バイエルン王国

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バイエルン王国
Königreich Bayern
バイエルン王国の国旗 バイエルン王国の紋章
国旗 (紋章)

国歌 : バイエルン賛歌
ドイツ帝国内でのバイエルン王国の位置

首都 ミュンヘン
君主号 König
君主家 ヴィッテルスバッハ家
面積 75,865 km2
人口 6,176,057 人(1900年)
6,524,372 人(1910年)
人口密度 81
成立 バイエルン選帝侯の王位獲得(1806年)
消滅 ドイツ革命による君主制廃止(1918年)
以後バイエルン州
連邦参議院での投票権数 6
ナンバープレート II A,B,C,D,E,H,N,S,U,Z

バイエルン王国(バイエルンおうこく、ドイツ語: Königreich Bayern)は、バイエルン公国を起源として、19世紀初めから20世紀のドイツ革命まで存在したドイツ南部の王国ミュンヘン首都とし、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。

概要

バイエルン(アルトバイエルン)は1180年からヴィッテルスバッハ家が治めてきた。

1648年にバイエルン選帝侯領が成った。末期、公領は歳入に近い額の赤字を計上していた。1801年、ユダヤ金融業者のアーロン・エーリアス・ゼーリヒマンDeutsch版が300万グルデンを融資した。1803年に修道院を解散した。

後継のバイエルン王国は財政改革のあげく、ドイツ関税同盟のころから東方問題にかかわりだした。王国はドイツ連邦共和国バイエルン州の前身であり、同州のほぼ全域とヴィッテルスバッハ家が世襲してきたライン宮中伯領に由来するプファルツ地方[1]を領土としていた。

英語名に由来したバヴァリアの呼称が使われることもある。

王国の成立

1805年にプレスブルクの和約によってフランス帝国の同盟者であったバイエルン選帝侯マクシミリアン4世オーストリアからティロルを割譲される。しかし、ティロル人はこの決定を良しとせず、反乱に遭う。同年4月13日にティロル伯領の首府インスブルックの守備隊を降伏させて鎮圧の足がかりを得て、失敗を重ねながらも11月10日にインスブルックを占領。1806年、近隣の領土を併合した上でナポレオンによって王国に昇格され、マクシミリアン4世はバイエルン王マクシミリアン1世を名乗り、ライン同盟の一員となった。ライン同盟の成立により、神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位および帝国の解散を宣言する。これにより、名目上はバイエルンは独立国となる。元々バイエルンは対オーストリアのためにフランスと同盟することが多かったが、マクシミリアン1世は娘アウグステとナポレオンの継子ウジェーヌ・ド・ボアルネを結婚させ、結びつきを強めている。1808年に短い憲法を制定した。

1810年2月28日、フランスとパリ条約を結んだ。これによりオーストリアが放棄した旧ザルツブルク大司教領・ベルヒテスガーデン・イン地区・ハウスルック地区を獲得した。その他にバイロイト辺境伯領[2]レーゲンスブルク[3]をそれぞれ80万グルデンと310万グルデンでフランスから購入した。ナポレオン・ボナパルトはティロル反乱の原因をバイエルンによる統治に問題があるとし、バイエルンは南ティロルイタリア王国に、東ティロルイリュリア州に譲渡させられた。

1813年10月8日リート条約を結び対仏大同盟に参加した。前日にはマックス=ヨーゼフ・ペムゼルマクシミリアン・フォン・モンジュラカール・フィリップ・フォン・ヴレーデの3人がボーゲンハウゼン(天文台がある)に位置するモンジュラの別荘に集まり協議していた。マックスが強く反対していたが、ヴレーデ・モンジュラの2人が押し切った。この条約では、オーストリアはバイエルンの主権と領土の保全を保障し、バイエルンが自ら領土を引き渡すときには完全補償することを約束した。15日、バイエルン軍とオーストリア軍は合流してヴレーデの指揮下に入った。

