フェラーラ

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フェラーラフェッラーライタリア語: Ferrara)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約13万人の基礎自治体コムーネ)。フェラーラ県県都である。

14世紀、この地を治めたエステ家によって整備され、ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えた。エステ家の居城エステ城が一般に公開されている。1995年にはフェラーラのルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されている。

地理

位置・広がり

ファイル:Ferrara mappa.png
フェラーラ県概略図


フェラーラ県西部に所在する都市で、州都ボローニャの北東約44km、パドヴァの南南西約66km、ヴェネツィアの南西87km、ヴェローナの南東約87kmに位置する[1]アドリア海に面したコマッキオは東に47kmの距離にある[1]。また、市街の北約5kmにポー川が流れており[1]ヴェネト州ロヴィーゴ県)との境界になっている。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。BOはボローニャ県、ROはロヴィーゴ県所属を示す。

市街

ポー川の支流ヴォラーノ川流域にあるフェラーラ14世紀エステ家によって整備された。ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えたが、エステ家は1598年、フェラーラから追放され、フェラーラは教皇領に編入される。

歴史

フェラーラの発祥は定かでない。一部の者はここに古代のフォルム・アリエニ(Forum Alieni)があったと主張しているが、おそらくポー川河口の潟の住民らが移住してきたのが始まりだろう。そこには2つの初期定住地があった。一つには聖堂があった[2]。もう一つはカストルム・ビザンティノ(castrum bizantino)といい、対岸のサン・ピエトロ地区になった。フェラーラが最初に記録に現れるのは、7世紀にラヴェンナ総督府の一部となってからである。8世紀にはカール大帝に征服され教皇国家の一部となった。984年にはカノッサ・モデナ伯のテダルド・ディ・カノッサマティルデ・ディ・カノッサの祖父)に封された。のちには自治都市となり、1101年にはマティルデ・ディ・カノッサ軍に包囲されている。この時、主に数家ある豪族(アデラルディ家など)に支配されていた。

エステ家

1146年、アデラルディ家最後の主グリエルモ2世アデラルディが死ぬと、その財産は姪マルケセッラの夫オビッツォ1世デステへと継承された。その後、新たに入ってきたエステ家と地元貴族らの軋轢が表面化する。オビッツォ2世デステが1264年に民衆の支持を得て、フェラーラを正式に自身のシニョリーアとした。1289年にはモデナのシニョーリに選ばれ、翌1290年にはレッジョ領主にもなった。

1393年にフェラーラ侯となったニッコロ3世・デステローマ教皇に重用された。特にエウゲニウス4世はフェラーラで公会議を開催した。ニッコロ3世の子ボルソ・デステは1452年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、帝国封土としてボルソをモデナとレッジョの公とした。1471年、ボルソは教皇パウルス2世によってフェラーラ公とされ、フェラーラ公国が成立した。エルコレ1世・デステヴェネツィア共和国とのフェラーラ戦争italiano版English版1482年 - 1484年)に参加して敗北したが、1484年に「バニョーロの和議」(イタリア語: Pace di Bagnolo)を締結することに成功して町の破壊を免れたため、フェラーラはさらに繁栄していく。エルコレ1世は、メディチ家以後の15世紀後半から16世紀前半にかけての芸術後援者の一人であり、フェラーラは特に音楽で名声高い文化都市となった。フェラーラにヨーロッパ各国から音楽家が集まってきた。ジョスカン・デ・プレは宮廷で働き、ヤーコプ・オブレヒトは2度フェラーラを訪問した。アントワーヌ・ブリュメルは1505年以後、宮廷第一の音楽家であった。エルコレ1世の子アルフォンソ1世・デステも同様に音楽家を保護した。彼は器楽曲を好んだので、フェラーラではリュートが盛んになった。

アルフォンソ1世はボルジア家ルクレツィアを妻に迎え、ヴェネツィアとの戦いを続行しこれに勝利した。1509年に彼は教皇ユリウス2世から破門されるが、1512年にラヴェンナ包囲戦に勝利している。エルコレ2世・デステはフランス王女ルネと結婚、彼の時代もさらに繁栄が続いた。

