濱中治

提供: miniwiki
移動先:案内検索

濱中 治(はまなか おさむ、1978年7月9日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手外野手、右投右打)、コーチ2015年から阪神タイガースでコーチを務めており、現在は二軍打撃コーチを務める。

経歴

プロ入り前

田辺市立芳養小・同明洋中から進んだ南部高では投手として、また打順は主に1番で活躍したが、甲子園に出場することはなかった。投手で1番打者だったことについては「4番に座ると、練習試合でも、相手投手がみんな敬遠してくるので、1番を打たされていた」とインタビューで答えている。

高校通算51本塁打を放っているが、51本目は全国高等学校野球選手権和歌山大会準々決勝の星林高戦で、吉見祐治から打った、レフト場外に消える民家直撃弾であった。

1996年のドラフト会議阪神タイガースに3位指名を受け入団[1]。入団会見では「甲子園で場外ホームランを打ちたい」と発言し、和製大砲到来と期待された。

阪神選手時代

入団1年目からウエスタン・リーグで4番を打ち、球団では掛布雅之以来となる高卒新人でのスタメン出場を果たすなど頭角を現すが、最初の数年間は一軍と二軍を往復する日々が続いた。二軍では、当時チームメイトだった佐々木誠から熱心なアドバイスを受けた。

2001年、登録名を本名から「濱中おさむ」に変更しブレイク[1]母の日の5月13日、母親をスタンドに招待していた対広島東洋カープ戦(甲子園球場)で、プロ入り初本塁打となるサヨナラ本塁打を放った(しかし母親はこの本塁打の時には球場を後にしていた)。後半戦は3番に定着し初の規定打席到達、13本塁打を記録[1]

2002年は春季キャンプで、視察に訪れた長嶋茂雄から直接指導を受けた。この時視察後の長嶋に名前を「はまだ」と言い間違えられる一幕もあった。7月24日の対読売ジャイアンツ戦でサヨナラ本塁打を打つなど活躍するが、8月にナゴヤドームでの試合でダイビングキャッチを試みた際に親指❲どこの?❳を骨折。規定打席到達を逃すが、打率3割・18本塁打をマーク。この年オフには第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され出場した。

2003年は、開幕から4番に座って5月中に10本塁打に到達し、打点を量産したが、5月20日に対広島戦で一塁への牽制球の帰塁の際に右肩を負傷。さらに6月13日の対巨人戦では送球の際に右肩を脱臼し、ファン投票で選出されていた7月のオールスターゲームの出場は辞退することになった。手術で後半戦を棒に振るが、日本シリーズには指名打者などで出場した。

2004年、背番号を31に変更し、復活が期待されたが、再び右肩を痛めて手術を受けた。この時、公表されなかったが1度目の手術で埋めたボルトが砕けていたことが見つかり、取り除くため7月と9月の2度手術を受けていた[1]。同年は17試合の出場に終わった。

2005年は、セ・パ交流戦で指名打者として復帰し、交流戦終了後は代打での出場が主になった。最終的に78試合に出場し2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2006年は5年ぶりに登録名を本名に戻し、背番号を5に変更して完全復活へと挑んだ。開幕スタメンこそ逃すが、打率.435・10本塁打・打点22をマークし、3・4月度の月間MVPを獲得する活躍で6番に定着。後半は今岡誠の故障もあり、5番打者として起用され、最終的には20本塁打と自己最高の成績を残した[1]。また、同年7月14日のオールスターにファン投票で選出された巨人(当時)の小久保裕紀内野手が怪我で出場を辞退したため、代替選手として出場した。

2007年は自身の不振と故障、林威助桜井広大の台頭があり、一軍と二軍を往復するシーズンとなり、結局打率.193、本塁打6、打点14と不本意な成績に終わる。度重なる怪我のため、阪神では戦力として計算しづらくなった。

オリックス選手時代

ファイル:OB-Osamu-Hamanaka.jpg
オリックス選手時代(写真は二軍戦のためサーパスのユニフォームを着用)

