タンパベイ・レイズ

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テンプレート:MLBのチーム タンパベイ・レイズ英語: Tampa Bay Rays、略称: TB)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はフロリダ州セントピーターズバーグにあるトロピカーナ・フィールド

概要

球団創設は1998年。アリゾナ・ダイヤモンドバックスと共に、球団拡張(エクスパンション)の一環として「タンパベイ・デビルレイズTampa Bay Devil Rays)」として誕生した。この「デビルレイズ」という愛称は、フロリダ湾に多く棲息するイトマキエイに由来する。2008年に愛称から「Devil」の文字を取り、「タンパベイ・レイズ」と改称された。球団シンボルは、同じく「Ray」だが、これまで同様エイとともに光線も意味するものに変わった。

デビルレイズ時代の10年間の通算成績は645勝972敗(勝率.399)で、2004年の地区4位以外は球団創設以来全てのシーズンで地区最下位だった。勝ち越したシーズンすら一度もなく、シーズン70勝に達したのも2004年のみだった(同時期に創設されたアリゾナ・ダイヤモンドバックスは創設翌年に地区優勝を果たし、2001年にはワールドチャンピオンにも輝いている)。

2008年、球団創設11年目で初の地区優勝とリーグ優勝を達成、在籍していた岩村明憲も優勝に大きく貢献した。ワールドシリーズに進出しアメリカ全土に「レイズ旋風」を巻き起こす大躍進を遂げた。

観客動員数はデビルレイズ時代の長期にわたる低迷により、2000年以降の観客動員総数、1試合平均観客数はともにアメリカンリーグの中でワーストを継続するなど、伸び悩んだ[1](これは本拠地近くのタンパニューヨーク・ヤンキースが2月からスプリングトレーニングを行っているため、ヤンキースファンが多いことも影響しているといわれる)。しかしリーグ優勝を果たした2008年には観客動員数を大幅に伸ばしている(前年の140万人弱から180万人)。

デビルレイズ時代は「万年最下位」が幸いしてか、完全ウェーバー制をとるドラフト会議では毎年のように将来有望な若手選手を優先的に獲得することが出来た。そのため、カール・クロフォード(2011年からボストン・レッドソックス)、ロッコ・バルデッリ(2009年からボストン・レッドソックス)、B・J・アップトン(2013年からアトランタ・ブレーブス)、デルモン・ヤング(2008年からミネソタ・ツインズ)、エバン・ロンゴリアデビッド・プライスといった有望選手を次々と上位指名し、いずれもチームの中軸として成長している。また他にもドラフト上位選手ながら、他球団では芽が出ず、出場機会を求めてレイズに移籍する選手も多い。反面、目先の選手補強にこだわり、将来有望な若手選手を他球団に放出、中堅クラスの選手やピークを過ぎたベテラン選手を獲得するケースも少なくなかった。

2004年には2000年のニューヨーク・メッツシカゴ・カブス戦以来、2度目となる日本での開幕戦を行っている。対戦相手はニューヨーク・ヤンキースで、松井秀喜の日本凱旋試合となった。試合は東京ドームで行われ、開幕試合は8対3で勝利。2試合目は1対12の敗戦であった。

日本人選手では、過去に野茂英雄森慎二岩村明憲松井秀喜が在籍していた。野茂は2005年にプレーし、同年6月15日には日米通算200勝を成し遂げるが、19試合に登板し、5勝8敗・防御率7.24と低迷したため、シーズン途中に戦力外通告を受け、後に解雇された。森は2005年オフに2年契約を結んだが、右肩の故障でメジャーデビューは叶わず、2006年オフに解雇された。岩村は2007年に加入。主に1番打者として2008年のワールドシリーズ進出に貢献した。松井は2012年のシーズン途中にマイナー契約を結び、メジャー昇格はしたものの、3ヶ月で戦力外となった。