1559年に公位についたアルフォンソ2世・デステは、トルクアート・タッソ、哲学者チェーザレ・クレモニーニの後援者として知られる。彼はフェラーラの地位を最高に高めた人物であったが、3度の結婚で嫡子を残すことができず、1597年に教皇クレメンス8世によってコマッキオと同様に後継者不在の封土を返還要求されることになる。庶系のフェラーラ公チェーザレ・デステを教皇と皇帝ルドルフ2世は認めず、1598年にフェラーラ公国は教皇領となった。

1796年フランスに占領され、チスパダーナ共和国の一部となり、翌年にはチザルピーナ共和国となった。フランス撤退後は教皇領に戻り、1859年サルデーニャ王国に併合された。

地震

2012年5月のイタリア北部地震で被害を受けた。

みどころ

世界遺産 フェラーラ:
ルネサンス期の市街と
ポー川デルタ地帯
イタリア
英名 Ferrara, City of the Renaissance, and its Po Delta
仏名 Ferrare, ville de la Renaissance, et son delta du Pô
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3), (4), (5), (6)
登録年 1995年
拡張年 1999年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
表示
ファイル:Ferrara Cathedral 01.jpg
ゴシック様式の大聖堂

フェラーラは現在も、15世紀から16世紀にかけつくられた9km以上の市壁に囲まれている。歴史地区(特に、15世紀にエルコレ1世・デステが建設させた北地区)には、初期ルネサンス様式のテラコッタ装飾が施された宮殿・邸宅が多い。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

行政

行政区画

フェラーラには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Aguscello, Albarea, Baura, Boara, Borgo Scoline, Bova, Casaglia, Cassana, Castel Trivellino, Chiesuol del Fosso, Cocomaro di Cona, Cocomaro di Focomorto, Codrea, Cona, Contrapò, Corlo, Correggio, Denore, Focomorto, Francolino, Gaibana, Gaibanella Sant'Egidio, Malborghetto di Boara, Malborghetto di Correggio, Marrara, Mezzavia, Monestirolo, Montalbano, Parasacco, Pescara, Pontegradella, Pontelagoscuro, Ponte Travagli, Pontelagoscuro, Porotto, Porporana, Quartesana, Ravalle, Sabbioni, San Bartolomeo in Bosco, San Martino, Spinazzano, Torre della Fossa, Uccellino, Viconovo, Villanova

姉妹都市

交通

FSの鉄道駅としてフェラーラ駅が、パードヴァボローニャの途中にある。また、フェラーラ地下鉄が2006年に開通している。

高速道路はアウトストラーダ A13ラッコルド・アウトストラダーレ RA8が通っている。

スポーツ

サッカー

プロサッカークラブとしてSPAL(ソシエタ・ポリスポルティーヴァ・アルス・エト・ラボル)があり、2017-18シーズンはセリエAに所属している。アルス・エト・ラボル(Ars et Labor)はラテン語で「芸術と労働」の意。SPALはもともと1907年に創設された歴史あるクラブであるが、数度にわたり経営破綻を経験している。2013年の破綻時には県下のマージ・サン・ジャコメンゼ(マージ・トレッロ町)に本拠を置いていたACジャコメンゼ (A.C. Giacomenseと合併し、SPAL 2013として再建された。

人物

君主については「フェラーラとモデナの君主一覧」も参照のこと。

エステ家は芸術を庇護し、多くの画家や音楽家が集まった。画家についてはフェラーラ派も参照のこと。

著名な出身者

著名なエステ家の人物

ゆかりの人物

関連項目

その他のコムーネ:

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 2点間の直線距離を測る”. . 2014閲覧.
  2. The See was moved here from Vicohabentia (Voghenza) in 624 (Chronology of Catholic dioceses: Italy).

テンプレート:イタリアの世界遺産

テンプレート:フェラーラ県