楽天主義

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楽天主義(らくてんしゅぎ)とは、オプティミズム(optimism)の訳語の一つ。楽観主義(らっかんしゅぎ)ともいう。哲学上では最善説(さいぜんせつ)と訳され、苦悪などがこの世に存在するにもかかわらず、この世界は全体的に見て存在し得る世界の中でもっともよいとする考え方である[1]。対義語は悲観主義(ペシミズム)。optimismは、物事をうまくゆくものと考える「楽観的」、くよくよせず物事を明るい方に考える「楽天的」という意味で使われることもある。

19世紀半ばにアメリカで起こったニューソートに始まる、ポジティブな姿勢を保ち「思考そのもの」を変えることで現実を変えることを目指す思考法は、「積極思考(ポジティブ・シンキング)」を参照のこと。

哲学の楽天主義

哲学では、ドイツライプニッツ予定調和を主張する最善説が由来と見做される。ライプニッツは、現実世界は可能なすべての世界の中で、最善のものであると考えた。かれはまず想定可能なすべての世界を考える。しかし、このうち、内部に論理的な矛盾を孕む世界はそもそも現実化可能ではない。そこで、この共可能的な事象の組み合わせからなる複数の可能な世界のうち、どのような世界が(によって)実現されたかが問題となる。そこで、かれは、神は定義に善なるものであることが含まれているのだから、選択された世界は最善であったはずだ、と主張した[2]

フランスヴォルテールは匿名で発表した小説「カンディード」で最善説を揶揄・批判したが、ライプニッツは、現実世界が、すばらしい場所である、またはすばらしいことが起きる傾向がある、ということを述べているのではなく、「現実は起こりうることの中では一番マシである」と主張しているのである。ひとが想定するよりよい世界は、人間の限定された知性と知識では認識できない、何らかのそれを補う悪や、あるいは、現実化を阻む論理的な自己矛盾を持っているのだ、ということである。ただし、この最善たる「現実の世界」は「現在」とイコールではないため、進歩や改良の可能性が否定されているわけではない。したがって、むしろ、起きたことは必然であった、というような納得と近い[3]

プラトンアウグスティヌスなども善を積極的な存在と見なすところは楽天主義(最善説)的である。すなわち、善に、何らかの意味で、存在論的優位を認めた、という点ではそういうことも可能ではある。もっとも、このような意味でオプティミズムという用語を使うことは必ずしも一般的ではない。

楽天的・楽観的

グラスに半分残った水を見て「まだ半分もある」と言うのは楽天主義者(楽天的思考)、「もう半分しかない」というのは悲観主義者(悲観的思考)という有名な性格判断法がある。これは英語ではGlass Half Empty or Half Full? という定番の言い回しになっている。

オックスフォード大学感情神経科学センター教授のエレーヌ・フォックスの2009年の論文では、「セロトニン運搬遺伝子」の型が楽観・悲観を決める可能性が示唆されていた。しかし、パーキンソン病から復帰した不屈の楽観主義者マイケル・J・フォックスの依頼で遺伝子を調べたところ、悲観的なタイプという結果だった。これを受けて研究を続けた結果、悲観的と思われていた遺伝子の型は、外界の影響をうけやすい型であり、逆境で悲観的になる一方、良いこと経験をすればより高い幸福を感じ、最大の利益を引き出せるタイプであることが分かった。遺伝子の型によって楽観・悲観は決まっているわけではなく、生育環境の影響が大きくある。マイケル・J・フォックスの場合、変わり者とみなされていた幼少時に、彼を肯定し励ましたやさしい祖母の影響が大きいのではないかと推察されている。研究では、大人でも楽観・悲観は、継続的な訓練で変えることができると考えられている。[4]

脚注

  1. 楽天主義 ブリタニカ国際大百科事典
  2. このような主張は、存在しないよりも存在するほうが善いという仮定に立つものであるとイギリスバートランド・ラッセルは論評している
  3. ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉も、その意味するところは、理念が活動的であるということであって、またあらゆる存在が現実であるということではなく、その一部だけが偶然的な現象とは区別されるところの現実の名に価するということである
  4. エレーヌ・フォックス 悲観的な脳でも、楽観的な脳に変えられる なぜマイケル・J・フォックスは復帰できたか 東洋経済 2015年08月14日

関連項目