イラン・イラク戦争

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イラン・イラク戦争
حرب الخليج الأولى(第一次湾岸戦争)
Iran-Iraq War
戦争:
年月日: 1980年9月22日 - 1988年8月20日
場所: ペルシア湾岸、イラン・イラク国境
結果: 膠着状態のままイラン優勢で終結
交戦勢力
イランの旗 イラン

25px クルディスタン愛国同盟

イラクの旗 イラク
25pxアラブ連盟[1]
モジャーヘディーネ・ハールク
戦力
305,000 190,000
損害
推定戦死者 750,000〜1,000,000 推定戦死者 375,000〜400,000

イラン・イラク戦争(イラン・イラクせんそう、アラビア語: حرب الخليج الأولى‎)は、1980年から1988年にかけて、イラン・イスラム共和国(イラン)とイラク共和国(イラク)との間で行われた戦争

1980年9月22日に始まり、1988年8月20日国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。「イ・イ戦争」、「湾岸戦争」と呼ばれた時期もあったが、現在日本では単に「湾岸戦争」と言えば1990年-1991年のイラクのクウェート侵攻に端を発した戦争(第二次湾岸戦争)を指す。また、アラブ諸国では、第一次湾岸戦争(حرب الخليج الأولى)と呼ばれることも少なくない。

背景

この戦争はイスラム教内のシーア派スンナ派の歴史的対立や、アラブペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたといえる[2]。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。

両国の石油輸出にとって要所であるシャトル・アラブ川の使用権をめぐる紛争は、戦争以前にも長年の間、衝突の原因だった。シャトル・アラブ川はペルシア湾に注ぎ込むチグリス川ユーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。同河川沿いの都市バスラはイラク第二の都市で、石油積み出し場として重要な港でもあった。

イランでは1979年シーア派によるイスラム革命があり、親米君主制を行っていたパーレビー王朝による白色革命や古代アケメネス朝ペルシア帝国を称えるイラン建国二千五百年祭典の世俗性を批判していたホメイニーの指導下、周辺のアラブ諸国とは異なる政治体制「イスラム共和制」を敷き、世俗主義や君主制のアラブ諸国の警戒感を強めたが、イラン国内の混乱が増し、保守派の粛清のために軍事系統にも乱れがあると見られ、敵対する周辺国にとっては好機であった[2]

一方、イラクではアラブと古代メソポタミアの復興を掲げるサッダーム・フセインが反対派を粛清してバアス党を掌握する強固な独裁制を確立させ、原油の輸出で得た潤沢な資金を投じた積極的な軍備拡張で世界第四位の軍事大国となり、パーレビー王朝と結んでいたアルジェ合意を破棄し、イランの重要な油田地帯でかつてメソポタミアからの侵略を何度も受けていたフーゼスターン州を「アラビースターン」と呼んでアラブ領土の失地回復という大義名分でイラク領への編入を企んだ。

経過

ファイル:Capture in Khorramshahr.jpg
ホラムシャハル奪回時に士気阻喪となったイラク陸軍兵達。
ファイル:Five Iranian Air Force F-14A Tomcats in flight.jpg
イラン空軍はパフレヴィー朝時代に購入した当時最新鋭クラスのF-14Aトムキャット戦闘機を保有していたが、整備不足からほとんど戦闘に参加できず、結局イラン軍はF-14を管制機として運用した。
(写真のイラン機は2011年の撮影)

イラクの奇襲

1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍が迎撃するという形で戦争は始まった[2]。ただし、9月に入った時点で国境地帯での散発的な戦闘や空中戦が起こっていた。この攻撃は、1975年にアルジェリアの仲介で、イランとイラクの国境を画定するために結ばれたアルジェ協定の一方的破棄であった[3]。この急襲で基地施設の破壊は成功したが、肝心な戦闘機の破壊は失敗。翌日、イラクは両国の644kmに渡る国境線を越え三方向から地上軍を侵攻。南部戦線ではフーゼスターン州に橋頭堡を確保しシャッタルアラブ川流域のアーバーダーンホラムシャハルを包囲する目的だった。中部戦線ではイーラーム州ザグロス山脈の麓を制圧した。これはイランの反撃に備えるためで、北部戦線ではスレイマニヤの制圧を目指した。これはイランの反攻でキルクークの石油施設が破壊されるのを防ぐ狙いであった。準備の面で勝るイラク軍は、革命で混乱したイラン軍の指揮系統などの弱点をついた。イランは正規軍イラン・イスラム共和国軍イスラム革命防衛隊とが共同作戦をできなかった。それでも、破壊を免れたイラン空軍機は制空権を支配しイラクの石油施設やバグダッドなどを爆撃、イラン海軍はバスラを攻撃した。それでもイラク軍はホラムシャハルを占領、アフヴァーズを目指す勢いで、11月にはイラン西部国境地帯の一部を占領(詳細はイラン侵攻 (イラン・イラク戦争))。

