バッキー・デント

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ラッセル・アール・デントRussell Earl "Bucky" Dent , 1951年11月25日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州サバンナ出身の元プロ野球選手遊撃手)。右投右打。

経歴

1970年6月の二次ドラフトでシカゴ・ホワイトソックスから1巡目指名を受け、プロ入り。1973年にメジャーデビューを果たし、翌年よりレギュラー遊撃手に定着。1977年にはラマー・ホイトオスカー・ギャンブルとの1対2のトレードによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、同年から2年連続の世界一に貢献。特に1978年は、後述するボストン・レッドソックスとのワンゲームプレーオフを含め誰もが予想だにしなかった猛打を振るい、ワールドシリーズではMVPを獲得した。その後テキサス・レンジャーズカンザスシティ・ロイヤルズを経て1984年に引退。

引退後は、ヤンキース傘下のAAA級コロンバスで監督、1989年8月18日から翌年途中までヤンキースの監督を務めた。その後は、セントルイス・カージナルスなど3球団でベンチコーチ、前後してロイヤルズ傘下のAAA級オマハ、再びコロンバスで監督を歴任。

現在は、自身の名前を冠した野球学校を経営している(外部リンク参照)。

1978年のワンゲームプレーオフ

この年、アメリカンリーグ東地区は、7月19日地点ではレッドソックスがヤンキースに14ゲーム差をつけて独走していたが、9月に失速。特に9月8日からの3日間、フェンウェイ・パークでの直接対決4連戦では4連勝を許してしまう(このとき、1770年アメリカ独立戦争の引き金となった同市での歴史的な事件になぞらえ、「ボストン虐殺事件」と言われた)。この間、ヤンキースはシーズン中盤での不調や主砲レジー・ジャクソンのトラブル及びビリー・マーチン監督解任によるゴタゴタが嘘のように勝ち出す。負けじとレッドソックスも食い下がり、ともに99勝63敗の同率首位でシーズンを終えていた。

そこで地区の覇者を決めるためのワンゲームプレーオフが設けられ、コイントスの結果フェンウェイ・パークで行われることとなった。そして10月2日、ヤンキースは中1日でエースのロン・ギドリー、レッドソックスはこの年16勝のマイク・トーレスが先発。試合はレッドソックスが2回裏にカール・ヤストレムスキーのソロ本塁打で先制、6回にはこの年本塁打と打点の二冠王に輝いたジム・ライスの適時打で2点差とした。トーレスに2安打に抑えられていたヤンキースは直後の7回表、1死からクリス・チャンブリスロイ・ホワイトがそれぞれ単打で出塁し、2死後打席にはこの年打率.242・4本塁打とお世辞にも打撃が期待できるとは言えないデントが立った。デントは2球目の自打球が左足を直撃し痛みにのたうち回っていたが、その次の3球目の内角への速球を強振し、打球は左翼のグリーンモンスターを越えて逆転の3点本塁打となった。この回さらにサーマン・マンソンの2塁打で1点、さらに8回にはジャクソンのソロで5-2とした。その裏、前の回の途中より登板の2番手リッチ・ゴセージが2点を失い1点差とされたがその後は踏ん張り、5-4でアメリカンリーグ東地区優勝を決めた[1]

詳細情報

背番号

  • 30 (1973年 - 1976年)
  • 20 (1977年 - 1982年, 1989年 - 2001年)
  • 7 (1982年 - 1983年, 2006年 - 2007年)
  • 21 (1984年)

脚注

外部リンク

テンプレート:ニューヨーク・ヤンキース歴代監督 テンプレート:1977 ニューヨーク・ヤンキース テンプレート:1978 ニューヨーク・ヤンキース テンプレート:ワールドシリーズMVP テンプレート:ベーブ・ルース賞