ハンガリー王国

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ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、ハンガリー語: Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。

歴史

王国のはじまり

955年レヒフェルトの戦いに敗れたマジャール人たちは、戦後当初、外交的には東ローマ帝国(ビザンツ)、ブルガリア帝国、あるいはルーシ(キエフ大公国)などと結びつく道もあったが、大首長のハンガリー大公ゲーザEnglish版は、973年神聖ローマ皇帝に依頼して宣教師を派遣させ、マジャール人へのキリスト教布教を認めた[1]。ゲーザの子ヴァイクは985年プラハの聖アダルバートから洗礼を受け、イシュトヴァーンの洗礼名を授けられた[1]。イシュトヴァーンは997年、父ゲーザの死を受けて大首長となり、各地に軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日[注釈 1]ローマ教皇シルウェステル2世から授かった冠を用いて、ハンガリー王イシュトヴァーン1世としてエステルゴムで戴冠式を行った[1]。こうして、正式にハンガリー王国が発足した。以後、その一族であるアールパード朝による統治が300年続いた。

以後、ハンガリー王国は北部のスロヴァキアモラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにルーマニアトランシルヴァニアにも勢力を伸ばした。この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。この時代の領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。このためハンガリー王となるものは聖イシュトヴァーンの王冠を頂く者であるという概念が生まれた。

1240年にはモンゴル帝国バトゥによる侵略を受け、甚大な被害をうけた(モンゴルのポーランド侵攻)。この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した。その例として、シビウブラショフビストリツァコシツェなどが挙げられる。

ハプスブルクとオスマン

その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年ナポリ王国アンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。一方、14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。

15世紀にはトランシルヴァニア貴族のフニャディ家English版マーチャーシュ1世が中小貴族の圧倒的支持を受けて国王に即位し、常備軍を維持して強盛を極めた[2]。しかし、ハンガリーはオスマン帝国の脅威に常にさらされていた。1526年モハーチの戦いではボヘミア王を兼ねたハンガリー王ラヨシュ2世(ルドヴィク)が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した[3]。こうして、王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公ハプスブルク家が継承することになった[3]。しかし、ボヘミアとハンガリーの貴族は、ラヨシュ2世の姉の夫であるオーストリア大公フェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)を国王に迎えることには強く抵抗した[4]。ボヘミアではほどなくしてフェルディナントを国王に選出したが、ハンガリーではポジョニ(ブラチスラヴァ)でフェルディナントが国王に選出されたとき、すでにトランシルヴァニア出身の大領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー国王としてハンガリー貴族たちの支持を受けて選出されていた[4]。こうしたなか、1529年、オスマン帝国によって第一次ウィーン包囲が起こっている[4]

ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配され、両国の係争地となった[4]

1683年第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった[5]。これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動(ラーコーツィの独立戦争)が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された[5]

二重制の時代

19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。

1848年2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。

しかし1866年プロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。

これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した[6]。これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる[6]。ハンガリー王国はオーストリア=ハンガリー二重帝国一翼を担う存在に位置づけられた[6]。王国内には独自の内閣や議会も置かれ、ハプスブルク家に対するハンガリーの影響力は強まったのである[6]

19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペスト地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。

王国の終焉

1914年第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は中央同盟の一翼を担い戦ったが、1918年に敗北した。11月16日カーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立した。しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。

1918年、二重帝国は崩壊し、1919年、ハンガリー革命にともなうハンガリー民主共和国の成立により王国は消滅した[7]

歴代国王

参照: ハンガリー国王一覧

アールパード朝が300年(王国成立以前を含めれば400年)続いた後、13世紀末に断絶するが、その後はアールパード家の血を引く王位請求者による抗争を経て、1308年以降は選挙王制となる。14世紀にはほぼアンジュー朝の統治が続いたが、その断絶後はルクセンブルク家ハプスブルク家フニャディ家ヤギェウォ家の間を王位が変遷した。

1526年以降はハプスブルク家が王位をほぼ独占し(ただし当初は対立王がいた)、同家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。彼女の夫フランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王などではなかった。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったためサリカ法典により神聖ローマ皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。法的にはマリア・テレジアのハンガリー王継承はカール6世1713年に発した国事勅書によるものである。

首都

1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァが首都になったのは、バルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。

年譜

ファイル:Location-Kingdom-of-Hungary.png
1914年当時のハンガリー王国

統治地域

参照: ハンガリー王国の歴史的地域

現在のハンガリー共和国とは異なる。現在の共和国領全域に加え

がハンガリー王国の最大領域であった。

王国の残した問題

ハンガリー王国はかつてのその広大な領域に数多くのマジャール人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビアモンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャール人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。

例として、ヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。また、1989年に起こったルーマニア革命も、発端はルーマニアのマジャール人問題であった。

脚注

注釈

  1. 1001年1月1日とする説もある。

出典

参考文献

  • コーシュ・カーロイ 『トランシルヴァニア その歴史と文化』 田代文雄(監訳)、奥山裕之山本明代訳、恒文社、1991年9月。ISBN 4-7704-0743-2。
  • 『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚信吾(編)、山川出版社〈新版 世界各国史19〉、1999年3月。ISBN 4-634-41490-7。
    • 薩摩秀登 「第1章 ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚(編)、1999年。ISBN 4-634-41490-7。
    • 鈴木広和 「第2章 繁栄と危機」『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚(編)、1999年。ISBN 4-634-41490-7。
    • 戸谷浩 「第3章 ハプスブルクとオスマン」『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚(編)、1999年。ISBN 4-634-41490-7。
    • 小沢弘明 「第6章 二重制の時代」『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚(編)、1999年。ISBN 4-634-41490-7。
    • 林忠行 「第6章 二重制の時代」『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚(編)、1999年。ISBN 4-634-41490-7。

関連項目

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