球団の歴史

球団創設前

フロリダ州西海岸のセントピーターズバーグタンパは、1年を通じて穏やかで温暖な気候なため、古くからメジャーチームのキャンプ地として知られた。まず、1913年にシカゴ・カブスがタンパにキャンプ地を移したといわれ、1922年にはボストン・ブレーブスもセントピーターズバーグでキャンプを行うようになった。以来、多くの球団が両都市をキャンプ地として選び、地元に多くの野球ファンを生み出すこととなる。2008年現在、メジャーのキャンプ地があるのはフロリダ州とアリゾナ州のみであり、フロリダ州には17球団がキャンプ地を構え、グレープフルーツリーグと呼ばれるオープン戦が行われている。

その後、地元にはフロリダ・ステートリーグと呼ばれるマイナーリーグも存在したが、1980年代に入ると、メジャーチームを誘致しようとする動きが活発となる。1990年にはドーム球場であるフロリダ・サンコースト・ドーム(現在のトロピカーナ・フィールド)が開場。この頃には、1993年からの球団拡張が決定し、地元にメジャーチームが誕生することが期待された。しかし結局は、デンバーコロラド・ロッキーズ)とマイアミフロリダ・マーリンズ)にフランチャイズ権が与えられた。1992年には、サンフランシスコ・ジャイアンツのオーナーだったボブ・ルーリが、マイク・ピアザの父親であるビンス・ピアザらが代表を務めていたフロリダに拠点を構えていた投資家グループに球団を売却し、地元セントピーターズバーグに本拠地を移す計画を立てる。しかし、この計画もMLB機構やサンフランシスコ住民の反対によって実施されなかった。

1995年に、再び球団拡張が決定。フランチャイズ権がフェニックスアリゾナ・ダイヤモンドバックス)と共にセントピーターズバーグにも与えられ、メジャーチームが誕生することとなった。これによって新球団の設営が急がれることとなり、チャック・ラマーが球団社長兼GMに就任。球団名は「タンパベイ・デビルレイズ」に決定した。これに伴いフロリダ・サンコースト・ドームも野球専用球場に改修され、それまで同球場を本拠地としていたNHLタンパベイ・ライトニングAFLタンパベイ・ストームもそれぞれ本拠地を移した。1997年には球場名もネーミングライツを獲得したトロピカーナ社によってトロピカーナ・フィールドに変更。同年には名投手コーチとして知られているラリー・ロスチャイルドが初代監督に任命され、同年のエクスパンション・ドラフトによって35人の選手を獲得した。

長期低迷のデビルレイズ時代

1998年3月31日、本拠地トロピカーナフィールドにおいて、対戦相手にデトロイト・タイガースを迎え、チーム初試合を行った。開幕投手は左腕ウィルソン・アルバレスが務め、ウェイド・ボッグスがチーム初本塁打を放つなどの活躍をみせたが、試合は6対11で敗れた。この時のデトロイト・タイガースは同じく左腕のジャスティン・トンプソンだった。しかし、翌日の試合で初勝利をあげると、そのまま白星を重ね、19試合を終えた時点で11勝8敗のスタートを切った。しかし、地力の差が出始めたのか、シーズン中盤になると負けが込むようになり、6月30日からは泥沼の11連敗。その後は最下位でシーズンを過ごし、最終的に首位ニューヨーク・ヤンキースと51ゲーム差の63勝99敗でシーズンを終えた。そしてこれ以降、2003年まで6年連続で最下位のシーズンが続くこととなる。

翌1999年にはホセ・カンセコが加入し、34本塁打・95打点を記録。また、シーズン途中の8月7日には、本拠地トロピカーナ・フィールドで、ボッグスが通算3000本安打を本塁打で記録した。ボッグスは同年限りで引退を表明し、2005年には野球殿堂入り、引退の翌年には背番号である「12」がチームの永久欠番に指定された。またこの年、35歳の高齢でメジャーの入団テストを受け、2年間デビルレイズに所属したジム・モリスの活躍は、後年「オールド・ルーキー」(The Oldest Rookie)というタイトルで映画化されている。

2000年には打線の迫力不足を解消するために、ビニー・カスティーヤグレッグ・ボーンを獲得。これで、カンセコ、カスティーヤ、ボーン、フレッド・マグリフというシーズン35本塁打以上を記録したことのある選手4人が揃ったことから、強力打線を売りにして最下位からの脱却を図った。しかし、マグリフが及第点の成績を残した以外はいずれの選手も故障や不振などで期待を大きく裏切り、チームは69勝92敗で3年連続の最下位に終わった。

