ニューヨーク・メッツ

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テンプレート:MLBのチーム ニューヨーク・メッツ英語: New York Mets、略称:NYM)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はニューヨーク州ニューヨーククイーンズにあるシティ・フィールド

概要

1962年ナショナルリーグの球団拡張で誕生した球団で、ニューヨーク・ヤンキースと同じくニューヨークに本拠地を置いている。ちなみに「メッツ」とは1880年代に存在したニューヨーク・メトロポリタンズ(メトロポリタンとは都会人の意)というチームの愛称を元にしている。

ヤンキースとの対戦はサブウェイ・シリーズと呼ばれ、MLBで最も熱いカードの一つである。サブウェイとは地下鉄のことで、両チームの本拠地であるシティ・フィールドヤンキー・スタジアムが地下鉄で結ばれていることに由来する。

しかし、常勝軍団といわれるヤンキースに比べ戦力、知名度共に劣っており、1969年1986年と2度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた時期を除いて、下位に沈むことが多い。近年は積極的な大型補強を行っており、2006年に18年ぶりの地区優勝、2015年には15年ぶりのリーグ優勝を成し遂げるなど長年続いた低迷期から脱しつつある。 日本では知名度及びマスコミの報道頻度でヤンキースに比べやや地味な印象が否めないが、本拠地ニューヨークではヤンキースに負けず劣らずの人気を誇っている。

これまでに1997年から柏田貴史吉井理人野茂英雄新庄剛志松井稼頭央高橋建石井一久高橋尚成高津臣吾五十嵐亮太松坂大輔といった日本人選手が所属。また柏田と契約した97年にはプロ選手経験皆無の立花龍司もトレーニングコーチとして採用し史上初のMLB球団日本人コーチとなった(これまで最も多くの日本人選手在籍のMLB球団)。また韓国人選手でメッツ在籍と前後してオリックス野球クラブにも在籍した具臺晟朴賛浩も在籍。かつては前ロッテ監督のボビー・バレンタイン、元オリックス監督のテリー・コリンズが指揮を執った。1974年日米野球では全米やMLB代表し単一チームで来日し2000年には東京ドーム開幕戦・アジア及び日本初のMLB公式戦を行ったことでも知られ(対戦相手はシカゴ・カブス)、日本でもなじみ深いチームである。2001年も合衆国の自治領プエルトリコで開幕戦を開催した(メジャーリーグベースボールの海外公式戦一覧)。


現在は中心選手の多くをプエルトリコベネズエラドミニカ共和国といった中南米出身の選手が占めている。

球団の歴史

球団発足

1962年ナショナルリーグ球団拡張を期に誕生。球団名は都会っ子を意味するMetropolitansからとられた。 チームカラーのうち、黒とオレンジはジャイアンツ、青はドジャース(いずれも1957年までニューヨークに本拠地を置いていた)のチームカラーから取ったもので、帽子のNYマークもジャイアンツが使っていたものが取り入れられた。本拠地にはかつてのジャイアンツの本拠地だったポロ・グラウンドを利用していた。初代監督には1949年1960年にヤンキースの監督を務め、12年間で10回のリーグ優勝と7回のワールドシリーズ優勝を成し遂げた当時72歳のケーシー・ステンゲルが就任した。

お荷物球団 - ミラクルメッツ

当時も拡張ドラフトは行われていたが、近年のそれに比べて新規参入球団には不利なため選手層は薄く発足1年目は40勝120敗、20世紀以降のMLBではワースト3位である勝率.250で終えた。観客動員も振るわず、ポロ・グラウンドが満員になったのはかつてニューヨークを本拠地としていたドジャースやジャイアンツを迎えた試合のみであった。その後も成績は芳しくなく、ステンゲルが監督を務めた4年間は、いずれも100敗以上を喫し、最下位に終わった。ステンゲル監督は「皆さん、ぜひメッツの試合に来てください。素人顔負けのプレーが見られますよ!」と呼びかけ、球団幹部から「名セールスマン」と褒め称えられた[1]。1964年に本拠地をシェイ・スタジアムに移した。お荷物球団として扱われていたものの、1967年トム・シーバーがメジャーデビューを果たし、新人王を受賞。1968年にはかつてのドジャースの強打の一塁手、ギル・ホッジスを監督に迎え、新人のジェリー・クーズマンが19勝を挙げるなど、徐々に力を付けていった。

ナ・リーグが12球団に拡張し、東西2地区制となった初年度の1969年には100勝62敗で初の地区優勝。アトランタ・ブレーブスとのチャンピオンシップシリーズを3連勝で勝ち抜いてリーグ優勝、そして不利が予想されたワールドシリーズでも、レギュラーシーズン109勝53敗のボルチモア・オリオールズを4勝1敗で破り、ワールドチャンピオンに輝いた。このお荷物球団のまさかの快進撃は「ミラクルメッツ(Miracle Mets)」と称された。世界一になったことを受け、優勝パレード当日の天気予報はニューヨークの天気を「晴れ、ところにより紙吹雪」と粋に祝福した。

