隠岐国

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隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

「隠岐」の名称

平城宮(平城京)木簡には「隠伎国」と表記されている。六国史の表記過程では、『続日本紀』(794年)に、「隠伎」や「隠岐」と表記され、『日本後紀』(840年)以降は、「隠岐」に統一されている(佐藤信 『日本古代の宮都と木簡』 日本史学研究叢書 1997年 pp.369 - 370)。

隠岐諸島

隠岐諸島(おきしょとう)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。西ノ島中ノ島知夫里島島後(どうご)の4島に人が住み、島後に対して前3島を島前(どうぜん)と呼ぶ。

沿革

7世紀に設置された。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

和名類聚抄』によれば、国府は周吉郡にあった。現在の隠岐郡隠岐の島町で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺構は発見されていない。

国分寺

  • 隠岐国分寺跡(所在未詳)
    後継寺院の禅尾山国分寺(隠岐郡隠岐の島町池田、位置)境内に位置すると推測されるが、詳らかではない。2009年度(平成21年度)からの発掘調査で根巻き瓦を有する柱穴列が検出されており、これが旧国分寺の遺構になる可能性がある[1]。また現国分寺境内には旧国分寺のものという礎石が伝世される。法燈は禅尾山国分寺が伝承し、禅尾山国分寺の境内域は「隠岐国分寺境内」として国の史跡に指定されている。
  • 隠岐国分尼寺跡(隠岐郡隠岐の島町有木、位置
    島根県指定史跡。現国分寺の南東方約500メートルに位置する。寺域は1町(約109メートル)四方と推定される。金堂・講堂・中門と見られる建物跡などが検出されているが、金堂・講堂が東西に並ぶという通常とは異なる伽藍配置であり、国分尼寺ではないとする説もある[2]。後継寺院はない。

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社4座4社・小社12座11社の計16座15社が記載されている(「隠岐国の式内社一覧」参照)。大社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]

大日本国一宮記』では由良比女神社を一宮とするが、実態から言って水若酢神社が一宮であったとされる[3]。二宮以下はなし。

後醍醐天皇の行在所

隠岐は配流地であり、後鳥羽上皇後醍醐天皇などが流された。

元弘2年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。

地域

戦国時代

尼子氏は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。

江戸時代

隠岐は松江藩(堀尾家、京極家)の分国となったが、寛永15年(1638年)以降は天領となった。

人物

国司

守護

鎌倉幕府

室町幕府

武家官位としての隠岐守

参考文献

脚注

  1. 禅尾山国分寺 境内説明板。
  2. 隠岐国分尼寺跡 説明板。
  3. 3.0 3.1 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 440-442。


関連項目


テンプレート:隠岐国の郡