11月26日に阿部健太平野恵一との交換トレードで吉野誠とともにオリックス・バファローズへの移籍が発表された[1]。12月3日付けでオリックスの支配下選手に登録され、12月5日に入団会見を行い、背番号は7番と発表された。オリックス球団は大阪府下での主催試合で「1人でも多くのファンの方に野球を生で楽しんでもらいたい」という濱中の意向から、背番号にちなんで各試合7名ずつファンを招待する「濱中治のラッキー7シート」を実施することになった。

移籍初年度の2008年は、6番・右翼手として開幕戦にスタメン出場。4月1日の対埼玉西武ライオンズ戦では西口文也から逆転決勝1号満塁本塁打、4月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では9回裏に青山浩二から代打同点3号2ラン、5月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦では成瀬善久から逆転決勝4号2ランと、開幕直後はチャンスで好打をたびたび放った。しかし、打率は伸び悩み、大石大二郎に監督が代わると、スタメンから外れるケースも多くなった。7月中旬に一旦2軍降格、8月初旬に1軍に復帰した。復帰直後はまずまずの打撃を見せたものの、坂口智隆下山真二の活躍やルーキー・小瀬浩之の台頭もあり、出場機会をあまり得られなかった。最終的には85試合に出場して打率.253、9本塁打の成績に終わった。前年ほどの不振ではないにしろ、カムバック賞を獲得した平野とは対照的に、期待された成績を残したとは言い難かった。

2009年は開幕一軍入りを果たすも、出場機会をなかなか得られず、4月27日に登録抹消。その後、二軍でシーズンを通じて岡田貴弘の21本に次ぐチーム2位の13本塁打を記録するなど腐らず結果を残し続け、7月31日に再昇格。8月2日の対西武戦では、2回裏に西口から先制3ランを放つと、延長10回裏には岩崎哲也からサヨナラソロ本塁打を放つ活躍を見せた。1試合2本塁打は阪神時代の2006年4月25日の対横浜戦以来だった。次の対楽天3連戦でも2本塁打を放ち、昇格した日から一週間以内で4本塁打を放った。しかし、その後は勢いが長続きせず、9月3日に二軍降格。結局は打率.208、6本塁打12打点と不本意な成績に終わった。

2010年は阪神時代の恩師である岡田彰布監督が就任したが、4試合の出場にとどまり2軍では89試合に出場してチームトップの打率.292をマークしたが同年10月2日、戦力外通告を受けた[1]

ヤクルト選手時代

2010年11月10日にヤクルトへの入団が決定。[2]12月3日に入団発表が行われ、背番号はゼロから再起をかける意味で「0」となった[3]2011年、開幕戦を3番レフトで先発出場したが、シーズンを通した出場は5試合どまりだった[1]。9月30日、「限界を感じた」という理由で今季限りで引退を発表[4][5]。12月2日、自由契約公示され引退した。

現役引退後

2012年1月から2014年12月までは、『おはよう朝日です』(ABCテレビが関西ローカルで放送中の情報番組)で、金曜日のスポーツキャスターを担当。朝日放送、スカイ・A、Tigers-aiの野球解説者、デイリースポーツ野球評論家としても活動していた。2013年度からは、『熱血!タイガース党』(サンテレビのプロ野球オフシーズン限定番組)で、「タイガース党幹事長」という肩書で総合司会を務めている。

朝日放送の解説については、2012年のみ、ABCラジオの制作によるオリックス主催試合の裏送り中継を中心に出演。2013年からは、テレビ・ラジオとも、関西ローカルの阪神戦中継で本格的に解説を務めている。同年11月17日には、ABCテレビの企画の一環として、神戸マラソンで人生初のフルマラソンに挑戦。5時間32分24秒で完走した。