2001年は開幕から4勝10敗という成績不振により、4月18日に球団はロスチャイルド監督を解任。後任にはベンチコーチだったハル・マクレーがそのまま監督に就任した。この頃にはランディ・ウィンオーブリー・ハフといった若手選手が台頭し始め、2002年には弱冠20歳のカール・クロフォードがメジャーデビューを果たした。しかし、チームの勝利にはつながらず、2001年は62勝100敗を記録。翌2002年には球団史上ワースト記録となる14連敗を喫するなど、球団史上ワーストとなる55勝106敗を記録し、マクレー監督もこの年限りで解任された。

2003年には前年までシアトル・マリナーズを率いていたルー・ピネラが監督に就任。この年も最下位だったが、同年にはロッコ・バルデッリがメジャーデビューし、新人王投票で3位にはいる活躍をみせた。また、クロフォードが55盗塁を記録し、球団初の個人タイトルとなる盗塁王を獲得している。

2004年は70勝91敗ながら球団新記録となる12連勝などもあり、地区4位でシーズンを終え、球団史上初めて最下位を脱出した。同年にはB・J・アップトンが19歳という球団史上最年少でメジャーデビューを果たしている。同年オフには開幕投手を務めたビクター・ザンブラーノニューヨーク・メッツスコット・カズミアーをトレード。カズミアーは翌2005年にメジャーデビューを果たし、10勝9敗・防御率3.77・174奪三振とエース級の働きをみせた。また、この年には野茂英雄も在籍し、日米通算200勝を達成している。しかしチームとしては67勝95敗で再び最下位に沈み、ピネラ監督も4年契約の1年を残したまま辞任した。

2006年には、経営陣・GM・首脳陣の大幅な入れ替えを断行。GM兼副社長には、元エリートの銀行マンで28歳のアンドリュー・フリードマン、監督にはかつてロサンゼルス・エンゼルスでベンチコーチを務め、マイク・ソーシア監督の参謀役として2002年のワールドチャンピオンに貢献したジョー・マドンが就任した。しかし、球団創設以来の弱点である投手陣の弱さは致命的で、開幕から最下位が続き、61勝101敗と4年ぶりの100敗シーズンとなってしまった。この年はホームでは41勝40敗と勝ち越したが、アウェイでは20勝61敗と大きく負け越した(アウェイの成績は1961年以降ではMLBワーストの成績だったが、2010年のピッツバーグ・パイレーツが更新した)。

2007年には、ポスティングで東京ヤクルトスワローズから岩村明憲が加入し、ボストン・レッドソックスから加入したカルロス・ペーニャが46本塁打・121打点と大爆発し、本塁打・打点・四球・出塁率・長打率の球団記録を塗り替えた。他にもクロフォードがMLB史上7人目となる5年連続での打率上昇(250打席以上)を記録。チームとしては5月初めまでは地区2位に食い込む健闘を見せたが、7月に大きく負け越し、最終的に66勝96敗で最下位に終わった。原因はやはり投手陣で、防御率・失点などの数字で軒並みリーグワーストを記録。特に先発以降は壊滅状態で、リリーフ陣の防御率6.16という成績は、過去50年間でMLBワーストであった。しかし、カズミアーが3年連続二桁勝利となる13勝と239奪三振で最多奪三振を獲得、ジェームズ・シールズがメジャー2年目にして12勝を挙げるなど若手先発投手が成長したシーズンでもあった。

レイズ旋風

2007年11月に球団名を「タンパベイ・レイズ」に変更するとの発表がなされた。これに伴い球団イメージも、これまでのエイ(Devil ray)から、光線(Ray)に変更され、ユニフォームやロゴも一新、チームカラーはこれまでの緑と白からネイビーと薄い青色に変更された。「Ray」は地元フロリダ湾に多数生息するエイの意味も併せ持つため、ユニフォームの左袖にはこれまで通りエイの図柄が残っている。なお、前チームカラーの緑は地元名産のグレープフルーツの葉の緑を表していた。これはトロピカーナフィールドのネーミングライツを持つ、トロピカーナ社を意識したものと言われる。