イランの軍備は長らく親米政権であったため、ほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなっていた。

イランのイスラム革命に介入しようと、米国欧州ソ連などはイラクを積極支援した[2]。革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、またイランのイスラム革命精神の拡大を恐れたことも関係[2]アラブ諸国スンニ派や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランの十二イマーム派の革命の輸出を恐れイラクを支援した。特にクウェートはペルシア湾対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。ソ連、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入の90%を占めた[4]。イラクを全面支援するクウェートの収入源は石油であるが、イランの鼻先を通るクウェートのタンカーにはソ連の護衛が付いており、イランは手出しができなかった。米国は、反イランの論調を受けイラクに対する武器輸出や経済援助などを行ったが、裏では革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環として、また、ニカラグア内戦を戦う傭兵コントラへの資金援助のため、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った(イラン・コントラ事件)。1980年から1988年まで中国はイランに最も武器を供給した国だったが[5]、裏ではその2倍以上の武器をイラクに中国は供与しており[6]、イラクは最も多くの中国人労働者を受け入れて経済援助も受けた[7]

東西諸国共に対イラン制裁処置を発動、物資、兵器の補給などが滞り、また革命の混乱も重なって人海戦術などで応じるしかなかったため、イラン側は大量の犠牲者を出す。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されている。しかし、全般的には劣勢で、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。

形勢の逆転

イラクの予想よりもイラン民衆の抵抗は強く20万を越える義勇兵が前線に加わった。またイラク軍部と与党であるバアス党の意見の違いなどから戦線は1981年5月には膠着。完全に孤立したように見えたイランであったが、当時エジプトを除いてアラブ諸国と関係を正常化してなかったイスラエルが援助していた[2]。米国製部品をイスラエルが代わりに調達するなどしてイランを支えた。加えて、他のアラブ諸国と異なり国家元首のアサド一族をはじめ少数派のアラウィー派が政権を握るシリアと、反欧米を掲げるリビアがイランに味方した[2]。奇しくもイスラエルと、アラブ諸国の中でもイスラエルに敵対的なシリアとリビアがそれぞれの思惑で共闘、イランを支援した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はイランを支援したことを理由に1980年10月の朝鮮労働党大会直前にフセイン政権のイラクから断交され[8][9]、このときから親密なイランと北朝鮮の関係が構築された。

1981年6月7日、イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビア領空を侵犯しイラク領に侵入、フランスの技術で建造中の原子力発電所(未稼働)を空爆、破壊(イラク原子炉爆撃事件)。このため、イラクはイスラエル方面の防空を強化しなければならなくなった。

1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出ができなくなった頃から戦況は動き始める。5月24日にイランはホラムシャハル港を奪回、3万のイラク兵を捕虜とした。6月には旧領土ほぼ全域を奪還、逆にイラク国内への攻勢に出る。イランの勝利もありうると考えたイラク側が休戦を持ちかけるきっかけとなったが、巻き返したイランはフセイン体制の打倒に固執、戦争は終結しなかった。11月にはイラク軍がイランのカーグ島石油基地を破壊した。

沈静化

この年、シリアの占領下のレバノンイスラエル軍が侵攻、レバノン内戦が再燃。このため欧米の目は急速にレバノンへ向き、火消しに躍起になった。アメリカはフランスと共に軍をレバノンへ派遣した。なお、このレバノン内戦の裏ではイスラエルとイラン間で密接に連絡していた。また、1982年、イギリスフォークランド戦争、アメリカは1983年10月グレナダ侵攻、ソ連もアフガニスタンで手間取った為、世界の目はこの戦争から離れた。しかし、1983年にレバノンのアメリカ・フランス軍のキャンプが自爆テロ攻撃を受けた為、報復にシリア軍を艦砲射撃して1984年2月に撤退した(アメリカ大使館爆破事件)。