2度目の世界一

1972年にホッジスの死後、ヨギ・ベラが監督となって1973年に再び地区優勝・リーグ優勝を成し遂げるが、ワールドシリーズでは当時三連覇を果たしていたオークランド・アスレチックスに敗れた。その後はしばらく低迷するが、1986年には日本の読売ジャイアンツでもプレーしたデーブ・ジョンソンを監督として迎え、2度目のワールドチャンピオンとなった。安定した投手陣、ソツない打線でぶっちぎりの優勝。エースにはドワイト・グッデン1984年の新人王)、主砲にはダリル・ストロベリー1983年の新人王)など若い世代の選手達が活躍した年でもあった。ワールドシリーズでは、ボストン・レッドソックスに2勝3敗、敗北まで「あと1球」と追い込まれながらも逆転優勝を掴み、「ミラクルメッツ」または「アメージング・メッツ(Amazing Mets)」と呼ばれた。その後は、1988年に地区優勝を果たしたものの、リーグ優勝決定シリーズで、大方有利の予想ながらドジャースに敗れた。それ以後は低迷し、1991年から6年連続で負け越し、1993年には26年ぶりに負け数が100を上回った。

サブウェイ・シリーズ

1996年シーズン途中からボビー・バレンタインが監督に就任。1997年に7年ぶりに勝ち越し。1998年前々年に同一リーグでノーヒット・ノーランを達成し日米野球第2戦で同時先発出場したソウルオリンピック野球日本代表野茂・2006 ワールド・ベースボール・クラシック・イタリア代表にもなるマイク・ピアザのドジャース多国籍バッテリーを獲得した。野茂が退団、吉井が残留した1999年にはシンシナティ・レッズの本拠地リバーフロント・スタジアムでのメジャーリーグベースボールワンゲームプレイオフに5-0で圧勝し、ワイルドカードでポストシーズン進出を果た。ディビジョンシリーズアリゾナ・ダイヤモンドバックスを破るが、リーグチャンピオンシップシリーズアトランタ・ブレーブスに敗退、2000年も前年に続きワイルドカードでプレーオフへ進出。順当に勝ち、ワールドシリーズへ進出したが、相手は同じニューヨークの球団・ヤンキースだった。インターリーグにおいてメッツ対ヤンキースの対戦カードをサブウェイ・シリーズと呼ぶが、これがワールドシリーズでは初めてのサブウェイ・シリーズ[2]となった。メッツは全くヤンキースに歯が立たず、敗退した。なお、このシリーズではメッツの主砲ピアザの折れたバットがヤンキースの主戦投手、ロジャー・クレメンスの近くに飛び、クレメンスが拾ったバットをピアザの方に投げたことで両軍騒然となり、以後もこの両者には遺恨が残った。

その後2001年には新庄剛志がFAで移籍し、守備力は強化されたが、翌2002年に新庄は放出され(新庄はその翌年の2003年に1年のみ復帰)、逆にモー・ボーンロベルト・アロマージェロミー・バーニッツロジャー・セデーニョら大物を続々と補強したが、75勝86敗と6年ぶりに負け越した。大リーグで2番目の年俸総額が揶揄され「1億2,000万ドルの間違い」と酷評された[3]2004年には前年に10代の若さでメジャーデビューしたホセ・レイエスを二塁へコンバートして松井稼頭央を獲得したが活躍できずに終わり2006年シーズン途中にコロラド・ロッキーズへ放出された。また2004年シーズン途中にスコット・カズミアーをトレードで放出したが、その直後にメジャーデビューを果たしタンパベイ・レイズのエースとなってしまった。一方でデビッド・ライトホセ・レイエスの三遊間コンビが頭角を現していった。

2005年にGMにオマー・ミナヤが、監督にウィリー・ランドルフがそれぞれ就任し、チームは力をつけていった。FAペドロ・マルティネスカルロス・ベルトランを大型契約で獲得、83勝79敗と5年ぶりに勝ち越した。オフにフロリダ・マーリンズからカルロス・デルガドポール・ロデューカを、フィラデルフィア・フィリーズからビリー・ワグナーを獲得。迎えた2006年は18年ぶりの地区優勝を果たしたが、リーグチャンピオンシップシリーズセントルイス・カージナルスに敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。前年の主力の多くが残留し、モイゼス・アルールイス・カスティーヨが加わった2007年は序盤から好調で2年連続の地区優勝が確実視されたが9月の終盤戦で失速、シェイ・スタジアムで行われたレギュラーシーズン最終戦でマーリンズに敗れ、1ゲーム差でフィリーズに地区優勝を奪われた。残り17試合で7ゲーム差を付けながら逆転で優勝を逃したのはMLB史上初の出来事だった。