新しいチーム名を発表したスチュアート・スターンバーグオーナーは「(名称やチームカラーなどの変更は)新たなレベルと成功を目指すチームを後押しするはずだ」と述べ、新ユニフォームを披露したカール・クロフォードは「ここからスタートを切るような、初めて学校に行くときのような、すがすがしい気分だ。『気持ちがプレーに出る』と言うから、いいプレーができればいいんだが」と低迷を続けるチームからの脱却を誓っている[2]。しかし、この新作ユニフォームに対する周囲からの評判は、今一つである[3]。また、2012年開場を目指し新本拠地の建設計画も発表されている(en:Rays Ballpark)。

しかし、チームは球団名から「デビル(悪魔)」を取った途端に別人のような姿を見せた。その要因として、前年軒並みにワースト記録を更新していた投手陣がこの1年で完全に好転(前年のチーム防御率5.53→3.82)。特に先発陣はエース格のスコット・カズミアージェームズ・シールズだけでなく、前年デビューのアンディ・ソナンスタイン、長年期待されながら殻を破れなかったエドウィン・ジャクソン、新加入のマット・ガーザが揃ってブレークし、先発陣5人全員が10勝以上を成し遂げる好成績を残した。

それだけでなくJ.P.ハウエルグラント・バルフォアダン・ウィーラーなどのリリーフ陣も成績が大きく向上した結果、従来からは考えられないほど接戦に強くなり、1点差や2点差で勝利をものにする試合が格段に増えた。

野手陣は岩村明憲ジェイソン・バートレットの新二遊間コンビに象徴される強固な守備力で投手を助けた。打撃面では前年の打撃力の中心を担ったアプトンやペーニャが前年程の結果を残せず、後半戦にクロフォードの戦線離脱で低調になったが、リードオフマン岩村の安定した活躍や、彼の代わりに三塁に入った新人エバン・ロンゴリアが本塁打を量産し新人王を獲得した。

他はウィリー・アイバーゲーブ・グロスエリック・ヒンスキーなど、レギュラー・準レギュラーの垣根を越えた選手達の活躍で乗り切った。そのため、レイズは非常に選手の日替わり起用が多く、ペーニャもそのことについて語っている[4]。また、8月にロンゴリアは骨折で約2ヶ月間という長期離脱を強いられるも、ペーニャが復調し、前年通り主砲の役目を果たしたため、痛手は最小限となった。

投手陣と堅実な守備になった野手陣の「守りの野球」で開幕から好調を保ち、近年毎度のようにニューヨーク・ヤンキースボストン・レッドソックスが優勝争いをしていた、MLBで最もハイレベルな地区と言われるア・リーグ東地区で前年覇者のレッドソックスと首位争いを展開。春先は前年までのこともあって「春の珍事」・「勢いだけ」・「いつか落ちるだろう」などとレイズの突然の快進撃について周囲からは冷ややかな反応が多かったが、その後もそういった声をあざ笑うかのように着実にレイズは白星を積み重ねていった。7月の球宴直前に今季ワーストとなる7連敗を喫して一度首位から陥落すると、「レイズもここまでか」と思われたが、球宴明けからの後半戦に入ると再び勢いを取り戻し首位を奪還。一時は2位レッドソックスに最大で5.5ゲーム差をつけるなど、着実に首位を快走していた。

しかし、9月に入って初優勝への重圧がかかり始めたのか、負けが込み始めた。そこへ前年覇者のレッドソックスが9月中旬には0.5ゲーム差、下旬にはゲーム差なしまで肉薄してきたが、直接対決ではいずれも2勝1敗と勝ち越して首位陥落を阻止し続けた。

9月20日に球団創設11年目で初となるプレーオフ出場の切符を手にすると、地区優勝までM1で迎えた9月26日、試合はデトロイト・タイガースに敗れたものの、2位のレッドソックスがヤンキースに敗れたため、遂に球団創設11年目で初の地区優勝を飾った。最終的に、これまでのチーム最多勝である2004年の70勝から27勝も多い97勝65敗 勝率.599でシーズンを終え、球団新記録を樹立した。

