イラン語群

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イラン語群(イランごぐん)はインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属するインド・イラン語派の一分派である。

20世紀末時点でイラン語群を話すイラン系民族の人口は9千万人を超えているとみられる。[1]ある調査では祭祀言語としてのみ存続するアヴェスタ語のほか86の言語を数えているが、このうち十数語は隣接言語と近似し個別の人口集計がない。最大集団はペルシャ語で使用人口は約3,800万人、これにパシュトゥ語(約2,000万人)、クルド語(約1,700万人)、バローチー語(約700万人)が続く。

名称

「イラン」という支族名は主要言語であるペルシャ語が古代以来イラン高原で話されてきたことに由来する。言語学的分類における「イラン語」はイラン国家とは何の関係もない。イラン国内の言語はCategory:イランの言語を参照。

先史

インド・イラン語派の発祥の地は中央アジアであるらしい。カスピ海東岸からバイカル湖地方にかけて分布した紀元前2000年頃のアンドロノヴォ文化がインド・イラン文化共通の祖であるとする説が浮上している。

イラン語群はインド・イラン語派の他の言語ともどもインド・イラン祖語English版から以下の4語派の祖語に分化したとされる。

インド・イラン祖語の分裂後、イラン祖語English版が存在したが、紀元前2千年紀の初期にイラン系民族が南東ヨーロッパからイラン高原や中央アジアまでの広大な地域に移住しはじめると、イラン祖語も分裂してそれぞれ独自の発達を遂げはじめた。

古代イラン語

古代イラン語は、ゾロアスター教の文献で知られるアヴェスター語と、楔形文字で記された古代ペルシア語によって知られる。資料は残っていないが、ほかにメディア語などの存在が知られている。スキタイ語もイラン系の言語であったと考えられている。

中期イラン語

中期イラン語は紀元前4世紀ごろから9世紀ごろまで使われた。

東イラン語群の諸言語は相互の違いが大きい。東イラン語群の言語は古代イラン語の特徴をよく残していた。アケメネス朝アラム語が公用語だったため、これらは多くアラム文字で表記されたが、バクトリア語はギリシア文字で、コータン語ブラーフミー文字の一種で書かれた。

西イラン語群のパフラヴィー語はサーサーン朝の公用語であり、3世紀から10世紀初頭にかけて使用された。パフラヴィー語・パルティア語・ソグド語はマニ教でも使用された。アラム宮廷書体はこの時代に長足の進歩を遂げた。

アラブ征服後のイラン語

ファイル:Iranian Language Status.png
濃緑色: イラン系言語が公用語の国。青緑色: 準公用語または事実上これに匹敵する地域

イラン内外ではイスラーム教徒のペルシア征服以後ペルシア語方言の地位が大きく変わった。アラブ征服時代以降、イラン・中央アジアではウマイヤ朝アッバース朝といったイスラム帝国の支配下になったことで旧サーサーン朝のペルシア人たちやソグド人たちがムスリム化し、さらに政治的な主要言語がアラビア語になったことで、7世紀半ばから在来のイラン系サーサーン朝の言語である中期ペルシア語(パフラヴィー語)やさらにソグド人ソグド語などの中期イラン諸語による著述活動が絶無の状態に陥った。この状態はサーマーン朝が勃興する9世紀後半まで続き、これをペルシア語文学史上では「沈黙の2世紀」と呼ばれている。

権威ある文体を特徴としたパフラヴィー語と呼ばれる中期ペルシア語に代わり、かつて一方言であったダリー語が宮廷の公用語となった。「ダリー」という名称は「門扉」を意味する「ダル」 dar に由来するが、この「ダル」とは宮廷を意味する『ダルバール』 (دربار) と意味を同じくし、「宮廷語」ほどの意味になる。9世紀にアッバース朝カリフマアムーンのクーデターを支援したことでホラーサーンを拠点としたサーマーン朝マー・ワラー・アンナフルまで支配地域を広げた。かつてソグディアナの中心地であったサマルカンドサーマーン・フダーの孫たちのうち、ヌーフ1世以来サーマーン朝の宮廷が営まれ、ここにアラビア文字とアラビア語彙を多数用いた「近世ペルシア語」が成立し、文芸復興が行われた。この宮廷には詩人・要人・文学のパトロンが文化を花咲かせた(ペルシャ文学参照)。特にマンスール1世English版(マンスール・ブン・ヌーフ、在位961年 - 976年)の時代に、タバリーの『大タフスィール』や、同じく宰相バルアミーEnglish版らによる『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語訳が編纂され、ルーダキーダキーキーなどに代表される最初期のペルシア語詩がそれである。875年の「ダリー語」の公用語化はサッファール朝を特徴づける出来事である。8世紀の『カリーラとディムナ』(Kalīlah wa Dimnah)の訳者イブン・ムカッファ10世紀イブン・ナディームなど中世イランの学者がイスファハーンからアゼルバイジャンアゼルバイジャン語参照)に至る北西地方の方言を記述するさい「パフラヴィー」という名称を用い、東部ホラーサーン地方の方言を「ダリー」という名称に関連づけていることから、「パフラヴィー語」は西部地域の方言を基にしており、対照的に「ダリー語」は東部地域の方言の影響が強かったらしい。なお「ファールスィー」、「パールスィー」(ペルシャ語)はファールス地方の方言をさしている。この新しい公用語は現代標準ペルシャ語の祖形となった。王朝固有の言語はフーゼスターンの方言であると記述されている。

イスラム征服の副産物にはアラビア文字のペルシャ語表記への使用がある。そのさいペルシャ語の音素にあわせて数文字が追加された。これはおそらく8世紀後半のことで、以後中世アラム文字は次第に使われなくなった。アラビア文字は現代ペルシャ語でも使われている。タジク語はその後ソヴィエトの国家政策により1920年代にはラテン文字が使われ、1930年代になるとソ連邦中央アジアの政府計画によりキリル文字が使われた。

イラン諸語が話される地域は異言語社会の侵入を受けてきた。イラン西部のフーゼスタンの一部ではアラビア語が話されるようになり、現在トルクメニスタンウズベキスタンタジキスタンがある中央アジアの広域で従来のソグド語バクトリア語にかわりトルコ系諸語が普及した。アゼルバイジャンでもペルシャ系言語に代わりトルコ系言語がつかわれるようになった。

イラン語群の分類

イラン語群は東西の支族に分類される。

イラン諸語の比較表

テンプレート:イラン語群

関連項目

参考資料

  1. Gordon, Raymond G., Jr. (ed.) (2005). “Report for Iranian languages”. Ethnologue: Languages of the World (Dallas: SIL International). http://www.ethnologue.com/show_family.asp?subid=90019.