スペイン内乱

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スペインないらん Spanish Civil War

1936~39年スペイン人民戦線政府に対し,国内では保守派,国外からはイタリアのファシストとナチス・ドイツが支援した武装反乱。

36年2月 16日の総選挙で勝利を収めた人民戦線派は,左翼共和党,共和同盟の連立内閣を組閣,政教分離,農地改革などの政綱を掲げ,ファシスト勢力の指導層を投獄,左遷した。しかし F.フランコを旗頭とする軍部,王党派,右翼諸党は,7月 17日にまずスペイン領モロッコで軍の反乱を起し,それが本土の軍隊の決起を促した。人民戦線政府側は労働者,農民の支持を得,フランコ側は地主,資本家,教会の支援を受けていた。

ドイツ,イタリア,ポルトガルはフランコ側を助けて多量の兵器,弾薬,有力な義勇軍を送り,ソ連は人民戦線政府を支持して,武器,弾薬を送り,軍事代表団を派遣して全面的に支援した。フランコ側は当初共和政を支持する民衆の抵抗にあい苦戦を強いられたが,ドイツ,イタリアの援助を受けて8月以後盛返し,9月末には本土の約3分の2を手中に収め,10月フランコは自ら国民政府の統領 (カウディリョ) と宣言した。交戦者双方を支援するドイツ,イタリア,ソ連などは,自国の最新兵器を送り,斬新な戦法を試みたので,スペイン内乱はあたかも国際的な新兵器試験場の観を呈し両陣営に凄惨な残虐行為が発生した。スペイン正規軍の大部分がフランコ側に属したため,またソ連の援助兵器の質の悪さ,人民戦線側の兵器購入力の不足,イギリス,フランスの不干渉政策などのため,人民戦線政府側の善戦にもかかわらず,39年1月 26日バルセロナが陥落。3月 23日には共和国政府軍が維持していたマドリードでフランコ軍との和平を求めるクーデターが起り,同月 28日フランコ軍はマドリードに入城した。かくてスペイン内乱はファシスト勢力側の勝利に終った。