ディビジョンシリーズではシカゴ・ホワイトソックスと対戦。投手を中心とした守りの野球をシーズン通り忠実に行い、3勝1敗で突破。

リーグチャンピオンシップシリーズでは同地区で優勝争いを展開したレッドソックスと対戦。アプトンとロンゴリアが本塁打を量産するなど打線が爆発し、4戦で3勝1敗と善戦していた。しかし、勝てば初のワールドシリーズ進出となった第5戦、7回2死まで7点をリードしながらその後に一気に8点を失い、悪夢の逆転サヨナラ負けを喫した。続く6戦もホームに戻ったものの、敗れて逆王手と追い詰められる。しかし、第7戦では3-1でレッドソックスを振り切り、球団創設初の地区優勝に加え、アメリカンリーグ優勝を成し遂げた。最高殊勲選手賞にはシリーズ2勝のマット・ガーザが選ばれた。

球団創設11年目にして初のワールドシリーズは15年ぶりにナ・リーグを制したフィラデルフィア・フィリーズと対戦することになった。ホームでの第1戦を落としたものの、第2戦を勝利し、1勝1敗とタイにして敵地シチズンズ・バンク・パークに乗り込んだ。しかし、敵地での初戦となった第3戦にサヨナラ負けを喫し、第4戦、天候不良の影響もあってワールドシリーズ史上初となるサスペンデッドゲームとなった第5戦も敗れ、敵地では3連敗を喫してしまい、結果1勝4敗で敗れた。

2009年は主力の不調で3位に終わるも2010年はオーナーが年俸増額を承認し、2008年のリーグ制覇のメンバーがいる最後のシーズンということもあり、多くの主力をトレードまたはFAで格安補強に成功。トレードで獲得したラファエル・ソリアーノが球団史上初の最多セーブを獲得。そこから一気に2位に落ちることなく2年ぶりの地区優勝を飾った。しかし、ディビジョンシリーズテキサス・レンジャーズと対戦。お互い譲らないまま最終5戦目までもつれ込むもクリフ・リーらを擁する強力投手陣にホームで痛恨の全敗に終わり、リーグ優勝を逃した。

2011年は主力を放出し我慢のシーズンになり、一部メディアでは最下位に終わる予想もあったが、若くフレッシュな投手陣が大健闘し、終盤にレッドソックスが一気に失速し、逆転でワイルドカードを獲得し、プレーオフ進出。しかし、ディビジョンシリーズでは前年と同じレンジャーズと対戦するも今度は逆に粘れず前年の返り討ちを喰らいシーズンを終えた。しかし、この年はドラフトで主力放出の保証で得た1巡目指名権を使い、12人指名し全員が入団した。

2012年は地区3位に終わる。フェルナンド・ロドニーが76試合・48セーブ(球団記録)・防御率0.60という驚異的な成績を残した。オフには生え抜きエースジェームズ・シールズをトレードで放出した。

2013年ワンゲームプレーオフワイルドカードゲームを制して2年ぶりにポストシーズンへ進んだ。ディビジョンシリーズでは2008年のALCSで対戦したレッドソックスと対戦したが、1勝3敗でALCS進出を逃した。

2014年は3年目のクリス・アーチャーエースとしてブレイクした。

2015年は3年目の中堅手ケビン・キアマイアー守備防御点 +42という、全ポジションで歴代最高となる守備力でブレイク。5年目のブラッド・ボックスバーガー最多セーブとなる41セーブを記録。

2016年開幕前の3月22日にキューバ共和国ハバナ野球キューバ代表と親善試合を行った。夏のトレード期限までに生え抜きのマット・ムーアブランドン・ガイヤーをトレードで放出した。5年目のアレックス・コロメが37セーブ・防御率1.91でブレイク。

