ウサーマ・ビン・ラーディン

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テンプレート:Infobox officeholder テンプレート:イスラム主義のサイドバー ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin, 1957年3月10日 - 2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリストアルカーイダの司令官(アミール)であり、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。身長195cm。体重約73kg。FBIの指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。

2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいて米国海軍特殊部隊Navy SEALsが行った軍事作戦によって銃撃戦になり、殺害されたと報道された。

参照: ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害

表記

日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン外務省[1]オサマ・ビンラディンNHKテレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン日本テレビTBSフジテレビテレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン読売新聞など)などとも表記される[2]

「ビン・ラーディン」は日本の姓に相当するものではなく、「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン・ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン・ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている。

参照: 人名#イスラム教圏の名前

中東ではウサーマがテロリストとして有名になる以前からサウジアラビアの財閥であるビン・ラーディン・グループとその創業者一族の名前として有名であった。現在でも「BIN LADIN」という看板がビン・ラーディン・グループの系列企業で掲げられている。

出自と経歴

ラーディン一族

ファイル:Bin Ladin.jpg
ドバイにあるビン・ラーディン・グループのオフィス

ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアジッダに移住し、1930年に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウディ・ビンラディン・グループ」を柱とするラーディン一族を形成した。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。グループは石油ブーム時代に建築業で財を成し、メッカおよびマディーナ(メディナ)のモスクの修理を任されるほど、サウード家と深く結びついている。

現在、「サウジ・ビン・ラーディン・グループ」は、アメリカアジアおよび欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油および化学プロジェクト、遠距離通信および衛星通信に従事している。グループは、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も保有していた。これに加えて、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアで貿易会社、イエメンで器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督していた。

グループの特徴としては、創業者自身が外国人労働者であったこともあり積極的に外国人雇用していることがあげられ、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加している。アメリカのブッシュ一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である(サーレムは1988年に自らの飛行機の操縦ミスでテキサス州サンアントニオで死亡した)。無論、これらはウサーマが反米に立場を転じてテロリストとなる前の話であり、また、彼ら親族はウサーマのようなテロリストではなくそのような組織との直接的関係もない。ウサーマの息子は父に対しテロ行為をやめるようメッセージを発していた。しかし、それはジェスチャーに過ぎないとの説がある[3]

生い立ち

ウサーマは、ムハンマド・ビン・ラーディンの10番目の妻でシリア生まれのハミド・アル=アッタスの子(最初の男児)としてサウジアラビアのリヤドで生まれ育った。生年はウサーマ自身がアルジャジーラとのインタビュー1957年3月10日である、と述べている。アラブの部族社会では事業を拡大するためには事業を行う地域を支配する部族長の娘を嫁にもらわなければならず、ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし55人の子供を儲けることになったが、最初の妻以外はウサーマの母のように短期間で離婚している。ウサーマを始め妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。ウサーマはその17番目の子である。ムハンマドは妻ハミドとウサーマ生誕直後に離婚、ハミドは同じ部族のムハンマド・アル=アッタスと再婚し新しい夫との間に4人の子を儲けた。ウサーマはその新しい兄弟の頭として成長した。このためウサーマはラディーン族ではなくアッタス族の社会で幼少期を過ごし実の父とは一緒に暮らしたことがない。敬虔なワッハーブ派ムスリムとして育てられ、世俗の学校に通ったがエリート教育がなされた。ウサーマの実父・ムハンマド・ビン・ラーディンはウサーマが10歳の時に飛行機事故で死亡している。ウサーマは高校時代にイスラム原理主義に触れたとも言われる。ウサーマは17歳の時、シリアのラタキアで最初の結婚をした(最初の妻とは2001年に離婚)。CNNによるとウサーマは他に4度の結婚歴があり、子供の数は20人を越える(子供らの多くは2001年以降、イラン亡命している)。ウサーマは、ジッダキング・アブドゥルアズィーズ大学経済管理学部に入学するが、宗教や詩作に向かいクルアーンジハードの研究に没頭した。慈善活動に精力的に参加する一方、バーナード・モントゴメリーなどの軍記物を好んで読んだ。ウサーマはムスリム同胞団に加入、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられる。さらに同大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった。ウサーマは自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている。ウサーマはシャリーアの復権だけがイスラム世界を正しい道に導き、社会主義共産主義民主主義国民主義汎アラブ主義などは打倒されるべき対象であると述べている(後年、「ムハンマド・オマル支配下のアフガニスタンだけが唯一のイスラム国家である」とも述べている)。従って反セム主義シーア派スーフィズム異端であると攻撃対象にする思想が形成された。イスラエルの後見人というだけでなく、退廃的で堕落的な文化と規定して反米であった。厳格なサラフィー主義から、ウサーマは音楽映画などにも不寛容であった。一方でウサーマは乗馬サッカーをするのを非常に好んだ。ウサーマは、1979年に大学で学位取得後、少しの間、クルアーンの規定の遵守を監督する勧善懲悪委員会ムタワ)に勤務していた。