2008年2月にヨハン・サンタナを6年総額1億3750万ドルと球団史上最高金額で獲得し、巻き返しが期待されたが序盤は低迷、6月17日にランドルフ監督が解任され、ジェリー・マニエルが監督代行に就任した。監督交代後は10連勝を飾るなど巻き返しに成功し、一時単独首位に立つが9月にフィリーズにかわされ2位へと転落した。9月28日、この年限りで閉場するシェイ・スタジアムで行われたレギュラーシーズン最終戦でまたもマーリンズに敗れ、1ゲーム差でミルウォーキー・ブルワーズワイルドカードを奪われた。

2008年シーズン終了後に本拠地シェイ・スタジアムは解体、隣に建てられた45000人収容の新球場のシティ・フィールドが新本拠地となった。同じくヤンキースも2008年シーズン終了後に新球場に移転した。このため、シェイ・スタジアムのラストイヤーとなった2008年は、前年度(約385万人)より大幅にチケットの売り上げが伸び、ナ・リーグの球団としては1993年のコロラド・ロッキーズ以来となるシーズン入場者数400万人(約404万人)を達成することとなった。またレギュラーシーズンにおける平均入場者数も5万人を超え、これもナ・リーグの球団としては1994年のロッキーズ以来のこととなった。

2013年のサブウェイシリーズでヤンキースに球団史上初のスウィープ(同一カードを全勝すること)を果たした。

快進撃

2015年シーズンはレギュラーの野手8人のうち、今シーズンの途中にタイガースから新加入したレフトのヨエニス・セスペデスと昨シーズン、サブウェイ・シリーズのライバル・ヤンキースから加入したライトのグランダーソン以外が生え抜きで構成され[4]、投手に至っては前年の新人王ジェイコブ・デグロムが14勝、2013年のオールスターゲームで先発したマット・ハービーが13勝、ルーキーのノア・シンダーガードが9勝と生え抜き投手が力をつけ、42歳のバートロ・コローンが31イニング連続無失点を記録し、サイ・ヤングの持っていた42歳以上における連続イニング無失点記録を4イニング更新する頑張りと、マイナー時代から培ってきた競争力と団結力を武器に2008年以来の10連勝、さらに4月23日のブレーブス戦にも勝利し、1990年以来25年ぶりで球団史上タイ記録の11連勝を果たしたが、その後やや失速し一時は地区連覇を狙うナショナルズに首位の座を明け渡してしまう。しかし7月31日から行われたそのナショナルズとの首位攻防戦をスウィープするとそこから7連勝。一気に勢いづき、2006年以来9年ぶりのナショナルリーグ東地区優勝を果たした。9年ぶりのポストシーズンではドジャースとのナショナルリーグディビジョンシリーズ第2戦でチェイス・アトリーの激しい併殺崩しスライディングでセカンドのルーベン・テハダが故障で退場するなどもあったが、2015年10月12日の第3戦では13-7と、ポストシーズンにおけるチーム記録の13点を奪い大勝した。リーグチャンピオンシップシリーズでは、ポストシーズンに入るまで1度も勝つ事が出来なかったシカゴ・カブスとの対戦となったが、チームはこれまでとは全く違う勢いで4連勝した。しかも、マーフィーがドジャースとのディビジョンシリーズ第4戦から6試合連続ホームランというMLBのポストシーズン史上最長を記録する等カブスをスウィープし、15年ぶりのワールドシリーズ進出を決めた。中5日で迎えたワールドシリーズでは、カンザスシティ・ロイヤルズと対戦するも、カブスをスウィープした事で試合勘が鈍ったのか中3日で迎えたロイヤルズのホーム・カンザスシティで連敗した。舞台を地元・ニューヨークに移しても第3戦に勝つのが精一杯で、結局は1勝4敗で敗退した。その要因として第1戦ではポストシーズンで5回のセーブ機会を全て成功し、しかも無失点だったジェウリス・ファミリアが第1戦の9回裏に1死からアレックス・ゴードンに同点ホームランを打たれ、第4戦では8回表に後述するセカンドのマーフィーに、第5戦ではファーストのデューダにそれぞれ足を引っ張られて被弾しセーブ機会を全て失敗した。カンザスシティでの初戦で延長14回にサードを守るキャプテンのライトが送球エラーでその後のサヨナラ負けに繋がり、本拠地での第4戦では8回にセカンドのマーフィーが同点のタイムリーエラーを犯し、3-5と2点ビハインドの状況だった9回裏1アウト1塁・2塁と一発が出れば逆転サヨナラとなる場面で迎えた5番・デューダの打席で打球はサード・ムスタカスの正面に飛ぶライナー。さほど強くないライナーだったにも関わらずファーストランナーのセスペデスが戻り切れずにダブルプレーを喫してゲームオーバーに。後がなくなった第5戦では9回表の1死3塁の場面で、打球はライトへのゴロ。その際ライトがファーストへの送球態勢に入ったと同時にエリック・ホズマーがギャンブルスタートを仕掛け、ホズマーを刺そうとしたファースト・デューダが悪送球をしてしまい同点と、ワールドシリーズにおいて守備や走塁でミスを犯す等、リードした時期がありながらそのリードを自ら吐いてしまい4敗全て逆転負けを喫する羽目となった。オフにはダニエル・マーフィーがFAとなり、同地区のナショナルズへ移籍した。