1814年、自転車操業に陥っていた王国が春にデフォルトしてしまい、救世主のゼーリヒマンがアイヒタール男爵となった。ウィーン会議でバイエルン領は画定せず、オーストリアと直接交渉した。1815年にプファルツの一部を回収してドイツ連邦に参加した。領土は1816年4月のミュンヘン条約で画定した。ミュンヘン条約締結のきっかけは、両国がオーストリア皇后マリア・ルドヴィカの死をきっかけに対立関係の解消を企図したことである。11月、オーストリア皇帝フランツ1世はマクシミリアン1世の娘カロリーネ・アウグステと結婚した。1817年、教皇庁と政教協約を締結し王国の司教区を再編成した[4]

東方問題

1821年、25グルデンの直接国税を納める担保物権がない土地の保有が新貴族の要件として設定された。1825年に即位したルートヴィヒ1世は、いくつもの債権国とギリシア独立戦争を支援した。

1832年のロンドン条約により、国王ルートヴィヒ1世の次男オットーがオソン1世として一応の独立を果したギリシャの国王に即位した。3人の摂政もバイエルンから派遣された。ルートヴィッヒ・フォン・アーマンスベルクDeutsch版English版ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウラーDeutsch版English版カール・ヴィルヘルム・フォン・ハイデックDeutsch版English版である。オソンが成人する1835年まで、この3人が実権を握り中央集権を図った。

1837年、ミュンヘン鋳造所委員会がデグサのもとになるフランクフルト・アム・マインの貨幣鋳造所を認可した。1844年、ヘンリー・リーマンが移民としてアメリカへ渡った。バイエルンは合衆国に利権をもつオーストリアの銀行と関係を深めた。

1866年、3500万グルデンの公債発行。ディスコント・ゲゼルシャフトが引受を主導した。普墺戦争で敗北するものの、極僅かな領土の割譲と3千万グルデンの賠償金で講和し、南ドイツの盟主的存在となった。ドイツ帝国が成立する際プロイセン王国に次ぐ領邦となった。1885年、ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・バイエルンとその妻がバイエルンに定住した。

ドイツが第一次世界大戦に敗れると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、1918年ルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国は滅亡した。翌年には社会主義者によってバイエルン・レーテ共和国が立てられたが短命に終わった。

大戦の前後にわたってオスカル・フォン・ミラーがバイエルンの電力事業をプロデュースした。

1809年の宗教勅令より続くプロテスタントの国家教会制が1920年に消滅した。

歴代バイエルン国王

  1. マクシミリアン1世(1756年 - 1825年、在位:1806年 - 1825年)
    バイエルン選帝侯としてはマクシミリアン4世。最後の選帝侯
  2. ルートヴィヒ1世(1786年 - 1868年、在位:1825年 - 1848年)
    ローラ・モンテスとのスキャンダルにより退位。
  3. マクシミリアン2世(1811年 - 1864年、在位:1848年 - 1864年)
  4. ルートヴィヒ2世(1845年 - 1886年、在位:1864年 - 1886年)
    退位の翌日、シュタルンベルク湖畔において水死体で発見される。
  5. オットー1世(1848年 - 1916年、在位:1886年 - 1913年)
    兄ルートヴィヒ2世と同様に精神を病んでいたといわれる。1913年に廃位。
  6. ルートヴィヒ3世(1848年 - 1921年、在位:1913年 - 1918年)
    オットー1世の摂政を経て自ら即位。第一次世界大戦後の革命で退位。

バイエルン王国出身の人物

脚注

  1. ザールラント州ラインラント=プファルツ州の一部
  2. フランスがティルジットの和約プロイセン王国から獲得
  3. 領主カール・テオドール・フォン・ダールベルクには代替地としてフランクフルト大公国が与えられた
  4. 大司教区はミュンヘン・フライジングとバンベルクの二つ。その他六つの司教区が割り当てられた(アウクスブルク、レーゲンスブルク、パッサウ、ヴュルツブルク、アイヒシュテット、シュパイアー)。国王は、二人の大司教と六人の司教を指名できることになった。代わりに王国は司教区の財政を助けることにもなった。

関連項目

テンプレート:ドイツ帝国の構成国