ムジャーヒディーン

1979年ソビエト軍のアフガニスタン侵攻が起こると、サウード家は、アフガニスタンムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン家に支援を要請した。アル=ハラム・モスク占拠事件の影響でイスラム過激派を国外に追い出す狙いもあった。同年のイラン革命の進展に強い影響を受けたウサーマは、アブドゥッラー・アッザームの誘いで、アフガニスタンでソビエト軍と戦うことを決意、パキスタンペシャーワルに向かう。駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにムジャーヒディーンとなった。1980年にはペシャーワル郊外に居を構え、この時期より迷彩服を着用し、素手でロシア人兵士を殺して奪った(とされる)アサルトライフルを常に携帯するようになった。またパキスタン軍統合情報局(ISI)長官のハーミド・グル中将の知己となった。1989年まではサイクローン作戦を通じウサーマらムジャーヒディーンはアメリカの中央情報局(CIA)の援助を受けたが、ムジャーヒディーンの軍事訓練はムハンマド・ジア=ウル=ハク政権のパキスタンが担い、ISIとパキスタン陸軍が指導した。サウジアラビア総合情報庁(GIP)の長官トゥルキー・アル=ファイサル王子の委任により、ウサーマは個人財産とGIPからの資金でムジャーヒディーンのスポンサーとなり、アブドゥッラー・アッザームと共に1984年までにはペシャーワルで「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト。MAK)を開設し、エジプト・スーダンなどからムジャーヒディーンをリクルートし、パキスタンの北西辺境州に設立した軍事キャンプに送り込んだ。ムジャーヒディーンは主にグルブッディーン・ヘクマティヤールを支援した。アフガニスタンでの対ソ戦の戦況はムジャーヒディーンの活躍で好転する。ウサーマがオマル・アブドッラフマーンアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーなどと関係を構築したのはこのときである。

反米

1988年頃にはMAKは路線対立で分裂を強め、アフガニスタンでの活動を優先させようというアッザーム派は離れ、1988年8月にはビン・ラーディンを中心にムハンマド・アーティフジハード団からのメンバーらがアル・カーイダを創設した。 ムジャーヒディーンはアフガニスタンでは反共の観点からCIAやパキスタンのISIを後ろ盾に活動を続けていたが、1989年2月のソビエト軍の敗退後、ビン・ラーディンらは反米活動に転じた。ユーゴスラビア紛争に積極的に関与し、バルカン半島のイスラム勢力を支援した。ビン=ラーディンは1990年にサウジアラビアへ英雄として帰国した。同年8月、サッダーム・フセインイラク軍クウェートに侵攻すると、ビン=ラーディンはファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ国王と国防相のスルタン・ビン・アブドルアジーズ・アル=サウード王子と面会し、メッカマディーナという聖地を有するサウジアラビアの国内にアメリカ軍を駐留させない代わりにムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案した[4]。しかしアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュの圧力に負けたサウード家は異教徒のアメリカの軍の駐留を認め、イスラム世界を驚かせた。湾岸戦争はビン=ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。米軍のサウジアラビア駐留直後の1990年11月、FBIニュージャージー州のエル・サイード・ノサイルの住居を摘発、ニューヨーク超高層ビル爆破計画の資料を押収した。ノサイルはラビメイアー・カハネを殺害したアル・カーイダのメンバーで、これが西側での爆弾テロ計画が露見した最初となった。サウード家は、ビン・ラーディンを危険視、国外出国を禁止する。