再燃

アメリカ軍撤退の直後、イラン・イラク間の戦闘が再燃した。3月に国際連合の調査によりイラクが化学兵器タブンなどの毒ガス兵器を使用が判明すると、戦争に対する世界的な非難が高まった。11月にイラクはアメリカと正式に国交を回復し、援助は公式なものとなった。

1985年3月、イランとイラクは相互に都市をミサイルで攻撃。イラクはソ連のスカッドを改良した「アル・フセイン」をイランの都市へ撃ち込んだが、これによってイランはミサイル開発にこだわるようになる。5月にはイラク空軍機、テヘラン空襲。1986年6月にはイラク軍のミサイルがイランの旅客列車に命中した。

アメリカの介入

両国が殺戮の応酬を繰り返す中の1986年3月、イランを支援し続けるリビア(リビアは当時チャド・リビア紛争English版もしていた)とアメリカ軍機がシドラ湾で交戦、アメリカは4月にリビアを攻撃した。しかし12月、アメリカでイラン・コントラ事件が暴露されてしまった。大統領ロナルド・レーガンは窮地に立たされると、取引を持ちかけたのはイランだとして激しく非難した。クウェートへの攻撃を防ぐ為、クウェートのタンカーには星条旗を掲げさせ、アメリカ軍艦の護衛をつけた(アーネスト・ウィル作戦)。

対してイランは1987年1月に「カルバラ5号作戦」を実行。イラク領へ向け南部戦線に大攻勢をかけ、ようやくイラク軍に損害を与えることができた。また、イラク国内の反政府的なクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向け、イラク軍の弱体化を狙ったが、これに対してイラク軍は反乱クルド人に化学兵器を使用したため、事態を知ったイラン軍の士気は下がった。しかし、一説ではこのときの化学兵器使用はイラン軍によるものであるとも言われており、真相は明かされていない。

7月20日国際連合安全保障理事会が598号決議を採択した。即時停戦ほか、公正な機関による戦争責任の調査、抗戦を継続する場合には武器の輸出停止、経済制裁を行うという内容であった。先にイラクが受諾の姿勢を見せたが、8月からペルシャ湾に大量の機雷が浮遊するようになる。イラクは報復としてイランのタンカーを攻撃、9月からアメリカ軍のヘリコプターが出動したが、これに対してイランはアメリカのタンカーを攻撃した(タンカー戦争)。

またアメリカ海軍は10月、アーネスト・ウィル作戦としてクウェートが保有するアメリカ船籍の石油タンカーの護衛についていたが、タンカーが攻撃を受けたことから、報復として10月19日イランの持つ2つの油田を攻撃した (Operation Nimble Archer 作戦) 。また、この作戦は歴史上最大の株価暴落 (ブラックマンデー) を引き起こした。

1988年2月、イランとイラクは相互都市攻撃を再開、ここにおいてアメリカ軍がペルシャ湾に出動、4月14日にイランとの間で交戦となった(プレイング・マンティス作戦)。さらに、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。イランは7月に安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日に停戦が発効した。

この戦争の間、ペルシャ湾岸諸国(サウジアラビアクウェートアラブ首長国連邦カタールバーレーンオマーン)は湾岸協力会議GCC)を結成し、地域の安定を求めた。GCCはアメリカが後ろ盾となり、各国にアメリカ軍兵器を輸出した(サウジアラビアは見返りとしてアメリカからF-15戦闘機などを購入することができた)。また、サウジアラビアは米国には秘密で中国の弾道ミサイルDF-3を導入してイランからの攻撃に備えた。

1989年6月、イランの革命の父ことホメイニーが死去した。翌1990年9月10日にはイラン・イラク両国間で国交が回復した。

なお、1990年の8月2日にイラクはクウェートに侵攻しており、翌年に湾岸戦争となった。

影響

両国の犠牲者は100万人程度と推定され、経済的な被害も大きい。

一説では、この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、湾岸戦争へ発展する、イラクによるクウェート侵攻の目的のひとつであったとされる。

