ジョセフ・グルー

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ジョセフ・クラーク・グルー
生誕 (1880-05-27) 1880年5月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 (1965-05-25) 1965年5月25日(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 駐日アメリカ合衆国大使
国務長官代理

ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)

アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使。日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年6月)。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した[1]他方、グルーの日本理解には限界があった[2]、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方もある[3]

脚注

  1. 吉田茂『回想十年』第1巻、57頁。太田尚樹は「日本人の美点と欠点をこれほど見事に見抜いていた米国大使はいなかったのではないか。(中略)日本人のアイデンティティに温かい視線でみつめてくれたグルーには感謝あるのみ」と記している(「あとがき」)。
  2. 麻田貞雄は、「グルーは日本の政治状況を「穏健派」対「軍部過激派」という二元的な枠組みのなかでとらえ、日本の政策を “時計の振り子”のように両派の間を定期的に揺れ動くものとしたため、しばしば判断をあやまることになった」と記している。(「解題」、12頁)。
  3. ハインリックスは、「誠意にもとづく折衝によって対立を和解に導くこと―これがグルーの外交観であった。ただひとつ例外は、共産主義諸国と外国を結ぶことに彼はなんら価値を認めなかった。共産主義は外交を不可能にしたというのがロシア革命のときから引退の日まで、グルーが堅持した見解であった」と書いている(351-2頁)。
公職
先代:
スタンリー・クール・ホーンベック
アメリカ合衆国国務省極東局長
1944年5月 - 12月
次代:
ジョセフ・ウィリアム・バランタイン
先代:
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国国務次官
1944年12月20日 - 1945年8月15日
次代:
ディーン・アチソン


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