ビン・ラーディンはアフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義イスラム原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれている[5]

ビン・ラーディンは1992年に密かにサウジアラビアを脱出、サウード家を攻撃し続けるビン・ラーディンに対しファハド国王による追放であったとも言われている。民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでスーダンに渡り、ハルツーム青ナイル川地域に軍事キャンプを設立した。財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」からの資金が止まり、スーダン国内で建設事業を行うことで財政面を安定化させるとともに、アフガニスタンで共に戦ったジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどと関係を深め、組織の拡大育成を行った。オスロ合意に反発、反米闘争がエスカレートしていった。1993年にはボスニア・ヘルツェゴビナの市民権を取得し、サラエヴォなどでの紛争に主にスーダンからイスラムのムジャーヒディーンを送り込み、アルジェリア内戦では武装イスラム集団を支援する財政的な援助を行った。北米西欧で偽造旅券を所持したアルジェリア人が次々に逮捕され爆弾テロの計画が露見した。さらにイエメンソマリアなど活動を広げた。ビン・ラーディンが指導したアルカーイダの爆弾テロは1992年末のイエメンのアデンでのホテル爆破が最初とされる。中東における自爆テロ1980年イラン・イラク戦争シーア派が行ったのが最初である。車爆弾を用いた自爆テロは1983年レバノン内戦下のベイルート・アメリカ大使館爆破事件が最初である。さらにヒズボラによるベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件が起こり300人を越える米兵・フランス兵が死亡した。米軍基地までもがテロの標的となった波紋は大きく、アルカーイダでもそれに習い、イスラム集団などと共闘して、世界貿易センター爆破事件など世界各地で一般市民をも巻き込んだ無差別な爆弾テロを行っていく。サウジアラビア政府は、1994年にビン・ラーディンの国籍を剥奪、同時期にラーディン家は、ウサーマを一族から追放したとの声明文をサウジアラビア国内のマスコミに送っている。エジプトホスニー・ムバーラク大統領への暗殺未遂事件を起こしたジハード団(EIJ)は1995年にスーダン追放となり、さらにアメリカ・サウジアラビアの圧力で、ビン・ラーディンもスーダン国内に居られない状況となり1996年5月にスーダンを出国し、チャーター機でアフガニスタンのジャラーラーバードに渡った。直後にサウジアラビア東部のダーランで米軍宿舎爆破事件が発生した。この頃がビン・ラーディン一派が最も苦境であったとされる。

