ジャンルイジ・ブッフォン
{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon、1978年1月28日 - )は、イタリア・カッラーラ出身のサッカー選手。パリ・サンジェルマンFC所属。元イタリア代表。ポジションはゴールキーパー(GK)。
日本においては「ジャンルイジ・ブフォン」と表記されることもある[1]。愛称ジジ(Gigi)。
Contents
経歴
パルマAC
1991年にパルマACのエルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、同チームの下部組織に加入した。
1995-96シーズンでは、下部組織加入からわずか4年でネビオ・スカラ監督によって、パルマのトップチームに昇格。その時まだ17歳だった。1995年11月19日、ファビオ・カペッロ監督率いるACミラン戦でセリエAデビュー(17歳9ヶ月)。その試合でこの年のバロンドールを受賞するジョージ・ウェアの至近距離からのシュートを顔面でセーブするなどスーパーセーブを連発し、0-0の引き分けに貢献した。このシーズンは9試合に出場した。
1996-97シーズンでは、正GKとしての地位を確固たる物とし、ステーファノ・トリージ、リリアン・テュラム、ファビオ・カンナヴァーロと共に強固な守備陣を形成。チームはセリエA2位につけた。
1998-99シーズンでは、堅守を武器にチームはコッパ・イタリア優勝、UEFAカップ優勝、イタリア・スーパーカップ優勝を達成した。
2000-01シーズンでは、このシーズンにおいて自身初となるセリエA全試合出場を果たした。
ユヴェントス
2001年7月2日、GKとしては史上最高額の移籍金となる5230万ユーロ(約56億円・当時)でマルチェロ・リッピ監督(前イタリア代表監督)率いるユヴェントスFC(以下ユーヴェと表記)に加入。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユーヴェに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」とブッフォンは反論し、その年のスクデット獲得に貢献をした。
2002-03シーズンでは、セリエA連覇を達成。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝2nd legのレアル・マドリード戦でルイス・フィーゴのPKを止めるなど活躍し、決勝進出。しかし、オールド・トラッフォードで行われたミランとの決勝戦でPK戦の末に敗れて準優勝に終わった。なお、このシーズンはUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上唯一)と最優秀GKに選出された。
2004年3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表ペレが選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出された。
2005-06シーズンでは、8月14日に行われたミランとの親善試合でカカと激突し、右肩を脱臼。長期の戦線離脱を余儀なくされ、ユーヴェはその代役としてクリスティアン・アッビアーティをミランから獲得。一旦、同年12月1日のコッパ・イタリア、フィオレンティーナ戦で復帰するが、ファビオ・カペッロ監督のまだ十分に回復していないとの判断により、その後の試合には出場せず。1月15日のレッジーナ戦で再度復帰。以降は正GKの座を奪還した。
2006年6月-7月に、カルチョ・スキャンダルでイタリアサッカー界が揺れる中、ブッフォン自身にも違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける(後に無実であることが判明)。
2006年8月、所属チームであるユーヴェの八百長行為によりチームがセリエBへ降格することが決定し、ファビオ・カンナヴァーロやジャンルカ・ザンブロッタなど多くのチームメイトが移籍していく中、アレッサンドロ・デル・ピエロやパベル・ネドベドらと同じくユーヴェに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表した。
2006年11月、2006 FIFAワールドカップでの活躍によりバロンドール受賞が噂されたが、投票の結果2位に終わり、イタリア代表のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロにその栄誉を譲った。
2006-07シーズンでは、チーム最多となる38試合に出場し、ユーヴェをセリエB優勝に導いた。シーズン中からUEFAチャンピオンズリーグ出場のため、他チームへ移籍するのではないかと噂されたが、シーズン終了後にユーヴェとの契約を2012年まで延長した。
