バッシャール・アル=アサド

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ハーフィズ・アル=アサドと家族。後列左から二人目がバッシャール、中央が事故死した兄バースィル

バッシャール・ハーフィズ・アル=アサドアラビア語: بشار حافظ الأسد‎, Baššār Ḥāfiẓ al-ʾAsad, 1965年9月11日 - )は、シリア大統領(在任2000年 - )、バアス党地域指導部書記長。宗教的にはアラウィー派に属す。前任のハーフィズ・アル=アサド大統領の次男。日本の報道機関ではバッシャール・アサドと表記される。

経歴

生い立ち

ハーフィズ・アル=アサドの次男としてダマスカスに生まれた。幼少の頃に父がクーデターでシリアの全権を掌握するなど、政治は常に身近な所にあったが、兄弟や姉と異なり本人は政治や軍事への関心は少なく、控えめで穏やかな人間として育ち、父とは政治の話をしたことがなかったという。

学校時代は優秀で模範的な生徒だった。ダマスカス大学医学部を卒業後は軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修していたが、当時も政治への関心は人並み程度だった。なおこの頃、後の妻アスマー・アル=アサドと出会っている。彼女は英国で生まれ育ったスンニ派シリア人で、ロンドン大学キングス・カレッジを卒業後JPモルガンEnglish版の投資銀行部門でM&Aを手がけるキャリアウーマンだった。ファッション誌『ヴォーグ』では、「優雅で若く、同国の改革の象徴」などと紹介され、英王室ダイアナ元妃になぞらえ、「中東のダイアナ」とまで称賛された。記事のタイトルには「砂漠のバラ」と冠されている[1]

後継者へ

一族で後継者とみなされていたのは、兄でハーフィズ・アル=アサドの長男にあたるバースィル・アル=アサドالعربية版English版である。しかしバースィル少佐が交通事故で事故死したことから、やむを得ず留学を中断、シリアに帰国して後継者となった。このことに関する2つの逸話として、父ハーフィズに電話で「バースィル兄さんが志した道を歩む」と後継者になる決意を述べた。あるいは、周囲の親しい人々には「別に大統領になりたいわけでは無い」とも語ったとされる。

権力の掌握

しかし、すでに職業軍人として活躍していた父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された。それでも医務局付き大尉の肩書を持ち、軍医としての軍務経験を持っていたので、帰国後は再度シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局での勤務を経て1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学ぶなど、高級軍人としてのキャリアを歩むようになった。その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。

また、兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握し、さらに政治実績を積むためにレバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領の就任やサリーム・フッス首相の選出を後押ししてレバノン内政に介入した。このことが後の対レバノン関係に禍根を残すことになる。

1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリア政府の次期後継者として周辺国にアピールした。

腐敗との戦い

2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビーEnglish版首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムスタファー・ミールーEnglish版がバアス党大会で首相に指名され、3月14日にミールー内閣が発足した。この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の中堅・若手閣僚も含まれていた。今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣については情報・治安機関が人選を行っていたが、今回は実質的にバッシャールが人選を行った。

「腐敗との戦い」において最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。この事件についてはさまざまな説が飛び交い、数日前からズウビーの健康悪化や自殺未遂の噂が流れ、政権による暗殺との憶測も呼んだ。一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。

ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは体制内部の粛清と、綱紀粛正を進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。

大統領就任

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モスクワを訪問したバッシャール・アサド大統領とアスマ夫人(2005年1月)
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ダマスカスの旧市街の壁に描かれたバッシャールと、彼の「神がシリアを守る」という言葉(2006年)
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ラタキアで行われたバッシャール・アサド支持派の集会
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シリアからの移民によって開かれたアサド大統領を支持する集会(オーストラリアシドニー、2011年)

2000年6月10日に父ハーフィズが死去すると翌日陸軍大将に昇進、軍最高司令官に任命され、6月18日にはバアス党書記長に就任。7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任した。

2001年にはアスマー・アル=アサドと結婚した。スンニ派の夫人は、アサド父子の出身母体である少数派のアラウィー派による最大宗派のスンニ派支配というイメージを払拭することが期待された。また英国育ちでもある彼女は、とかく閉鎖的な印象をもたれがちなシリアを西側諸国にアピールするスポークスマンとしての役割をも果たしてきた。

バッシャールは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いためあまり国政で主導権を握ることはせず、もっぱらハーフィズ時代以来の首脳が政務を行っているのが政権の実態である。憲法で承認された絶大な大統領権力はバッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。2007年5月には大統領に再任された。

2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア内戦として飛び火し、批判の矛先はシリアの国家元首であるバッシャールにも向けられることとなった。反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を企図したため、多数の死者を出すこととなった。このことにより国際社会からの批判も高まっているが、いまだ解決の糸口は見えていない。騒乱が内戦となって長期化するなか、欧米に支援された自由シリア軍シリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行う過激派組織ISILアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、シリア国内では少数派ムスリム(アラウィー派ドゥルーズ派十二イマーム派など)やキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も決して少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や、独立を望む各地のクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している[2][3]。2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された[4]

独裁者・外交関係

米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれている。ブッシュ前政権は、シリア封じ込め策をとっていた。アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、欧米から「テロ支援国家」と名指しされている。

2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリーレバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的な圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。

イスラム協力機構アラブ連盟から追放されるまでスンニ派諸国と対立する一方で、先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコイラクとの関係を劇的に改善しているため、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めていることがうかがえる。

ただ、2009年オバマ政権発足直後からアメリカが上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎しており、若干対米関係を修復させる態度を示している。

日本では2011年(平成23年)9月9日に、バッシャールが資産凍結の対象者となった[5]

2017年4月6日 米軍はシリアに対して「化学兵器を使用した報復」として、トマホークミサイル59発を使用してアサド政権軍の空軍基地に対するミサイル攻撃を実施した。 これはトランプ政権の、軍事介入に慎重だった前オバマ政権との違いをアピールした物と見られており、シリアとアメリカの関係悪化が懸念される。

2017年4月、AFPでのインタビューで、シリアで起きた化学兵器攻撃への関与を否定した。「テロリストと結託しているという我々の印象は米国を中心とする西側諸国がミサイル攻撃の口実を得るために作ったものだ。」と反論した。国連内では「世界のあらゆる首都で計画されている陰謀の一部」と主張した。[6]

画像

脚注

  1. 巧妙メディア戦略…「砂漠のバラ」と呼ばれたシリア大統領夫人の"虚像" - 『産経新聞』2012/7/1
  2. 山田敏弘 (2012年3月14日). “メディアが伝えないシリア国民の本音”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/04/post-2504.php . 2013-9-7閲覧. 
  3. “シリア内戦――近隣諸国の事情”. CNN. http://www.cnn.co.jp/special/interactive/35036542.html . 2013-9-7閲覧. 
  4. “シリア大統領選で、アサド氏の再選に国民が歓喜”. イルナー通信. IRIB. (2014年6月5日). http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/45694-シリア大統領選で、アサド氏の再選に国民が歓喜 . 2014-6-6閲覧. 
  5. 2011年(平成23年)9月9日外務省告示第315号「国際平和のための国際的な努力に我が国として寄与するために講ずる資産凍結等の措置の対象となるシリアのアル・アサド大統領及びその関係者等を指定する件」
  6. アサド大統領がシリアでの化学攻撃を否定』 2017年4月21日 Onebox News

関連項目

外部リンク

公職
先代:
ハーフィズ・アル=アサド
Flag of Syria.svg シリア大統領
2000年 -
次代:
現職