最高戦争指導会議

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最高戦争指導会議(さいこうせんそうしどうかいぎ)は、小磯國昭内閣が成立した直後の1944年(昭和19年)8月に、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置された会議である。

1944年(昭和19年)8月4日の大本営政府連絡会議で設置が決定。その設置目的としては、戦争指導の根本方針の策定と、政府・統帥部間の連絡調整を今まで以上に強め、一元的な戦争指導を行うことであった。しかし、統帥部は政府による作戦指導への介入を拒み、一元的指導は実現されることはなかった。太平洋戦争での降伏声明発出から1週間後、1945年(昭和20年)8月22日に廃止。

構成員

必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長軍令部次長を列席させることができた。また重要な案件の審議に際しては天皇臨席を奏請した(「御前に於ける最高戦争指導会議(御前会議)」の名称で開催)。

その他、幹事(内閣書記官長内閣綜合計画局長と陸・海軍両省の軍務局長が務めた)及び幹事補佐が置かれた。

会議の法制的性格

この会議は政府と統帥部の申し合わせによって成立したものであり、閣議のように法制的に規定されたものではない[1]。したがって、その決定事項も閣議決定のような法制的な効力を有しない。その会議構成員が、決定事項を本務(首相は内閣首班として、また両総長は統帥の責任者という立場)において忠実に実行しようという申し合わせの効果を有したものである。

最高戦争指導会議構成員会合

上記の通り、この会議は戦争指導の根本方針の策定が目的であったが、実際の会議においては幹事補佐の軍参謀(佐官クラス)の作成起案した強硬な原案を審議追認する傾向にあった[2][3]。1945年(昭和20年)4月の就任後に和平交渉に向けた活動を始めた東郷茂徳外相は、トップ6人だけで腹蔵なく意見交換できる会議を提案し、他の5人もこれに賛同して、会議内容は出席者以外には秘密という「最高戦争指導会議構成員会合」が開催されることとなる。この会合は5月11日に最初の集まりが持たれた。最高戦争指導会議自体が法的根拠を持っていなかったためこの会合も非公式なものだったが、その後の戦争終結に向けた動きの中で重要な意思決定機関となった[2]

脚注

  1. 大日本帝国憲法では、国務と統帥ははっきりと区別されており、これを一体とした法規はできない。
  2. 2.0 2.1 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、pp.148 - 149
  3. NHK取材班『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川文庫、1995年、pp.115 - 116

関連項目