2007-08シーズンでは、2008年3月14日にユーヴェとの契約を2013年まで延長した。
2009-10シーズンでは、シーズン開幕から好調を維持していたが、2009年12月12日に左膝半月板の手術を行った。
2010/11シーズン2010 FIFAワールドカップのイタリア代表メンバー23人に選ばれたが、連覇を狙ったこの大会でグループリーグ初戦のパラグアイ戦で負傷退場。その後、椎間板ヘルニアのため手術を受けた。11月に練習に復帰し、12月にはベンチ入りも果たしたが暫くはマルコ・ストラーリの控えとして過ごした。2011年1月14日のコパ・イタリア5回戦のカルチョ・カターニャ戦で実戦復帰。その後1月16日のASバーリ戦でリーグ戦初出場を果たした。このシーズンは、本来のプレーには程遠く移籍後最少の16試合の出場に留まり、チームも7位に沈んでチャンピオンズリーグはおろかヨーロッパリーグの出場権すら獲得できなかった。
2011/12シーズン久々にシーズン開幕から好調を維持し、セリエAでチーム2番目となる35試合に出場した。チームはセリエA最小失点(20失点)で2002-03シーズン以来9年ぶりの優勝(38戦無敗)に貢献した[2]。また、個人的にもサッカー統計組織「国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)」が21世紀のベストGKランキングを発表し、1位に選ばれた[3]。
2015/16シーズン2016年3月20日のトリノFCとのトリノダービーで1993-94シーズンに元イタリア代表GKセバスティアーノ・ロッシが記録した929分のセリエAにおける無失点記録を更新する「974分」の無失点記録を達成。[4] [5]
2016/17シーズン、10月、ゴールキーパーとしては初の、ゴールデンフットアワードを受賞[6]、1月には11度目のセリエA最優秀ゴールキーパー賞、またセリエAベストイレブンに選ばれた。[7]2017年3月19日のUCサンプドリア戦ではユベントスにおいて史上最多出場記録となる3万9706分を記録した[8]。チャンピオンズリーグ準決勝ASモナコとのファーストレグの試合でチャンピオンズリーグ100試合出場を達成[9]。またモナコの決定機を数回防ぎ、チャンピオンズリーグ史上初の6試合連続無失点試合を達成した[10]。 チームはセリエAとコッパ・イタリアと史上初の3年連続国内二冠を達成し、チャンピオンズリーグでもブッフォン自身3度目となる決勝へ進出した。しかしカーディフでのレアル・マドリードとの決勝ではクリスティアーノ・ロナウドに2ゴールを決められるなど4失点を喫し1-4で敗れ、またしても初のチャンピオンズリーグのタイトルを逃した。
2016年11月にはJリーグのサガン鳥栖が、退団予定のあった林彰洋の後釜を獲るべくオファーを送ったが、重要な戦力であるとしてユベントス側が放出を拒んだ[11]。
2017-18年チャンピオンズリーグ準々決勝第2戦では0-3とリード(トータルスコアでは3-3)の中、試合終盤にPKの判定を不服とし審判に猛抗議、退場処分となった。
2018年5月17日、会見を開きシーズン終了後にユヴェントスを退団すると発表した[12]。セリエAで前人未踏の7連覇を成し遂げ、最終節で退団のセレモニーが行われた。
パリ・サンジェルマン
2018年7月6日、パリ・サンジェルマンFCと1年契約を締結した[13]。ブッフォンにとっては初のイタリア外でのプレーとなる。契約には1年の契約延長オプションが含まれている。リーグアンの開幕戦カーン戦で先発出場、カーンを無失点に抑えパリサンジェルマンでデビューを果たした。
代表経歴
1997年10月29日にモスクワで行われた1998 FIFAワールドカップ欧州予選プレーオフ・ロシア戦の第1戦でデビュー(ジャンルカ・パリュウカの負傷による途中出場)[14]。ちなみに18歳11ヶ月での代表デビューはイタリア代表のGK史上2番目の若さである。
1998 FIFAワールドカップでは、20歳で最終メンバーに選出されるも出場機会はなく、チームは準々決勝でフランスに敗れた。
EURO2000では、大会直前に左手を故障し、メンバーに選出されなかった。
2002 FIFAワールドカップでは、正GKとしてプレーするも、ベスト16で韓国に敗退。4試合出場5失点。
EURO2004では、正GKとしてプレーし3試合2失点(うちPKで1失点)という結果だったものの、チームはグループリーグ敗退。
2006 FIFAワールドカップでは、自身のサッカー賭博疑惑による試合への影響が心配されたが、大会7試合を通じて2点しかゴールを許さず(1点はクリスティアン・ザッカルドのオウンゴール、1点はジネディーヌ・ジダンのPKからの失点であり、試合の流れの中でゴールを割られることはなかった。また、ファビオ・カンナバーロも活躍し、後にバロンドールを二人で争うこととなる)、さらに、W杯史上4番目の長さとなる460分連続無失点という記録を達成し、イタリアを優勝に導き、最優秀ゴールキーパーとしてレフ・ヤシン賞を受賞した。