アフガニスタン滞在

アフガニスタンにビン・ラーディンを招いたのはアブドゥル・ラスル・サイヤフで、ソビエトとの戦いでジャラーラーバードにビン・ラーディンと軍事訓練キャンプを創設して以来の関係であった。アブドゥル・ラスル・サイヤフは、世界貿易センター爆破事件の首謀者のラムジ・ユセフアメリカ同時多発テロ事件の起案者とされるハリド・シェイク・モハメドなどアル・カーイダの首脳たちにかつてペシャーワルで軍事指導したことがあった。ビン・ラーディンは、最初はハリス派の庇護を受け、ISIの資金援助で食い繋いだ。ジャララバードがターリバーンの手に落ちると今度はターリバーンの客人となり、ムハンマド・オマルと緊密な関係を構築、アフガニスタン国内にアル・カーイダの訓練キャンプを設置していった。またアリアナ・アフガン航空ハイジャックしたことからそれを用いて現金やアヘン、武器、偽造旅券などをパキスタンやアラブ首長国連邦との間で効果的にやり取りすることが可能になった。1997年にはイスラム集団を財政的に支援しルクソール事件を起こした。同年、北部同盟がジャラーラーバードを圧迫するとカンダハール東部のカルナクに拠点を移した。同じ頃、マザーリシャリーフ攻略にターリバーンは失敗し大打撃を受けた。その窮地を救うためビン・ラーディンは数百人のアラブ兵を送り、1998年8月にはマザーリシャリーフのシーア派ハザーラ人住民5,000人以上を大虐殺した。1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成し、「ムスリムにはアメリカと同盟国の国民を殺害する義務がある」「エルサレムアル=アクサー・モスクを解放せよ」というファトワーをザワーヒリーと連名で布告した。ジェマ・イスラミアとも関係を深めた。8月7日にはタンザニアダルエスサラームケニアナイロビアメリカ大使館爆破事件を起こしFBIから訴追をうけた[6]。アメリカはビン・ラーディンをかくまっていたアフガニスタンのターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267[7]が採択された。ターリバーン政権はこれにも応じず、経済制裁が発動された。同年、ビン・ラーディンはアルジェリアサラフィスト・グループの創設に深く関わった。クリントン政権はアメリカ大使館爆破事件の首謀者として同年8月、アラビア海の艦艇から巡航ミサイルでアフガニスタン東部ホーストにある潜伏先を爆撃したがビン・ラーディンは間一髪逃れたとされる。この頃、アルバニアにアルカーイダは拠点を構築し、コソボでの戦闘にアル・カーイダ系ムジャーヒディーンが参加している。1999年、CIAとISIは共同で大規模なビン・ラーディン捕獲作戦を計画したが、パルヴェーズ・ムシャラフによるクーデターが発生し中断を余儀なくされた。

2000年、アル・カーイダは米艦コール襲撃事件をおこし、国際連合安全保障理事会決議1333[8]によって再度引き渡しが求められた。

アメリカ同時多発テロ事件以後

ブッシュ政権は、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者をウサーマ・ビン・ラーディンとアル・カーイダであると断定した(アル・カーイダでもサイード・アル=マスリーサイフ・アル=アデルは計画に反対した、とされる)。アメリカ政府の公式報告書(『9/11委員会レポート』)によると、航空機を使用したテロ計画の発案者は、2003年に逮捕され計画の全貌を自白したハリド・シェイク・モハメドであり、ウサーマ・ビン・ラーディンは彼から計画を持ちかけられたという[9]

2001年以降の足取り

ターリバーンは2001年11月にビンラディンにアフガニスタンの市民権を公式に与えた。同月、ジャラーラーバード郊外の隠れ家とされる場所がアメリカ軍により爆撃を受けている[10]。同月末のターリバーン政権の崩壊で、ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。同年12月17日、アイマン・ザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリスドイツ北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した。このことは2009年11月29日アメリカ上院外交委員会にて取り上げられ、現地指揮官からの増派要請を本国が拒否したのが捕獲失敗の原因と結論付けた[11]。その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると思われた。

2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道された。そのため死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。一説では北朝鮮に潜伏している[12]などの説があるが定かではない。2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した[13]

2010年10月18日CNN北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住。付近にアイマン・ザワーヒリーも住んでいるという[14]

発見、および死亡

活動の年譜

ウサーマ・ビン・ラーディンと911テロ

アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アルカーイダとそのリーダーであるウサーマが9/11テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。

ところが2001年11月、アフガニスタンのジャラーラーバードターリバーン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。

