長唄

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長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。

またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。

江戸長唄

江戸長唄義太夫節など語りを中心とした「語り物」とは異なり、唄を中心とした「歌い物」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と三味線で成り立っているが、曲目によっては小鼓大鼓太鼓などで構成される「お囃子」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。

また、元禄期に上方歌舞伎の劇中で演出として歌われた芝居歌が源流となり、享保以降に短めの長唄として江戸歌舞伎に伝わりメリヤスと呼ばれた[1]。しんみりとした寂しい内容と節調であり、下座の中で一人、または二人で歌われた。宝暦期以降の歌舞伎の舞台演出で流行となり、新曲がいくつも作曲された。

代表的な作詞者・作曲者には、金井三笑初代冨士田吉次二代目冨士田吉次初代櫻田治助初代杵屋正次郎三代目杵屋正次郎九代目杵屋六左衛門十代目杵屋六左衛門三代目杵屋勘五郎初代杵屋六翁二代目杵屋勝三郎二代目稀音家浄観杵屋佐吉吉住慈恭などが挙げられる。

代表的な曲


楽譜の種類

  • 文化譜(赤譜とも)
  • 研精会譜
    • 又は小十郎譜とも。大正年間に四代目吉住小三郎の弟子、吉住小十郎によって開発された記譜法により編纂される。縦書き。1 - 7の数字を西洋音階のド - シに当てはめ、基本的に四分の二拍子で表記される。オクターブは数字の右(1オクターブ上)と左(1オクターブ下)に付く「・」で表す(最低音は・7)。
  • 青柳譜
  • 佐吉譜
  • 杵勝譜

近代の名人


上方長歌

上方長歌(上方長唄とも)は、地歌楽式、曲種の一つ。江戸時代中期以降に上方を中心に行われている長編の三味線を伴奏とする三味線歌曲。地歌と箏曲胡弓との不可分な結びつきにより、三曲合奏編成により演じられることも多い。地歌のみならず三味線音楽のもっとも古い形式である三味線組歌に次ぐものとして、長い歴史を有している。

もともと元禄の頃に江戸の浅利検校佐山検校らによって作られ始めた。 組歌は、基本的に互いに脈絡のないいくつかの短い歌の組み合わせによって成り立っている。それに対し、長歌は終始一貫して筋を通した内容であり、それを最大の特徴とする。また、曲の途中で三味線の調弦を変えること、かなりまとまった間の手を持つことなどが特徴であるが、長歌の範疇に含められる曲は各流派、地域により多少違いがある。

その内容はさまざまだが、名所や器物、植物などの名を連ねた「尽し」や、劇的な内容を持つものもあり、詞章は雅文調ではあるが、部分的にくだけた文句が挿入されている曲も多い。

本来、地歌は盲人音楽家による純音楽で、劇場や舞踊とは比較的関係の薄いものであるが、虎沢検校浄瑠璃を始めたこともあるように、決して関係がないわけではなく、地歌の長歌曲でも、元禄年間に活躍した京都の岸野次朗三は晴眼者で京阪の歌舞伎の三味線方として活躍した人物であり、彼の作品の多くは歌舞伎舞踊の伴奏用に作られたものである。

このような長歌から、舞台音楽の「江戸長唄」が分かれたと考えられている。

こののち、野川流の祖である大阪の野川検校の作品がおおいにもてはやされ、藤永検校小野村検校らも長歌物の作曲を行い、さらに京流手事物の作曲で有名な、京都の松浦検校菊岡検校らによっても長歌曲が作られている。

また長歌からは、歌よりも手事に重きを置く楽曲形式である「手事物」が生まれ、現在の地歌の主要な演目となっている。また手事物はのちに長唄にも影響を与え、「越後獅子」「秋色種」「吾妻八景」などの曲が生まれている。

代表的な曲

関連項目

脚注

  1. 服部幸雄『歌舞伎ことば帖』岩波書店〈岩波新書〉1999年、ISBN 4004306116 pp.89-93.