EURO2008では、調子の上がらないチームの中、グループリーグ第2節のルーマニア戦でアドリアン・ムトゥのPKを止めるなど活躍を見せたが、チームは準々決勝でスペインにPK戦の末、敗れた。また、大会直前にファビオ・カンナバーロが負傷離脱したため、ルーマニア戦を除く3試合をキャプテンとして臨んだ。4試合出場4失点。
2009年11月14日に行われたオランダとの親善試合で、イタリア代表史上4人目(GKとしては2人目)となる100試合出場を達成。
2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第1節のパラグアイ戦で椎間板ヘルニアにより前半のみの出場で交代。その後の試合は欠場し、イタリアも1勝もできないままグループリーグ最下位で大会を終えた。1試合出場1失点。
2011年11月15日に行われたウルグアイとの親善試合で、ディノ・ゾフの持つイタリア代表GKの出場記録、112試合に肩を並べた。
EURO2012では、脱カテナチオを図った新生イタリア代表のキャプテンとしてゴールマウスを守り、決勝に進出。グループリーグ初戦で対戦したスペインと優勝を争うが、豊富な運動量が要求されるシステムに対し選手達の疲労はピークに達しており、チームは為す術もなく敗退。準優勝に終わった。自身は決勝こそ4ゴールを許したものの安定したセービングを披露。初戦のスペイン戦ではフェルナンド・トーレスのドリブル突破に対し自ら飛び出してボールを奪うなど足元の技術の高さも見せつけた。
2014 FIFAワールドカップでは、アントニオ・カルバハル、ローター・マテウスに次いで史上3人目となるワールドカップ5大会連続メンバー入りを果たした。コスタリカ戦とウルグアイ戦に出場し、いずれも1失点ずつ。
EURO2016が最後の国際大会になると述べたが[15]、代表でのプレーを2018 FIFAワールドカップまで延長する意向を示した[16]。EURO2016でもキャプテンとしてプレー、ドイツ戦ではマリオ・ゴメスとの1対1を止め、このプレーがUEFAセーブオブザシーズンにノミネートされた[17]。
2018 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではスエーデンにプレーオフで敗れて2017年11月13日に代表引退を表明した[18]、その後2018年3月のアルゼンチンとの親善試合ではディビアッジオ暫定監督の求めに応じ代表復帰した。
人物
- 父親のアドリアーノは砲丸投、母親のマリアは円盤投、2人の姉は共にバレーボールのオリンピック選手、そして1962年ワールドカップ・チリ大会のイタリア代表正GKロレンツォ・ブッフォンを親戚(祖父の従兄弟)に持つというスポーツ一家に生まれた。
- 幼少時は「よく点を決めていた」と本人が語るように、トスカーナ州選抜に選出されたり、1988-89シーズン、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで行われたインテル・ミラノ対エラス・ヴェローナFCの前座試合に出場するなどフォワードや右サイドアタッカー(少年時代の憧れの選手はローター・マテウス)として活躍。しかし、12歳のとき「とりあえず1年間だけGKをやってみよう」とGKに挑戦。その年に開催された1990 FIFAワールドカップのカメルーン代表GK、トーマス・ヌコノのプレーに感化されGKへ転向した。2007年12月、長男が誕生し憧れのプレーヤー「トーマス・ヌコノ」から名前を取って「ルイス・トーマス」と名づけている。
- 2011年にチェコ人モデルのアレナ・セレドヴァと結婚したが、自身の不倫が原因で2014年5月に離婚した[19]。
- チェコ代表のファン。
プレースタイル・評価
- FCポルトのイケル・カシージャスは「あまりにも多くの才能に恵まれ、冷静でチーム全体に良い影響を及ぼしている」と評価している[20]。
- 国際サッカー歴史統計連盟が発表した「21世紀のベストGK」では1位に選出された[21]。
背番号にまつわるエピソード
- 2000-2001年シーズン開幕前に背番号88で選手登録を行ったが、ユダヤ人の市民団体の猛反発に会い、結局背番号77に変更した。8はアルファベットで8番目=Hを指し、88=HH=Heil-Hitlerを表す記号としてネオナチなどが実際に使っている数字である。ブッフォンは前年にファシスト的スローガン「降伏する人々への死」と書かれたシャツを着て問題になるなど、ネオナチ主義者であると言う噂がイタリア国内では流れていたために問題化した。この件について、本人は「今年は怪我をする前の状態に戻らなければならないし、私の個性を見せる大切なシーズン。『誰でも玉が1つある』って決まり文句がある。8は玉が2つでできてる数字だ。88なら4つの玉を持てるじゃないか」と弁明している。
