478年)に敏広が守護代を更迭され敏定が新たな守護代に任じられると、敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、義廉は敏広と共に幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。その後の行方は不明となるが、『大乗院寺社雑事記』延徳3年6月30日条に記された斯波氏の系図には「渋川殿ー義廉ー某越前」とあり、延徳3年(1491年)の段階で義廉は亡くなっているために居所に関する注記が記されていないとする解釈もある[8]

一方、義廉の子が朝倉孝景に奉じられて越前国に下ったことは、『大乗院寺社雑事記』文明13年11月4日条に見え[9]、同記の延徳3年6月30日条に登場する某と同一人物を指すと考えられる。この子は喝食で栄棟と称し、その9年後の延徳2年(1490年)に連歌師の正広一乗谷で栄棟と会ったことが正広の句集『松下記』に記されている。この息子が朝倉孝景の息子氏景の推戴により、義俊と名乗ってが将軍家の連枝にあたる鞍谷公方を継ぐこととなり、名目上の越前の国主とされたので越前に移り住んだという説が有力視されている[10]。一方で、鞍谷公方は後世の創作で、実際の鞍谷氏は奥州斯波氏の嫡流もしくはそれに近い系統に属し、義俊との関連性は見いだせないとする反論も出されている[11]

官職および位階等の履歴

※ 日付は旧暦

  • 寛正2年(1461年8月2日、家督を相続し、越前・尾張・遠江の三国守護に就任。10月16日、治部大輔に任官
  • 文正元年(1466年7月23日、罷免される。9月14日、再び家督相続。越前・尾張・遠江の三国守護に復帰。
  • 文正2年(1467年1月8日、幕府の管領となる。同年改元し、応仁元年5月、左兵衛佐に遷任。
  • 応仁2年(1468年7月10日、管領更迭、越前・尾張・遠江守護職褫奪。但し西軍内では管領・三州守護に留まる。

脚注

  1. 斯波氏家督相続の際に「渋川息十五六」という記事(『大乗院寺社雑事記』寛正2年9月2日条)があることから、大凡この頃と考えられている。石田、P169。
  2. 石田、P192。
  3. 松原、P42 - P43、水藤、P6、谷口、P42 - P43。
  4. 石田、P144 - P157、P165 - P174、P177 - P178、渡邊、P75 - P81。
  5. 石田、P182 - P200、水藤、P8 - P9、谷口、P43 - P44、渡邊、P82 - P85、P149 - P150。
  6. 小泉(2015)、P294 - P295。
  7. 罷免の理由として、独断で古河公方足利成氏との和睦を図ったことが挙げられる。関東政策で斯波氏当主に選ばれた以上、応仁2年の時点で西軍優位の状況で成氏と和睦を結び、東軍から義政を奪取して家督保全を引き出すために動いたが、独断で動いたことが義政の不興を買い、罷免に繋がった。管領職は勝元に、3ヶ国守護職は松王丸に与えられた。石田、P200 - P210、P241 - P244。
  8. 小泉(2015)、P297。
  9. 小泉(2015)、P292。
  10. 石田、P257 - P260、P264、P269 - P270、松原、P44 - P46、水藤、P9 - P18、P23、谷口、P44 - P49、渡邊、P194 - P198、P208 - P214。
  11. 佐藤圭「戦国期の越前斯波氏について」(初出:『若越郷土研究』第45巻4・5号(2000年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)。なお、佐藤は栄棟と斯波義俊には年代的な矛盾があり、義俊が実在の栄棟と同一人物なのか実在性も含めて再検討すべきと主張する。

参考文献

関連項目