日本との関連

在留邦人脱出

なかなか終わらない戦争に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言した。

この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人はおのおの自らの国の航空会社や軍の輸送機によって順次イランから脱出していった。ところが、日本においてはそうではなかった。ただちに日本航空にチャーター便の派遣を依頼したのだが、同社のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由にいずれもこの要請を拒絶した。その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、いずれの国家も自国民救出に手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、いまだ200名を超えるイラン在外日本人が全く脱出方法が見つからずに、生命の危機に瀕する状況にあった。(同年8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなった海上自衛隊出身の高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと言われている。)

なお当時の自衛隊法は、自衛隊の外国における活動を人道目的を含めて想定しておらず、また、イランまでノンストップで飛行できる航空機が配備されていなかったため、自衛隊を派遣するのは事実上不可能だったが、2016年現在では、このような事態が発生した場合には外務省在外公館を通じて相手国の許可を得たうえで、航空自衛隊日本国政府専用機海上自衛隊護衛艦による在外日本人救出を行うことになっている。

また、陸上自衛隊も「在外邦人輸送訓練」を毎年行っている他、海上保安庁も必要に応じて巡視船保安官を派遣することになっている[10]

トルコ政府の協力

だが、土壇場で個人的な親交に一縷の望みを託した野村豊在イラン日本国特命全権大使がイスメット・ビルセル在イラントルコ特命全権大使に救援を要請したところ、トルコ政府が応じ[注 1][11]トルコ航空の自国民救援のための最終便を2機に増やしたため、215名の日本人がそれに分乗してイランを脱出した。タイムリミットの1時間15分前だった。

なお、トルコ機は自国が近隣に位置することから陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を最優先し、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出した。このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、1890年(明治23年)日本に親善訪問した帰途、和歌山沖で遭難したフリゲートエルトゥールル号救助に際し日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている[12]

2015年、日本・トルコ修好125周年を記念し、エルトゥールル号遭難事件とテヘラン邦人救出劇を描いた映画『海難1890』が日本・トルコ合作映画として製作された。

主要な戦闘

脚注

注釈

  1. トルコ首相トゥルグト・オザルとプライベートな親交のあった伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永堯も相前後して首相に働きかけたという。

出典

  1. Lesch page = 85, David W. (2001). 1979: The Year That Shaped the Modern Middle East. Westview Press
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『昭和55年 写真生活』p20-21(2017年、ダイアプレス)
  3. 小山茂樹 『石油と中東が世界を決める』 時事通信社、1987-07。ISBN 978-4-78-878726-1。
  4. SIPRI Database Indicates that of $29,079 million of arms exported to Iraq from 1980 to 1988 the Soviet Union accounted for $16,808 million, France $4,591 million, and China $5,004 million (Info must be entered)
  5. SIPRI Database Indicates that of $5,044 million of arms exported to Iran from 1980 to 1988 China count for $1,958 million (Info must be entered)
  6. China-Iraq Ties: Oil, Arms, and Influence”. Second Line of Defense. . 2018閲覧.
  7. 【国别研究】伊拉克华侨华人与“一带一路”建设”. 凤凰国际智库. . 2018閲覧.
  8. DPRK Diplomatic Relations”. National Committee on North Korea. . 2016閲覧.
  9. 宮本悟 (2007年8月1日). “イラン・イラク戦争における北朝鮮のイラン派兵”. 環日本経済研究所. . 2016閲覧.
  10. 【北朝鮮情勢】半島有事“そのとき”海保は… 前例ない巡視船での邦人保護 手薄な尖閣警備懸念 2017.4.25 産経ニュース
  11. 日本トルコ協会創立八十周年記念『アナトリアニュース』118号別冊
  12. トルコの時代”. トルコ共和国大使館. . 2013閲覧.

関連項目

参考文献

  • 鳥井順『イラン・イラク戦争』、第三書館、1990年
  • 松井茂『イラン-イラク戦争』、サンデーアート社、1990年
  • ケネス・M・ポラック『ザ・パージァン・パズル』上巻、小学館、2006年

外部リンク