阪神コーチ時代

2015年に、二軍打撃コーチとして阪神に復帰[6]。『熱血!タイガース党』2014年度版の放送期間中に復帰が決まったため、同番組を2014年の最終放送(12月26日)で降板した(放送上は「幹事長の休職」扱い)。

なお、阪神での現役時代のチームメイトだった金本知憲が2015年のシーズン終了後に一軍監督へ就任したことを受けて、2016年に一軍打撃コーチへ異動[7]。なお、試合中はベンチ入りできるコーチの枠の関係からトレーナーとしてジャージ姿でベンチ入りしていた。2017年からは、再び二軍打撃コーチを務める[8]

右肩について

怪我で2003年・2004年と2度の手術を行った右肩は、ランナーを抑止できない“弱肩”と言われていた。もともとのケガはただの脱臼だったが、完治しない状態での強行出場を監督に強く直訴して出場し、無理をして大ケガを負った。それが完治しない状態でふたたび強行出場し、やはり無理をして大ケガを負った[1]。結果的には、最初の脱臼よりも、そのあとの二度の大ケガが致命的となった。

2006年に濱中が右翼手として復帰した際には、ランナーを二塁や三塁に置いて打球が右翼に飛んできた場合(すなわちバックホームが求められる状況の時)、二塁手が通常よりさらに深いところで中継に入り、濱中の弱肩をカバーするという方法が考えられた。守備の負担軽減のため右翼手から一塁手へのコンバートも一時提案されたが、濱中本人がコンバートに難色を示したことと、広島から移籍したアンディ・シーツが正一塁手に固定されていたため、コンバートの話はなくなった。

人物

2003年7月に離婚していたが、2006年1月22日の女子バレーボールJTマーヴェラスの試合に、濱中が帽子にサングラス、マフラーという“変装”で観戦に現れたことがきっかけで、翌23日にサンケイスポーツが「濱中とJT所属の菅山かおる選手が交際中」と報じた。この報道に対して二人とも交際を否定した。その後2008年12月6日に一般女性と再婚したと発表した。

プライベートでは大引啓次や、阪神時代の同僚である藤本敦士赤星憲広と交流がある。藤本とは、自身の現役最終年に当たる2011年シーズンに、ヤクルトで再びチームメートになった。赤星・藤本とは引退についての相談もした[1]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 阪神 6 12 12 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .167 .167 .167 .333
1998 11 24 22 4 9 0 0 0 9 3 0 0 0 0 2 0 0 3 1 .409 .458 .409 .867
1999 35 78 70 8 14 3 2 0 21 4 0 2 2 0 5 0 1 16 3 .200 .263 .300 .563
2000 9 18 15 2 4 0 0 0 4 0 0 1 0 0 3 0 0 6 0 .267 .389 .267 .656
2001 110 475 411 52 108 18 2 13 169 53 3 7 4 5 53 6 2 65 10 .263 .346 .411 .757
2002 102 404 366 60 110 19 2 18 187 51 8 4 0 4 28 1 6 58 7 .301 .356 .511 .867
2003 55 201 176 30 48 9 1 11 92 48 3 2 1 2 19 2 3 27 8 .273 .350 .523 .873
2004 17 40 34 6 4 0 0 1 7 1 0 0 0 0 5 0 1 10 1 .118 .250 .206 .456
2005 78 125 109 9 31 3 2 1 41 20 0 1 0 2 12 0 2 36 2 .284 .360 .376 .736
2006 139 538 486 71 147 26 1 20 235 75 2 2 0 5 43 2 4 80 10 .302 .361 .484 .844
2007 62 155 145 12 28 6 0 6 52 14 1 1 0 1 8 0 1 28 6 .193 .239 .359 .597
2008 オリックス 85 247 217 25 55 11 2 9 97 29 0 4 2 2 25 0 1 50 6 .253 .331 .447 .778
2009 26 83 77 8 16 3 0 6 37 12 0 1 0 1 5 1 0 21 1 .208 .253 .481 .734
2010 4 14 14 1 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .143 .143 .214 .357
2011 ヤクルト 5 14 13 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .154 .214 .154 .368
NPB:15年 744 2428 2167 290 580 99 12 85 958 311 17 25 9 22 209 12 21 408 56 .268 .335 .442 .777