- 更に本人によると、最初は00や01の背番号を希望していたらしいが、協会から駄目出しを受けて88番を選んだとのこと。翌年のユヴェントス移籍時に背番号に希望があるか聞かれた際には「問題になるといけないので、クラブに任せる」と答えている。なお元々ユベントスはあまり大きい背番号を認めておらず、以前にジャンルカ・ビアリが背番号99の希望を出した時は却下されている。
個人成績
2017年 5月21日現在
クラブ | シーズン | 背番号 | セリエ | コッパ | UEFA | その他 | シーズン通算 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
パルマFC | 1995–96 | 12 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | – | 10 | 0 | |
1996–97 | 27 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 29 | 0 | ||
1997–98 | 1 | 32 | 0 | 6 | 0 | 8 | 0 | – | 46 | 0 | ||
1998–99 | 34 | 0 | 10 | 0 | 11 | 0 | – | 55 | 0 | |||
1999–00 | 32 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 1 | 0 | 42 | 0 | ||
2000–01 | 77 | 34 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | – | 43 | 0 | ||
通算 | 168 | 0 | 20 | 0 | 36 | 0 | 1 | 0 | 225 | 0 | ||
ユヴェントスFC | 2001–02 | 1 | 34 | 0 | 1 | 0 | 10 | 0 | – | 45 | 0 | |
2002–03 | 32 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 | 1 | 0 | 48 | 0 | ||
2003–04 | 32 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 39 | 0 | ||
2004–05 | 37 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | – | 48 | 0 | |||
2005–06 | 18 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 | ||
2006–07 | 37 | 0 | 3 | 0 | – | 40 | 0 | |||||
2007–08 | 34 | 0 | 1 | 0 | – | 35 | 0 | |||||
2008–09 | 23 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | – | 30 | 0 | |||
2009–10 | 27 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | – | 35 | 0 | |||
2010–11 | 16 | 0 | 1 | 0 | – | 17 | 0 | |||||
2011–12 | 35 | 0 | 0 | 0 | – | 35 | 0 | |||||
2012–13 | 32 | 0 | 1 | 0 | 10 | 0 | 1 | 0 | 44 | 0 | ||
2013–14 | 33 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | 1 | 0 | 48 | 0 | ||
2014–15 | 33 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 | 1 | 0 | 47 | 0 | ||
2015–16 | 34 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | 1 | 0 | 43 | 0 | ||
2016–17 | 30 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | 1 | 0 | 42 | 0 | ||
通算 | 488 | 0 | 12 | 0 | 114 | 0 | 7 | 0 | 621 | 0 | ||
総通算 | 656 | 0 | 26 | 0 | 150 | 0 | 9 | 0 | 841 | 0 |
代表歴
出場大会
- U-16イタリア代表
- 1993年 - UEFA U-16欧州選手権1993 (準優勝)
- U-21イタリア代表