2017年の夏のトレード期限までにドラフト全体1位指名で伸び悩んだティム・ベッカムを放出した。9月24日にルーカス・ドゥーダが本塁打を記録し、これが球団シーズン217号本塁打となり、球団新記録となった[5]アレックス・コロメ最多セーブとなる47セーブを記録。オフには、生え抜きで10年間プレーし、通算打撃部門で多数の球団記録を持つエバン・ロンゴリアをトレードで放出した。

2018年2月9日、本拠地球場をトロピカーナ・フィールドからタンパに移転する計画をスチュアート・スターンバーグオーナーが明らかにした。時期は未定だが、タンパの東部地区が候補で、建設費は7億ドル(約760億円)以上が見込まれるという。

選手名鑑

現役選手・監督・コーチ

テンプレート:Tampa Bay Rays roster

殿堂入り選手

永久欠番

傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ 提携 本拠地
AAA ダーラム・ブルズ
Durham Bulls
インターナショナルリーグ
International League
1998年 アメリカ合衆国の旗ノースカロライナ州ダーラム
ダーラム・ブルズ・アスレチック・パーク
AA モンゴメリー・ビスケッツ
Montgomery Biscuits
サザンリーグ
Southern League
1999年 アメリカ合衆国の旗アラバマ州モンゴメリー
モンゴメリー・リバーウォーク・スタジアム
A+ シャーロット・ストーンクラブズ
Charlotte Stone Crabs
フロリダ・ステートリーグ
Florida State League
2007年 アメリカ合衆国の旗フロリダ州ポートシャーロット
シャーロット・スポーツ・パーク
A ボーリンググリーン・ホットロッズ
Bowling Green Hot Rods
サウス・アトランティックリーグ
South Atlantic League
2007年 アメリカ合衆国の旗ケンタッキー州ボーリンググリーン
ボーリンググリーン・ボールパーク
A- ハドソンバレー・レネゲーズ
Hudson Valley Renegades
ニューヨーク・ペンリーグ
New York-Penn League
1996年 アメリカ合衆国の旗ニューヨーク州フィッシュキル
ダッチェス・スタジアム
Rookie+ プリンストン・レイズ
Princeton Rays
アパラチアンリーグ
Appalachian League
1997年 アメリカ合衆国の旗ウエストバージニア州プリンストン
H・P・ハニカット・フィールド
Rookie ガルフ・コーストリーグ・レイズ
Gulf Coast League Rays
ガルフ・コーストリーグ
Gulf Coast League
1991年 アメリカ合衆国の旗フロリダ州ポートシャーロット
シャーロット・スポーツ・パーク
ドミニカン・サマーリーグ・レイズ
Dominican Summer League Rays
ドミニカン・サマーリーグ
Dominican Summer League
2007年 ドミニカ共和国の旗ドミニカ共和国
レイズ・コンプレックス
ベネズエラン・サマーリーグ・レイズ
Venezuelan Summer League Rays
ベネズエラン・サマーリーグ
Venezuelan Summer League
1998年 ベネズエラの旗ベネズエラ

応援スタイル

地元トロピカーナ・フィールドでは、カウベルを鳴らしてレイズを応援することが恒例となっている。日本では鳴り物で応援することが多いが、MLBでは基本的に鳴り物での応援は行わないため、珍しいことである。カウベルによる応援はオーナーのスターンバーグが、TV番組「サタデー・ナイト・ライブ」から得たアイデアで、球場でもカウベルを販売しており、ほとんどの地元ファンがカウベルを持って試合観戦を行っている。レイズのチャンス等ではファンがカウベルを鳴らし、ドーム球場ということもあってカウベルの音が球場中に響き渡り、独特の雰囲気を醸し出している。

また、2008年シーズンには選手やファンの間でモヒカンスタイルが流行している。発端となったのは岩村明憲といわれ、好調を維持していたソフトモヒカンの岩村をあやかって他の選手が真似をし、真似した選手も調子を上げたことから、半数以上の選手がモヒカンとなった。果てはマドン監督までもモヒカンにし、ファンの間にもモヒカンスタイルが浸透、チームの快進撃とともに選手やファン、老若男女問わずモヒカンにする人が相次いだ[6]

脚注

関連項目

外部リンク

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