2016年は87勝と健闘したものの、ベテラン監督ダスティ・ベイカーやMVP級の活躍のダニエル・マーフィーなどを補強したナショナルズが地区首位を独走し、メッツはワイルドカードでのプレーオフ進出となった。本拠地で開催されたサンフランシスコ・ジャイアンツとのワイルドカードゲームでは8回までスコア0-0だったものの9回表にクローザーのジェウリス・ファミリアコナー・ガレスピーに3点本塁打を打たれ、相手先発のマディソン・バンガーナーには完封を許して敗退した。オフにはFAとなったヨエニス・セスペデスがFAとなったが4年1億1000万ドルで残留し、ここ3年間で44勝を記録していたバートロ・コローンアトランタ・ブレーブスに移籍した。

選手名鑑

現役選手・監督・コーチ

テンプレート:New York Mets roster

殿堂表彰者

選手
監督・球団関係者

永久欠番

ファイル:Citi Field Retired Numbers 2012.png
メッツの永久欠番。左からステンゲル、ホッジス、シーバー、ロビンソン、シェイ(2012年時点)

ニューヨーク・メッツ殿堂

ファイル:Mets Hall of Fame.JPG
メッツ殿堂のプラーク

1981年に設立され、27人が殿堂入りを果たしている。

殿堂入り表彰者


傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ 提携 本拠地
AAA ラスベガス・フィフティワンズ
Las Vegas 51s
パシフィック・コーストリーグ
Pacific Coast League
2013年 アメリカ合衆国の旗ネバダ州ラスベガス
キャッシュマン・フィールド
AA ビンガムトン・ランブルポニーズ
Binghamton Rumble Ponies
イースタンリーグ
Eastern League
1991年 アメリカ合衆国の旗ニューヨーク州ビンガムトン
NYSEGスタジアム
A+ セントルーシー・メッツ
St. Lucie Mets
フロリダ・ステートリーグ
Florida State League
1988年 アメリカ合衆国の旗フロリダ州ポートセントルーシー
トラディション・フィールド
A コロンビア・ファイヤーフライズ
Columbia Fireflies
サウス・アトランティックリーグ
South Atlantic League
2007年 アメリカ合衆国の旗サウスカロライナ州コロンビア
スピリット・コミュニケーションズ・パーク
A- ブルックリン・サイクロンズ
Brooklyn Cyclones
ニューヨーク・ペンリーグ
New York-Penn League
2001年 アメリカ合衆国の旗ニューヨーク州ニューヨークブルックリン
MCUパーク
Rookie+ キングスポート・メッツ
Kingsport Mets
アパラチアンリーグ
Appalachian League
1980年 アメリカ合衆国の旗テネシー州キングスポート
ハンター・ライト・スタジアム
Rookie ガルフ・コーストリーグ・メッツ
Gulf Coast League Mets
ガルフ・コーストリーグ
Gulf Coast League
1988年 アメリカ合衆国の旗フロリダ州ポートセントルーシー
トラディション・フィールド
ドミニカン・サマーリーグ・メッツ
Dominican Summer League Mets
ドミニカン・サマーリーグ
Dominican Summer League
2001年 ドミニカ共和国の旗ドミニカ共和国
メッツ・アカデミー

脚注

  1. 「MLBキテレツ紳士録 第47回ケーシー・ステンゲル」『月刊スラッガー』 2007年5月号
  2. ただし、ドジャース、ジャイアンツがニューヨークに本拠地を置いていた当時のヤンキース対ドジャースまたはジャイアンツのワールドシリーズは「サブウェイ・シリーズ」と呼ばれていたことはあった。
  3. 『月刊メジャーリーグ』 43頁、2004年3月号 雑誌08625-3
  4. キャッチャーのトラビス・ダーノー、ファーストのルーカス・ドゥーダ、セカンドのダニエル・マーフィー、サードでキャプテンのデビッド・ライト、一時は7月29日にブルワーズのカルロス・ゴメスとのトレードを報じられながらその後破談したショートのウィルマー・フローレス、センターのフアン・ラガーレス

関連項目

外部リンク

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