家族

2009年7月、アメリカのラジオ局「ナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子の1人であるサアドが、パキスタン領内で米軍の無人偵察機による爆撃で死亡した可能性があると報じた[15]。しかし同年12月、サウジアラビア資本でイギリスの首都ロンドンで発行される新聞「アッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマの別の息子であるウマル・ビン・ラーディンの話として[16]、死亡説がささやかれているサアドは親族らとともにイランにいたと伝えた。これによると、サアドは、兄弟姉妹であるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンの妻の一人であるハイリーヤ、叔父にあたるバクルを含む25人の親類と共にイラン国内で治安当局の監視下で自宅軟禁に置かれていたということを、ウスマーンが電話でウマルに話したという。ただしウマルによればサアドは一ヶ月前に逃亡し、その後はイラン国内にはいないという。ビン・ラーディンの家族はそれまで、2001年のアフガン空爆後は隣国イランに逃亡したと見られていた。

2017年1月5日、息子の一人ハムザ・ビンラディンを国際テロリストに指定したとアメリカ政府は発表した[17]

肉声録音への疑い

1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン・ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。

トリビア

  • 彼は左利きである。
  • ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたもの。
  • ウサーマの兄サーリム・ビンラーディンはアメリカ合衆国テキサス州において小型飛行機事故で死亡している。
  • 2006年インド東部の村を荒らしまわった象はビン・ラーディンと名付けられた。
  • 2009年2月オーストラリア・ハミルトン島の観光ガイドのアルバイトに、ビン・ラーディンを名乗る、応募のビデオテープが送られてきた。内容は、何者かがビン・ラーディンを騙った、ただのブラックジョークだった。
  • 愛銃はAKS-74Uライフルであり、彼がメディアに登場する際は大抵立てかけられた状態で写っている。また、その影響から同ライフルは「ビン・ラディンモデル」と呼ばれている。
  • CASIOF-91Wを愛用していた。

脚注

  1. 2011年(平成23年)2月18日、外務省告示第56号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象を改正する件」
  2. ネイティヴによる「Osama bin Laden」の発音”. Forvo. . 2014閲覧.
  3. ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年3月 ISBN 9784062161244, Page141
  4. Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged: Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.
  5. NHKスペシャル『9.11テロ 一年目の真実〜ビンラディンVSアメリカ〜』(2002年8月31日放送)による例では、ナイロビの爆破テロでは、その準備のために「ヘルプ・アフリカピープル」という慈善団体を隠れ蓑にしていた。
  6. USAMA BIN LADEN (FBI公式サイト)
  7. 安保理決議1267(訳文) 外務省
  8. 安保理決議1333(訳文) 外務省
  9. National Commission on Terrorist Attacks (2004). The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ; W. W. Norton & Company. 同時多発テロに関する独立調査委員会『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』(WAVE出版、2008年)
  10. ウサマ・ビンラディン容疑者 写真特集 時事通信(2001年11月18日)2018年1月26日閲覧
  11. “ビンラーディン取り逃がし、増援拒否が原因…米上院”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年11月30日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091130-OYT1T00995.htm . 2009閲覧. 
  12. 米国のAP通信は、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が管理している訓練キャンプで生化学武器実験が実施されたとの報道があったとし、北朝鮮関連説を提起した。AP通信は28日、「ビンラディン氏をアフガニスタン東部のクナル地域まで遂行したあるタリバーン保安関係者が、現地で北朝鮮人1人が訓練兵に化学武器訓練を行っているのを目撃した」と述べたと報道した。
  13. CIA Chief: Bin Laden Alive, Worried About 'Own Security' ABCNews
  14. http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101019/asi1010190005000-n1.htm 家屋で「快適な」生活 ビンラーディン容疑者
  15. http://news.smh.com.au/breaking-news-world/us-strike-may-have-killed-bin-ladens-son-report-20090723-du9v.html
  16. bin ladens wife and six children under house arrest iran
  17. 米、ビンラディン容疑者の息子を国際テロリストに指定AFP通信(2017年1月6日)2017年1月7日閲覧

関連項目

外部リンク