- 1996年 - UEFA U-21欧州選手権1996 (優勝)
- U-23イタリア代表
- 1996年 - アトランタオリンピック (グループリーグ敗退)
- イタリア代表
- 1998年 - 1998 FIFAワールドカップ (ベスト8)
- 2002年 - 2002 FIFAワールドカップ (ベスト16)
- 2004年 - UEFA EURO 2004 (グループリーグ敗退)
- 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ (優勝)
- 2008年 - UEFA EURO 2008 (ベスト8)
- 2009年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2009 (グループリーグ敗退)
- 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2012年 - UEFA EURO 2012 (準優勝)
- 2013年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (3位)
- 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2016年 - UEFA EURO 2016 (ベスト8)
代表試合数
国際Aマッチ 175試合 0得点(1997年-2017年)
イタリア代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1997 | 1 | 0 |
1998 | 3 | 0 |
1999 | 8 | 0 |
2000 | 4 | 0 |
2001 | 7 | 0 |
2002 | 12 | 0 |
2003 | 7 | 0 |
2004 | 12 | 0 |
2005 | 3 | 0 |
2006 | 15 | 0 |
2007 | 8 | 0 |
2008 | 9 | 0 |
2009 | 11 | 0 |
2010 | 2 | 0 |
2011 | 10 | 0 |
2012 | 12 | 0 |
2013 | 16 | 0 |
2014 | 8 | 0 |
2015 | 8 | 0 |
2016 | 13 | 0 |
2017 | 8 | 0 |
通算 | 175 | 0 |
タイトル
クラブ
- コッパ・イタリア:1回 (1998-99)
- イタリア・スーパーカップ:1回 (1999)
- UEFAカップ:1回 (1998-99)
- セリエA:9回 (2001-02, 2002-03, 2011-12, 2012-13, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-2017, 2017-2018)
- セリエB:1回 (2006-07)
- コッパ・イタリア:4回 (2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18)
- イタリア・スーパーカップ:5回 (2002, 2003, 2012, 2013, 2015)
- トロフェ・デ・シャンピオン:1回 (2018)
代表
- FIFAワールドカップ:1回 (2006)
- U-21欧州選手権:1回 (1996)
個人
- レフ・ヤシン賞:1回 (2006)
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀選手賞:1回 (2002-03)
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:4回(2003, 2004, 2006, 2016、2017)
- FIFA最優秀選手賞GK部門:3回 (2004, 2005, 2006)
- UEFA年間最優秀選手GK部門:2回 (2002-03, 2016-17)
- セリエA最優秀GK:6回 (1998-99, 2000-01, 2001-02, 2002-03, 2004-05, 2005-06)
- ESMチーム・オブ・ザ・イヤー:2回 (2002-03, 2016-17)
- FIFproワールドイレブン:3回 (2006, 2007, 2017)
- セリエAベストイレブン 2011/12、2013/14、2014/15、2015/16
- IFFHS選定年間最優秀GK:5回 (2003, 2004, 2006, 2007, 2017)
- ブラヴォー賞:1回 (1999)
- FIFA 100:1回 (2004)
- UEFAチャンピオンズリーグベストチーム:1回 (2014-15[22])
脚注
出典
- ↑ 日刊スポーツや読売新聞提供のYOMIURI ON-LINEなど
- ↑ “goal.jp”. goal.com (2012年5月6日). . 2012-5-29閲覧.