年度別守備成績



外野 三塁
























1997 阪神 4 4 1 0 0 1.000 -
1998 8 12 0 0 0 1.000 -
1999 21 16 2 2 1 .900 7 3 7 0 1 1.000
2000 8 5 0 0 0 1.000 -
2001 109 183 5 1 2 .995 -
2002 98 151 6 2 0 .987 -
2003 44 81 2 1 0 .988 -
2004 10 18 0 0 0 1.000 -
2005 6 4 0 1 0 .800 -
2006 121 199 2 4 1 .980 -
2007 31 37 0 0 0 1.000 -
2008 オリックス 70 106 1 3 1 .973 -
2009 21 37 1 0 0 1.000 -
2010 4 6 0 1 0 .857 -
2011 ヤクルト 5 5 1 0 0 1.000 -
通算 560 864 21 15 5 .983 7 3 7 0 1 1.000

表彰

記録

初記録
その他記録

背番号

  • 66 (1997年 - 1998年)
  • 25 (1999年 - 2003年)
  • 31 (2004年 - 2005年)
  • 5 (2006年 - 2007年)
  • 7 (2008年 - 2010年)
  • 0 (2011年)
  • 79(2015年 - )

登録名

  • 濱中 治 (はまなか おさむ、1997年 - 2000年、2006年 - 2011年)
  • 濱中 おさむ (はまなか おさむ、2001年 - 2005年)

関連情報

関連書籍

  • 『戦力外通告:第2の人生を生き抜く男たち』(遠藤宏一郎・TBS「バースデイ」取材班共著、朝日新聞出版、2012年12月、ISBN 9784022510372)

解説者時代の出演番組

以下はいずれも、ABCラジオで放送される番組。

  • ABCフレッシュアップベースボール
    • 2012年シーズンは、主にオリックス戦などの裏送り・予備待機のみ担当。ABC公式サイトへの氏名記載はない一方、NRN公式サイト内のNRNナイター解説者一覧には記載があった。
    • 2012年9月25日放送のヤクルト対阪神戦(神宮球場)からは、ABCの解説者として阪神戦のメイン中継にも出演。同年のオフシーズンに『スポーツにぴたっと。』水曜日でコメンテーターを務めたことを機に、2013年シーズンからは、ABCの公式サイトでも解説者として正式に紹介されるようになった。
  • スポーツにぴたっと。』(ナイターオフ番組)
    • 2012年度のみ水曜日にレギュラーへ出演。濱中にとっては、ラジオで初めてのレギュラー番組になった。
  • 堀江政生のほりナビ!!
    • 2013年のプロ野球シーズン拡大版(『ABCフレッシュアップベースボール』のスタジオバージョン)へたびたびゲストで登場したことがきっかけで、同年度のナイターオフ版水曜日へ中田良弘と交互に出演。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 惜別球人 濱中治『週刊ベースボール』2011年12月12日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/12, 91-95頁。
  2. 濱中選手と宮出選手の獲得について
  3. http://hmnk.tblog.jp/?eid=262861
  4. 「これが限界」ミスタータイガース候補だった浜中 33歳の決断”. スポーツニッポン (2011年9月30日). . 2011閲覧.
  5. 濱中選手、現役引退のお知らせ”. 東京ヤクルトスワローズ (2011年9月30日). . 2011閲覧.
  6. 2015年度 監督・コーチについて 阪神タイガース公式サイト 2014年11月6日閲覧。
  7. 阪神組閣一覧”. 日刊スポーツ (2015年10月27日). . 2015閲覧.
  8. 2017年度コーチの一部配置転換について 阪神タイガース公式サイト 2016年10月3日閲覧

関連項目

外部リンク


テンプレート:阪神タイガース1996年ドラフト指名選手