- ↑ IFFHS国際サッカー歴史統計連盟
- ↑ “Buffon eyes all-time record”. Football Italia (2016年3月11日). . 11 March 2016閲覧.
- ↑ “Juve, Buffon: nuovo record di imbattibilità a 973 minuti! Seba Rossi battuto” [Juve, Buffon: new unbeaten record of 973 minutes! Seba Rossi beaten] (Italian). La Gazzetta dello sport (2016年3月20日). . 20 March 2016閲覧.
- ↑ “Buffon wins the Golden Foot award, the fourth Italian to do so” (2016年10月11日). . 11 October 2016閲覧.
- ↑ “Juventus, Buffon: «Inter la più in forma, match non decisivo» Juventus, Buffon: «Inter la più in forma, match non decisivo»” (Italian). Il Corriere dello Sport (2017年1月30日). . 31 January 2017閲覧.
- ↑ “After 39,681 Serie A minutes, Buffon smashes yet another Juventus record”. fourfourtwo.com (2017年3月19日). . 19 March 2017閲覧.
- ↑ マルディーニに次いで史上2番目
- ↑ “Juventus closed in on a second Champions League final in three seasons as Gonzalo Higuain struck twice to beat Monaco in the semi-final first leg.”. BBC Sport (2017年5月3日). . 5 May 2017閲覧.
- ↑ 鳥栖 ブッフォン獲り!もユーベから「不可欠な戦力」と断られるスポニチ 2016年11月26日
- ↑ ブッフォン、17年過ごしたユヴェントス退団を発表…現役続行かどうかは来週決断へGoal.com 2018年5月17日
- ↑ Gianluigi Buffon s'engage avec le Paris Saint-GermainSite officiel du club PSG 2018年7月7日
- ↑ “Gianluigi Buffon - International Appearances”. rsssf.com. . 2016閲覧.
- ↑ “Buffon: Zen and the art of footballing longevity”. UEFA.com (2016年5月29日). . 1 June 2016閲覧.
- ↑ “Buffon: ‘Retirement in 2018’”. Football Italia (2016年1月25日). . 25 January 2016閲覧.
- ↑ “Neuer, Buffon, Lloris? What was your save of the season?”. UEFA.com (2016年7月25日). . 26 July 2016閲覧.
- ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。 「caps
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ “不倫疑惑のブッフォンが離婚を発表、代表監督は静観”. AFPBBニュース (2014年5月21日). . 2014閲覧.
- ↑ 現在の世界最高GKは一番影響されたGKベスト10を選ぶhttp://www.realmadrid.jp/news/2010/02/news_60.html
- ↑ ““21世紀最高のGK”ランキング、国際サッカー歴史統計連盟が発表。”. Narinari.com (2012年2月19日). . 2015-5-30閲覧.
- ↑ “UEFA Champions League squad of the season”. UEFA.com. Union of European Football Associations (2015年6月9日). . 9 June 2015閲覧.
関連項目
外部リンク
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- イタリアのサッカー選手
- サッカーイタリア代表選手
- SSDパルマ・カルチョ1913の選手
- ユヴェントスFCの選手
- パリ・サンジェルマンFCの選手
- FIFAワールドカップイタリア代表選手
- 1998 FIFAワールドカップ出場選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- 2006 FIFAワールドカップ出場選手
- 2010 FIFAワールドカップ出場選手
- 2014 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAワールドカップ優勝選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2009出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2013出場選手
- UEFA EURO 2004出場選手
- UEFA EURO 2008出場選手
- UEFA EURO 2012出場選手
- UEFA EURO 2016出場選手
- オリンピックサッカーイタリア代表選手
- FIFA100
- FIFAセンチュリークラブ
- トスカーナ州出身の人物
- 1978年生
- 存命人物